33、震える手を重ねて
魔剣の銘は、死の先触れ(ティルヴィング)といった。
今より千年の昔、勇者の手にあったこの剣は悪魔を切り捨て、呪いを帯びたという。その逸話が事実であるにせよ、そうでないにせよ、剣は呪いの力を持って魂を傷つけることができる。
鋼の鎧よりもなお強固な大砂影を両断できたのも無防備な魂を切裂いたからに他ならない。
語り継がれてきた伝説は事実であり、ルーネの推測は見事に的中していた。剣の切っ先は間違いなく候補者の魂を貫き、死に至らしめた。
ヒデカツとルーネの作戦はひどくシンプルなものだった。
街を覆う気体の中から候補者は魂を見つけ出し、一撃で仕留める。
この教会に誘い込んだのは、魂を特定しやすくし、なおかつ候補者を決して逃さないためだ。
ティルヴィングは魂を傷つけることはできるが、やはり剣だ。致命傷でなければ、前回のように逃げられてしまう。
絶好の機会を待ったのは、候補者を確実に殺すため。勝利ではなく、殺すことを目的としてヒデカツはこの戦いに望んでいた。
覚悟は決めていた。そのつもりだった。
「――っ!」
柄を握る指は石になったように言うことをきかない。
剣を引き抜こうとしても、刺さった場所からほんの一ミリも動いてはくれなかった。
人を殺してしまった、その実感をヒデカツは嫌というほど味わっていた。
『……ああ、そうか、オレは――」
呆然と立ち尽くすヒデカツの眼前で、傷口を中心に霧の身体は一点へと収束していく。
魂を貫かれ、死に瀕したがゆえに元の形に戻ろうとしているのだ。
形のない気体が象るのは、人間の影。顔はなくとも、目の前にいるのは確かに人間だ。
「――また死ぬのか」
ヒデカツの鼓膜を男の声が震わせた。ひどく穏やかで静かな断末魔はあたりに響き渡った。
霧の中から現れたのはヒデカツとそう年齢の変わらない黒髪の男性、ヒデカツが殺したのはどこにでもいるような誰かだった。
「あの時と同じだ。寒くて、一人で……」
うつろな目で誰に言うでもなく、男は最期の瞬間を思い返す。
一度は味わったものだ、彼にとっては馴染み深いものではあった。
剣が貫いたのは、彼の胸部。
魂の傷は肉体へと連動する。魂を刃で貫かれたのなら肉体も同じように傷つく。
もってあと数秒、長くても一、二分の命だろう。
だが、その一瞬が彼には永遠のように思える。痛みは耐えがたく、自分で終わりにしようにも呼吸のまねごとをするのがやっと。唯一できたのは、目の前の敵に救いを求めることだけだ。
「……楽に……して……くれ……」
「…………ああ、わかった」
身勝手な願いをヒデカツは静かに受け入れる。
彼のやったことを考えればこの苦しみは当然の罰だ。罪のない命をいくつも奪っておいて、自分だけ楽にしてほしいなど道理が通らない。
けれど、この痛みをヒデカツは知っている。死の淵にあるどうしようもない絶望を、ヒデカツは知っている。
「――あばよ」
柄を両手で掴んで、一線を越える。かじかんだ指に無理やり力を込めて、剣を引き抜いた。
血液がはなて、ぼろぼろの敷物を汚す。瓦礫の上に、男は仰向きに倒れた。
「……っ」
動かなくなった男の前で、ヒデカツはひざを折る。
胸にせりあがってくるのは強烈な嫌悪感と恐怖。戦うと決めた時か、それ以上の恐れがヒデカツの心に重く圧し掛かっていた。
「……くそっ、覚悟はしてたはずだろうが」
自分を罵って、ヒデカツはこぼれそうになる涙をこらえる。
虫ならば殺したことはある。動物ならば砂の中を泳ぐ怪物をこの剣で切り裂いた。
人を殺すのはこれが初めてだ。
決して容易くはない。人間は何事にも慣れるものとはいうが、こんなものに慣れるなんてことは考えたくもない。
途端、手に持つ剣が汚らわしいものに思える。血で汚れた刀身は犯した罪そのもののようだった。
「……放せよ、このっ!」
剣を捨てようとしても、強く握り締めた指は一向に開くことはない。
戦いは終わったが、精神と肉体は極度の緊張状態を維持している。感覚は鋭敏で、筋肉は張り詰めたままだ。
目の前には変らず死体が転がっている。生きているときは自由自在に文字通り霧散していたというのに、死んでから決して動くことはない。
そんな当たり前のことでさえ、今は恐ろしかった。
「……オレは」
結局剣を手放すことはできず、ヒデカツは縋るように天使の像を見上げる。
物言わぬ偶像は決して許しをくれはしない。それはヒデカツにも分かっている。
この選択を後悔しているわけではない。何もせずに傍観していれば、この街の人間は皆殺しにされていたのは確かな事実だ。
だが、今は本当に自分が正しい事をしたのか確信が持てない。ヒデカツは自分で自分を正当化できるほど器用ではなかった。
「――旦那様!」
「……ルーネ?」
呆然としていると、ルーネの声が聖堂に響く。階段を駆け下りてきたのだろう、息を切らしていた。
駆け寄ることもできないし、大声を上げることもできない。押し寄せる感情をヒデカツは処理しきれていなかった。
「よかった、旦那様……ご無事だったのですね……」
「あ、ああ、そうだな」
涙を滲ませたルーネはヒデカツの生存を喜ぶ。
彼女にしてみれば、彼が生きているというだけでこの戦いは完全な勝利だった。
「……旦那様? その……お怪我でもなされましたか……?」
「い、いや、その、だ、大丈夫だ……問題ないよ、うん」
ルーネに心配され、ヒデカツは震える膝を叱咤する。いつまでも情けない姿をさらしているわけにはいかない。
勝者ならば勝者らしく振舞わなければならない。そうでなければ、敗者が浮かばれない。
「……旦那様、無理をなさらないでください」
「い、いや、オレは」
そのヒデカツの無理にルーネは気付いた。
引きつった表情と泣き出しそうな声、対人経験が乏しくともその程度のことは分かる。
ヒデカツにそうしてもらったように、ルーネもまたありのままの彼の心を受け入れようとしていた。
「……お手をお貸しください。大丈夫です、私に任せて」
「……っ」
動かない屍を一瞥して、ルーネはヒデカツの隣にゆっくりとひざまづく。それから、白魚のような指をヒデカツの右手に重ね合わせた。
ヒデカツの状態をルーネは本人よりも理解している。彼女も始めて人の命を奪ったときはこうなった。
指先の震えも、喉の渇きも、心の重さもよく憶えている。
「……一本一本、ゆっくり離していきましょう」
「……ああ、そうだな」
柄に触れないようにしながら、固まった指をルーネは解いていく。
剣の呪いはかつての主の子孫であるルーネにも容赦はしない。扱いは慎重を期さなければならなかった。
「大丈夫です……大丈夫……私はここにいます……」
それらの事情を鑑みても、ルーネの手つきには優しさが篭っている。母親が子供に向けるような無償の愛さえそこにはあった。
「……すまん」
「謝れることではありません。ヒデカツ様はすべきことをなされたのですから」
指が解けて、剣が床に転がる。カランという軽い音が鼓膜を打った。
それが切欠で、ヒデカツの身体から力が抜ける。罪が消えたわけではないが、少なくとも今は息をすることができた。
「……ヒデカツ様、私は頼りないかもしれませんが、それでもお傍にはいます……だから、その……」
「……その?」
躊躇いながらも、ルーネは両手を広げる。口にしてしまうのははしたないことのように思えたが、ヒデカツのためを思えば何のそのだ。
「わ、私の胸をお貸しします! 普通の方々は落ち込んだときはそうするそうですから!」
「え? お、おう?」
顔を赤らめながらそう宣言したルーネに、ヒデカツは思わず痛みを忘れた。
自分を慰めてくれようとしているのは分かる。その彼女の必死さがヒデカツには嬉しかった。
「ひ、ヒデカツ様? な、なにかおかしかったでしょうか?」
「……いや、なんでもないよ。じゃあ、頼む」
「は、はい、その、よろしくお願います」
ぎこちない動きのまま、互いに抱き合う。
焼け焦げて熱の篭ったヒデカツと死体のように冷たいルーネ。互いの命の感触を静かに確かめた。
罪が消えたわけではない。けれど、守れたものは確かにあった。ルーネの冷たさと頬を流れる涙が、それをヒデカツに教えてくれていた。




