ゆるぐ
「ただいま、帰りました……」
買い物を頼んでいた夕凪が帰って来たのだろう。
しかし、階を上がってくる音はもう一つ聞こえる。
「おかえりなさい。……もしかして、良明様もご一緒に?」
夕凪と一緒にいたのは良明だった。その両手には買ったものが入っているのか大きな布の包みが抱えられていた。
「まぁ、小夏丸の囲いも出来て、特にやることもなかったですから。こういう時は男手がある方が良いかなと思って」
「それで……わざわざありがとうございます」
「いえ、俺も久しぶりに市に行けて楽しかったですよ。……また、買い物や外に出る時があれば、言ってくれれば付いて行くし」
「あ、ありがとう、ございます……。また、お願いします……」
「じゃあ、これは台盤所に持って行っておくので」
雪子に軽く会釈してから、良明は通り過ぎていく。ふと、隣の夕凪を見ると紅葉のように顔が真っ赤だった。
「良かったわね、良明様に手伝っていただいて」
「は、はいっ……とても親切な方で……」
この反応はもしかして夕凪は良明に対して好意を持っているのかもしれない。
普段は殿方と接する機会などなかったため、緊張しているだけかと思っていたら、他の兄弟達には特に変わらなく接しているので、良明だけにあのように緊張してしまうのだろう。
「ねぇ、夕凪。あなた、良明様の衣を縫ってみない? 先ほど、貴明様からたくさんの布を頂いたの」
「えっ……わ、私が、ですか……?」
頬をすっと赤らめて、口をぽっかり開ける表情は紛れもない証拠だろう。雪子は小さく苦笑して、夕凪の頭を撫でる。
「あとで、良明様に冬用の色目で何がお好きか聞いてくるといいわ」
「……はい」
か細い声で返事をして夕凪は小走りに台盤所の方へと向かっていった。いつの間にか自分の知っている、守らなければならない幼い妹のような存在ではなくなってきているのかもしれない。
先ほどまで庭にいた兄弟達と志木は少し遠い鴨川まで釣りに行ったらしく、今日の夕餉は魚料理だろうと浜木が言っていた。
七尾と八代が筝をやってみたいと言うので、出してあげると七尾の方はあっというまに一曲覚えてしまった。今、静かに東の対屋から聞こえてくる途切れ途切れの音色は七尾が八代に弾き方を教えているのだろう。
そういえば、貴明にも文を宛てて、もう一度お礼を言った方がいいのだろうかと悩んでいた時だった。
「…………?」
牛車の音が遠くから少しずつ近づいてくる。その牛車がこの屋敷内へと入ってきたのだと確信した時、雪子はいつの間にか素早く立ち上がっていた。
そんなはずがないと思いながら、廂へと出てみると、同じく音に気付いたのか小竹が妻戸を開けて寝殿へと入ってきた。
「姫様、今の音……」
「えぇ。でも、行ったのは一昨日よ。七日も経ってないのに来たことはないし、この前、梨壺の女御が食料を援助すると言っていたからそれを運んできたのかも……」
「あたし、ちょっと見てきますから姫様はここにいて下さい」
「でも……」
言い掛けている途中で小竹は小走りに牛車が停まった場所へ向かう。そこへ、西の対屋にいたはずの一成までこちらへとやって来た。
「どうかなさったのですか? 今、牛車の音が聞こえたのですが、どなたかいらっしゃったのですか」
「それが、その……」
「姫様!」
たった今、牛車の方へ行っていたはずの小竹が先ほどよりも早くこちらへと戻ってくる。
「どうしたの、そんなに慌てて……何かあったのね?」
「これを……こちらを読んでください」
手渡されたのは文だった。いつも梨壺から届くのは二つ折りにされた陸奥紙に書かれた文だ。それが今、この手にある。
雪子は一つ息を吐いてからその文をそっと開いて読み上げる。
「…………梨壺へ参られよ」
「……っ」
途端に小竹がしかめっ面になる。
相当、梨壺を嫌っているらしい。
「またですかっ! あの女御は姫様を何だと思っているんですかっ……」
「何とも思っていないから、このように遊ばれるのね」
「やっぱり、一発ぐらい殴って……」
「梨壺、ですか」
真後ろにいた一成がいつもより低い声でそっと呟く。
「そうです。先日、一成様とお会いした際のようにまた、呼ばれてしまいました」
「行くのですか」
「それは……」
そういえば、行くことを断ったことはなかった。惨めに扱われると分かりながらも行くのは援助として食料などが貰えるからだ。
だが、いまは行く必要も理由もない。
「わたくしは、行きたくはありません」
一成の目を見て真っ直ぐと答える。
今まで頼ることが出来る人はいなかったが、もう自分には一成や兄弟達がいる。日々、食べるものについて悩むことはなくなるのだ。
「では、姫君は風邪を召して、休んでおられるという事にしましょう。女御様にうつすわけにはいきませんから、免れることが出来るかもしれません」
「あ……あたし、そのように伝えに行ってきます!」
再び小竹は牛車が停まった方へと小走りに向かっていく。
ぽとり、と掌から文が落ちる。
「大丈夫です。もう、無理してあの場所へ行かなくてもいいのです」
一成はそっと雪子の背中を軽く叩く。力が抜けたように雪子はそこへ座り込むと、同じように一成まで座ってくれた。
「……初めて、断りました」
頭が回らないのか、ただ動くことができないからなのか。雪子は真っ直ぐと一成だけを見ていた。
揺れていない瞳は穏やかに自分だけを見つめていた。
「もう、行かなくてもいいのですね。あのように……棘のような言葉を言われることもないのですね」
床の上へと放り出されたような手に温かいものが重ねられる。
「そうです。もう、ないのです。これからは姫君自身を傷つけることをしなくてもいいのです」
重ねられた手に強く握り締められ、雪子はやっと呼吸したように息を吐く。
「これから先、再び梨壺から文や牛車が来たとしても、断りましょう。縁を切り、逆にこちらのことを忘れてもらえばいいのです」
「忘れて、もらえるでしょうか」
「人は強い他の関心があれば、そちらに意識を移してしまいます。……今日、宮中へ出仕した際に聞いたことですが、桐壺の女御が懐妊したとの知らせがありました」
その言葉に頭を上げる。
確か、皇子が生まれているのは梨壺だけで、藤壺に皇女が一人、桐壺にはまだ子はなかったと聞いている。
それはつまり―――
「後宮という場所は嫌でも他を意識しがちになります。ですから、そのうち姫君のことよりも、桐壺の方に意識が向くでしょう」
もし、主上から最も寵愛を受けている桐壺に皇子が生まれれば、後継ぎの争いが起きるかもしれない。 そうすれば、きっと自分に構う暇もなくなるかもしれない。
「ですが、それでも梨壺から牛車が来た場合は、私達兄弟で門前払いします。文も取り次ぎません。だから、どうか安心してください」
その言葉は慰めなどではなく、心から本当にそうすることを前提として言っているのだろう。
「わたくしは……あなた様と目的が同じだっただけで、守られるべきご兄弟ではありません。それなのに、どうしてそのように気にかけて下さるのですか。どうして……」
その先の言葉を言ってはいけないような気がして、口を閉じると一成はこちらが安心するような温かな笑顔で囁くように言葉を紡いだ。
「そうですね……。初めて会ったあの時、私は他のものが目に入らなくなるほど、夕日の下に佇むあなたに見入っていました。……そしてまた、悲しくもなりました」
「え……」
牛車の音が聞こえ始める。
小竹が上手く断れたのだろうか。
「人の言葉を受け止めながらも、それでも涙を流さないあなたをなぜか守りたいと思ったのです。……不思議でしょう? 初めてお会いしたにも関わらず、そのような気持ちになったのは生まれて初めてでした」
そう言って少し照れるように苦笑するが、雪子は見入るように一成を見つめていた。何かとても大事な事を言われている気がして、逸らしたいのに逸らせなかったのだ。
「昔から、兄弟のことばかり考えて生きてきましたから、他のものに心を移す余裕どころか感情さえなかったのです。ですが、初めて心が揺れた気がしました」
一成は御簾の向こうを見る。夕方にはまだ届かない、明るい空が見える。その向こうに彼は何を見ているのだろう。
「人とは儚いものだと言いますが、姫君を見た時に今にも押し潰されてしまいそうなほど、脆く見えて……。なので、不謹慎だと思いつつもつい声をかけてしまったのです」
初めから、優しい方だと思っていた。
それでも、いまは違う気がする。その一つの思いだけでは留まらなくなりそうな気がして、雪子はやっと視線を逸らした。
「……わたくしと関わったことで、後の縁談に障ることもありましょう。それなのに、あの時はご迷惑を……」
「いえ、今のところ、私の噂は流れていないようでした。後宮は本当にそれどころではないようなので。それに……私自身は縁談が来ても結婚する気はありませんから」
その言葉に一瞬だけ嬉しいと思う気持ちと胸がぐっと押しつぶされるような感覚が混ざり合った。
「そ……そうなのですか。やはりご兄弟が独り立ちされるまで……?」
「えぇ、それもありますが。……姫君が心穏やかに過ごせる時が来るまで、本当に幸せだと感じられる日が来るまで、私はあなたの支えになりたいと思います」
「それは何のために」
自分でも驚くくらいの早口だったと思う。それでも一成はゆっくりと答えてくれた。
「勿論、自分とあなたのために、です」
その笑みの意図は分からなくても、偽りなどないのだろう。雪子も思わずつられるように口元を緩める。
「梨壺の事は弟達にも言っておきましょう。出仕している私や明次達は昼間にはここにいられませんが、良明なら機転が利くので、いざという時に役に立つでしょう」
「……気を使わせてしまって、申し訳ありません」
「いえ。……おや、弟たちが帰って来たようです」
耳を澄ませると楽しそうにはしゃぐ声がいくつも聞こえ始める。そこには小竹の声も混じっており、どうやら話し込んでいるようだ。
「そのようですね。……今日の夕餉は彼らの腕にかかっているので、成果が楽しみです」
「では、私が見てきましょう。ここでお待ちください」
一成が帰ってきた兄弟のところへ向かうと、その場には先ほどまでとは変わって静寂が流れる。
雪子は重ねられていた方の手をそっとさするように握った。この温度は一成のものか、それとも自分のものか分からなくなってしまいそうだ。
言われた言葉を一つずつ思い返していくだけで、体が火照りそうになる。
……きっと、わたくしを気遣って、言葉をかけて下さったのよ。
そう思わなければこの胸の苦しさには耐えられない。呼吸をひとつして、雪子は何事もなかったかのようにすっと立ち上がる。
もうすぐ夕餉を作り始めるだろうから、その間に全ての御簾でも下げてこよう。
歩いていれば、何か別のことを考えていればきっと、今の出来事は忘れられる。胸に手を当てながら、雪子は自然と歩み始めていた。




