23、屋根の上の遭遇
「……オレが見てくるよ。おまえさんらは上に隠れてな。嬢ちゃんはそっちの奥に」
誰に言われるでもなく店主はヒデカツとルーネにそう促す。異常を察したのか先ほどまで騒いでいたフェリアも大人しくしたがっていた。
店主の目付きは人の良い酒場の主ではなく、歴戦の戦士のそれに変っていた。
「いいのか? 巻き込まれるぞ」
「もうおせえよ。それに代金はもう貰ってるしな、元冒険者として仕事はきちんとやるさ」
「そうか……ありがとう」
短く礼を告げてから、ヒデカツはルーネを連れて二階へと続く階段に身を潜める。
一方的に様子をうかがうことはできないが、ここで息を殺していれば音を聞くことはできた。
「おいおい、みんなこんな朝っぱらからどうしたってんだ? しかも、こんな雨の降ってるときに。客なら歓迎だぜ?」
「……ここに魔女がいるのは知ってる。大人しく引き渡してくれ、アレン」
扉を開けた店主に若い男の声が答える。押し殺そうとしてはいるものの、そこには深い怒りが滲んでいた。
酒場の外には街の住人が十数人ほど押しかけてきている。同じ街の住人の経営する酒場だというのに扉を破って侵入してきそうな勢いだ。
昨日とは違い、急ごしらえではあるものの武器を携えているものさえ混じっていた。
「魔女? さあ、知らねえな……最近は誰も外に出ないせいですっかり商売上がったりでな、客はいねえんだ」
「イーサンがここに魔女とその仲間が飛び込んだのを窓から見たんだ」
「イーサン? ああ、うちの常連のあいつか。あいつはよく酒の飲み過ぎでおかしなもんを見るんだ。まさかとおもうが信じちゃいないよな?」
「……いいから差し出してくれ。今ならあんたは知らなかったですませられる」
すっとぼける店主に対して男は静かに詰め寄る。
背後からは怒鳴り声が響き、今にも争いになりそうなのは隠れているヒデカツたちにも理解できた。
「差し出せも何もなぁ……ここに魔女はいねえよ。いるのはせいぜいオレとネズミと昨日助けた怪我人だけだ」
「怪我人? そいつが魔女じゃないのか?」
「街の子供だよ。買出しに行こうとしたら倒れてたからここに運び込んだのさ。医者は死んじまったしな」
嘘は吐かずに店主は殺気だった群衆を押し止める。
そうしながらも、隠れているヒデカツたちに後ろ手で合図を送っているのだから大したものだ。
「……ルーネ、上で荷物を纏めておいてくれ」
「は、はい、分かりました」
店主の意図を察してヒデカツはルーネにそう耳打ちをする。
このまま店主が粘ったところでいずれは押し切られる。恐怖に駆られた群集は言葉だけでは決して収まらない。
ここにヒデカツとルーネがいれば荒事になるのは分かっている、そうなる前に逃げろというのが店主からの指示だった。
「ともかく、魔女がいないっていうならオレたちが中に入っても問題はないはずだ。入れてくれ」
「そいつは構わねえが……おまえら金は持ってるよな? うちに入るんなら一人一杯は飲んでもらうぞ」
数回のやり取りを経て、店主は折れてみせる。これ以上は粘りようがない。
所変わって二階では、既にヒデカツたちは窓から屋根へと移っていた。幸いにもというべきか、ほかの建物に遮られたおかげで下の人々に目撃されることはなかった。
「……まったく、こういうふうに逃げるのは好きじゃないんだがな」
愚痴をいいながらも、姿勢を低くしし、身を潜めて店の様子をうかがう。ここで上手く彼らをやり過ごせば、また中に戻ることも可能だろう。
「ど、どうしましょうか? や、やはり、街を立ち去ったほうが……」
「どうだろうな……無事に出口に辿り着ければいいが……」
ルーネと言葉を交わしながら、ヒデカツは考えをめぐらせる。
いつまでも迷ってはいられない。この街を立ち去るにせよ、あの候補者と戦うにせよ、決めるなら今だ。
「……これ着とくといい。風邪引いたら大変だしな」
「あ、その、あの、私、でも、旦那様のほうが」
「そういうときはただ、ありがとう、でいいんだ」
ルーネの肩に上着を掛けると、ヒデカツは屋内に向けて意識を集中させる。強化された聴覚ならば、屋根越しでも中の様子を把握することができた。
酒場の中では街の住人達が家捜しを始めている。かなり手荒なやり方をしているのは聞こえてくる騒音からして明らかだった。
「……ルーネはこの事件放っておけないと思うか?」
しばらくの沈黙の後、ヒデカツが口を開く。言葉にするのも悩ましいと言うのは声の調子からしても明らかだった。
「…………私は旦那様がなされることに従います。街を立ち去るなら一緒に……」
「オレが知りたいはの君一人ならどうするか、だ。答えてくれ」
そう迫った後で、ヒデカツは自身の優柔不断さを内心で罵った。
この問いかけには背中を押してもらう以上の意味はない。
自分の判断を間違っていないと思うためだけに他人を利用するのはヒデカツにとっては恥ずべきことだった。
降り続く雨が肩をぬらす。急激な温度変化には適応したというのに雨の冷たさを感じることができるのが、よけいに惨めだった。
「…………私はその……放っておきたくはありません……」
「……そうか、答えてくれてありがとう。無理を言って悪かったな」
だからといって、ルーネの言葉を軽く受け止めていいはずもない。わずか数日間の付き合いだが、彼女が自らの考えを口にしたのはこれが初めてだ。
「旦那様は、そのどうなされたいのですか? 私よりも旦那様のほうが……」
「オレか……オレは……」
問い返されて、ヒデカツは答えに窮する。
ことここにいたってなお、ヒデカツは心を決めきれていない。
考えても考えても答えは出ない。戦うか、あるいは逃げるか。単純に思える二つの選択肢の間には無限の隔たりがあるように思えた。
ここまで悩んでいる理由は分かっている。いっそ何もかも口にしてしまったほうが楽になれることも。
「……オレは、この街を――」
『――虫けらが、こんなところに隠れてやがったのか』
ヒデカツの言葉を遮ったのは、怒号ではなく脳内に響く声だ。
こうして心に呼びかける声をヒデカツはモリガンの声以外には知らない。だが、聞こえてきたのは間違いなく若い男の声だった。




