20、人間の魂
「……人間? あれがか?」
「は、はい、大きく広がって分散していましたけど……間違いなく魂は人間のものでした」
聞き返したヒデカツにルーネは頷く。心なしか彼女の表情は高揚しているように思えた。
肉体と魂、そして死についてならば自分以上に熟知している者はいないとルーネは自負している。事態の深刻さをわきにおけば、得意分野でヒデカツの役に立てることは彼女には喜ばしいことだった。
「どれだけ姿かたちを変化させても魂は偽れません。どのような存在であれば、生まれたときに人間の魂であれば人間のもののままのはずです」
「はずです?」
「げ、原則はそうなんです。でも、霧のなんて大きくて広いものに変化するのは……大魔術師でも……」
「どんくらいでかいんだ? 十メートルくらいか?」
ヒデカツは自分の思いつく基準で大きさを想像する。
いまこうして亀の上にいることを考えれば十メートルでもまだ控えめに思えたが、街の中を闊歩しているのなら最大でもそれくらいが限度に思えた。
「……この街全体をその魂が覆ってます。広がって分散してますが、この街をすっぽり覆うほどの霧に変化しているんだと思います……」
「……マジかよ」
だが、ルーネの答えはヒデカツの想像を上回るものだった。
アルディナの街はそう広くはないが、それでも端から端までは数百メートルはある。それをすっぽり覆うとなればあのガスの大きさは計り知れないものとなる。こうして、逃げ切れたのは奇跡としか言いようがない。
「わ、私の感知が機能しないのもおそらくはそのせいです。意識を集中しても靄がかかったみたいで……」
「それでもあの時は見えたんだろ? その、魂が」
「は、はい、巨大な手のような像が私たちの後を追ってきました……私達を追うために分散していた魂を一点に集めたんだと思います……」
「巨大な手……人間のでいいんだよな?」
「そ、そうです……強烈な悪意を感じましたから……それに殺意も……」
ルーネはそういうと寒気を感じたように体を抱え込む。あのときはヒデカツに抱えられていたおかげで気にならなかったが、思い返すと強烈な恐怖がやってくる。
無理もないだろう。”生命力”を吸収してしまう体質がゆえに魔物にさえ避けられてきた彼女にとっては初めて経験する明確な殺意だったのだから。
「あ……」
「……大丈夫か? きつかったら少し休んでも……」
震える肩に暖かな感触を覚える。ルーネに触れて顔を覗き込んでいるのはもちろんヒデカツだ。
彼にとっては年の離れた妹にするようなごく自然な行為だったが、ルーネには思わず呆けてしまうほどの心地よい一瞬だった。
先ほどまで感じていた恐怖や寒気は跡形もなく吹き飛んでしまっている。
「あ、いえ、大丈夫です、でも……その……できれば……」
「できれば?」
「その、あの、手を……握って……くださると……すごく心強くて……でも、私なんか……」
望みを口にした途端、フードを被ってルーネは下を向いてしまう。安易に安易に助けを求めてしまった自分を恥じているようだった。
しかし、それでも手を伸ばしてしまう。いくら押さえつけても胸の中の期待はごまかすことはできない。
「これでいいか?」
そんなルーネの手をヒデカツは静かに握りしめる。
緊張がないわけではない。だが、それは死ぬかもしれないなどという無意味な心配ではなく女性の手に触れるという行為そのものへの緊張だった。
「は、はい……これでいいです……その、あの、ありがとうございます……」
「お、おう、お安い御用だ」
互いに別の緊張を抱えながら二人は見つめあう。悠長なことをしていられないとささやく理性もあったが、触れ合った手の感触はそんなものは簡単に押し流してしまった。
眼帯の下の黄金の瞳は簡単に想像できる。震える唇は見ているだけで、理性が溶けていく。もしできることなら、このまま――、
「あー、部屋なら二階が空いてるぞ? なんなら済むまでオレは奥に引っ込んでるが……」
「い、いや、大丈夫だ! なんでもない!」
「あ…………」
蚊帳の外だった店主に声を掛けられて、ヒデカツは慌てて手を放す。
ルーネは名残惜しそうな声を上げたが、これ以上別のことにかまけている場合ではなかった。
「そ、それでその霧については、どうにかできないのか? それこそ、君がお祓いするとかで……」
「わ、私の力が及ぶのは生者と死者だけですから……あれほど大きな存在はどうにも……申し訳ありません……」
「おっちゃんのほうは何か心当たりないのか? そういう魔物を見たやつを知ってるとか……」
「触れもしないし、見えもしない霧の化け物か……オレもそんなもんに遭遇したなんて話は聞いたことないな……」
事情通の二人に確認しても対抗策は出てこない。意思を持つ自然現象は、魔法が存在するこのロスパラディアにおいても常軌を逸しているのだ。
「そういや、オレたちがここに駆け込んでからすぐに雨が降り始めてたよな……」
途方に暮れて窓の外に目をやり、ヒデカツは雨音に気付く。
この世界の常識では無理でも、ヒデカツの世界の範疇ならば手がかりを見つけられた。
「あ、ああ、今はこの砂漠も雨季だからな。しょっちゅう降るわけじゃないが二、三日に一度はこうして土砂降りになる」
「……もしかして、あの霧、雨に弱いんじゃないか? ほら、毒ガスとかも雨が降ってると効果が薄いっていうし……」
「雨……確かにあり得るかもしれません……ただでさえ存在が分散していて不安定でしょうから、雨に打たれて形状が乱れると……なにか影響があるのかも……」
ヒデカツの考えを受けて、ルーネもまた自分なりの答えを出す。
魔術の制御にはかなりの集中力を要求される。ほんのわずかな環境の変化で術が成り立たないということも十分にあり得ることだ。
「なるほど……雨か、確かにそいつは道理だな……だがよ、雨なんて人間の力じゃどうにもならんぞ? 嬢ちゃんが祈祷で降らせられるってんなら話は別だが……」
「できるのか?」
「い、いえ、申し訳ありません……力不足で……」
店主の言葉をヒデカツが確認すると、ルーネは心底申し訳なさそうに首を横に振る。
彼女の力はあくまで生と死の管理であって、天候の操作は分野が違う。
弱点がわかってもそれを突くことができないのなら意味はない。少なくとも現状では、あの意思を持つ気体に対してとりうる方策は一つとしてなかった。
「でも……直接魂に干渉できるなら……あるいは……」
「どうかしたか?」」
「い、いえ、なんでもありません……すいません……」
思わずつぶやいた言葉をヒデカツに拾われて、ルーネは慌てて取り繕う。
嘘をついたわけではない。ただ安易に口にすることが憚られたというだけだ。
生と死をつかさどるルーネをもってしても、魂への直接の干渉は不可能だ。もしできるものがいるとすれば、神話に語れる神々や翼を持つ天使達だけだろう。
現状、打つ手はない。彼らに味方するのは、降り続く雨だけだった。




