17、悪意との遭遇
異常事態の真っ最中であることを忘れるほどに、路地裏は静かだ。
事前に事情を把握していなければ、今も、街のどこかで人が死んでいるなど想像できないだろう。
あるいは、人が死んでいるからこそ、静けさが保たれているのかもしれない。人間の出す音が途絶えれば、聞こえるのは風の音と亀の鼓動だけだ。
「一つ聞きたいんだが、いいかな?」
「は、はい、私でよろしければどんなことでも……」
不気味な沈黙に耐えかねて、ヒデカツは口を開く。
あの酒場まではあと数分程度。大通りを避けなければらない都合上、遠回りになっていた。
ずっと聞かずにいた質問を口にするにはいい機会だ。
「……ルーネはこの街に何しに来たんだ?」
「わ、私が……ですか……?」
「ああ。嫌なら答えなくてもいいんだ。ただ、少し気になってな」
言葉に出してから、ヒデカツは同じ過ちを繰り返した自分を心中で罵る。
彼女の事情には踏み込まないと決めたはずだ。
自分の境遇でさえまだ完全には受け入れることができていない現状で、そんな余裕はないと再三自分に言い聞かせてきた。
だというのに、気付けば彼女の事を知ろうとしてしまっている。その自分の中途半端さがヒデカツには許せなかった
「私は、その……あの……観光に来たんです……噴水が綺麗だって評判でしたから……」
「そうか。オレもきちんと見たかったよ」
そう答えながら、ヒデカツは「嘘だな」という指摘を飲み込む。
ルーネの答えは途切れ途切れで今考えたでまかせだというのは簡単に分かった。
ヒデカツの推測が間違っていないのなら、彼女はあの砂漠に死にに来たはず。それを口にしないのは恥じているからだ。
「そろそろ酒場だな。少し休んでこれからの事を……」
しばらく歩いていると、先ほどとは別の大通りが見えてくる。
ヒデカツの嗅覚が、危険を嗅ぎ取ったのはその時だった。
「……なあ、何か匂わないか?」
足をピタリと止めて、ヒデカツは背後のルーネを身体で押し止める。
一応ルーネに確認はしたものの、ヒデカツの直感はこのまま進むのはまずいと告げていた。
「匂い、ですか……? すいません……私にはなにも……」
「いや、確かに匂う。からしのにおいみたいな……なんだこれ……」
砂漠の街らしい乾いた風に刺激臭が混じっている。
鼻をつくような匂い、ともすれば食欲を刺激するようなそれをヒデカツは確かに知っていた。
「マスタード? こんなところでどうして……」
「……ま、すたーど……? ど、どうかされましたか?」
脳裏を過ぎった単語がヒデカツの不安をどうしようもなく掻き立てる。
マスタードがこの世界に存在していないことはルーネの反応からしても間違いないだろうし、似たようなものがあったとしてもにおい立つほど大量に道にぶちまけられているというのは考えづらい。
では、なぜこんな臭いがするのか。そこが問題だ。
「……オレの後ろに下がっててくれ。それとなにかあったらすぐに逃げられるように準備もしといてくれ」
「は、はい、わかりました」
剣に手を掛けたまま、前に出る。大通りには日こそ射してはいるが、妙に霞がかって見えていた。
緊張に唾を飲む。
いかに慣れてきたとはいっても恐怖が消えたわけではない。今更与えられた加護を疑っているわけではないが、身体の震えは止らなかった。
「――っ!!」
『強力な細胞毒を感知。耐性獲得、肺機能強化、適応完了』
大通りへと踏み込んだ途端、ヒデカツは激痛と眩暈に襲われた。
咽喉に目、鼻、肌。空気に触れた全てが痛みを発し、意識が遠のきそうになる。
だが、それも一瞬のことだ。発動した加護はまたも肉体を改良して一つの脅威を克服した。
「細胞毒……毒ガスか」
「マ、旦那様! どうかされ――」
「大丈夫だ! それより下がってろ! こっちには絶対くるなよ!!」
駆け寄ろうとしたルーネをヒデカツは怒鳴って止める。
大通りに充満している毒ガスは路地裏には流れ込んでいない。まるで意志があるかのようにこの大通りに留まっていた。
嫌な予感に背筋が凍る。杞憂ということも十分にありうるが、意志のある気体などそれこそ反則のようなものだ。
「……何人か倒れてるな」
毒ガスの中をヒデカツは目を凝らしながら進んだ。霞んだ足元にはいくつかの影、それが人間であることは考えずとも分かった。
いくつかの家の戸口が開いていることからして、屋内に身を潜めていたところをガスによって中から引きずり出されたのだろう。
「ま、旦那様! 大丈夫ですか!? 私もそちらに――」
「ダメだ! 絶対にくるなよ!!」
ルーネに手振りでくるなと伝えつつ、ヒデカツは一人一人生死を確認していく。
一人目の男性は壁に寄りかかったまま事切れている。
二人目と三人目は、親子だ。最後まで子供を庇ったのだろう、母親は息子を抱えたまま眠るように息を引き取っていた。
そうして、四人目。生き残りを見つけることができたのは、諦めかけた時だった。
「……まだ脈がある」
かすかに脈があるのを確かめて、ヒデカツは生存者を担ぎあげた。
生きていたのは年端もいかない少女。口元にスカーフが巻きつけていたおかげでほかの犠牲者よりガスを吸った量が少なかったのだろう。
「――ルーネ! 生き残りを見つけた!」
「ほ、本当ですか!? す、すぐに治療を……でも、私じゃ……」
「先にここから離れるぞ! 走れ!」
「え、でも……」
「いいから走れ!!」
驚いているルーネを引き連れて、ヒデカツは路地裏を走る。
走りながらも、ヒデカツは周囲への警戒を怠らない。
匂いや空気の質感の変化に感覚を研ぎ澄まし、脅威を探る。先ほどの毒ガスのようなものがあるなら警告が発せられるより先に気付かなければならない。
ヒデカツの身体にはすでに毒ガスへの耐性ができている。だが、ルーネや担いでいる少女にはそんなものは期待できない。彼女達を守るためには事前に脅威を知る必要があった。
「…………っ!」
そうは考えつつも、ヒデカツは焦りに歯噛みする。
どんな毒を吸ったにせよ少女の命はもう長くない。今も心拍数は減少して、呼吸は弱くなっている。一秒でも早く治療する必要があった。
『――前方に脅威を感知』
「……くっ、右だ! ついて来い!!」
「は、はい!」
第六感に従って道を変える。目の前の大通りには先ほど見た靄のようなガス。先回りされたのだ。
やはり、先ほどの毒ガスには意志がある。にわかには信じがたいことではあるが、こうして追いかけられている以上疑う余地はない。
しかも、この有害な気体は明確な悪意さえ持ち合わせている。そうでもなければ、逃げる相手を追いかけることなどしないだろう。
『後方に脅威を感知』
「ああ、くそ、抱えるぞ!!」
「ひゃいっ!?」
足の遅いルーネをヒデカツは左手で抱える。今の身体能力ならば少女二人を抱えても全力疾走ができた。
追ってきている。どんな毒ガスであるにせよ、追いつかれれば二人分の命を取りこぼすことになる。
「見えた! 掴まってろよ!」
三十秒走ったところでようやく酒場の看板が見える。
入り口まではあと50メートルほど。必死で脚を動かせば追いつかれる前に間に合うはずだ。
「は、はい! 離れません!!」
今この街でヒデカツとルーネの味方をしてくれる人物がいるとすれば、一人だけだ。
思い切り迷惑を掛けることになるが、今は気にしてはいられない。
「――おっちゃん! 入れてくれ! オレだ!」
「おお! 無事だったのか! 心配して――」
「――いいから入れてくれ!!」
声に応じて店主が扉を開いた瞬間、ヒデカツは二人を抱えたまま店の中に飛び込む。
背後の気体にはまだ追いつかれていない。全速力で走った甲斐もあってほんの一瞬猶予が生まれていた。
「扉! 締めてくれ! はやく!」
「お、おう!」
ヒデカツの叫びに、店主は慌てて戸を閉める。
薄い木の扉は頼りなく思えたが、数秒待ってもガスが内部に入り込んでくることはなかった。
「……助かった、のか?」
なぜガスが引いたか理由は分からないが、急場を凌ぐことはできた。助かったという事実に、ヒデカツは脱力しかけて、すぐに気を取り直した。
まだ安心はできない。毒ガスからは逃れられても、助けた少女は依然虫の息ままだ。
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