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殿下の公務中に怪我をした、ということは内々に王宮では伝えられたそうですが、詳しいことは話されず、オルランド様を含め何人かの近衛騎士たちは、特別に休暇を与えられ、怪我の治療に専念するということになったと聞きました。
お兄様から、言動には気をつけるようにといわれ、なんとなく慌ただしくなってきたのも含め、考えなければならないことが増えてきて、気分も滅入ります。
ですが、どれほど憂鬱でも、私は公式にはオルランド様の婚約者です。
お兄様やお父様に言い含められ、婚約者らしく王都にあるオルランド様の私邸の様子を見に行き、そこから必要なものを持って医療院に顔を出すということをしなければならなくなったのです。
とはいっても、やはり私が病室に訪れたからといって、特別何かをするわけではありません。
私邸の方では、皆暖かく私を迎えてくれましたが、病室にいるのはバネッサ様です。
オルランド様のお世話など、彼女が全てしてしまうので、私がすることといえば、汚れた服を受け取り新しい下着をバネッサ様に渡すということぐらいです。
オルランド様は昨日と同じく目を覚ます様子はありませんでしたし、バネッサ様と会話がはずむわけではありません。
なんとも気まずい雰囲気の中、当たり障りのない挨拶を交わし、ほんの少しオルランド様の様子を見て、それから病室を後にしても、まだ日は高いまま。
お昼にさえなっていません。
お見舞いではなく、ただのお使いだと、ため息をつきつつ思いますが、お兄様から事情を知らない人を介したくないのだという話を聞いてしまっているので、文句も言えないのです。
それに、こういう理由でもなければ、オルランド様のところへ顔を出す理由が私にはありません。
堂々と、婚約者だと言って押しかければいいとヘッセニアは言いますが、あそこにはバネッサ様がいるのだと思うと、どうしても理由なしで訪れる気になれないのです。
元々積極的に何かをするということがなかった私ですが、この頃、それがさらにひどくなってきているような気がします。
いつまでも受け身でばかりでは、このままなしくずしに悪い方向に行ってしまいそうで、なんとかしなければとは思っているのに、うまく立ち回ることが出来ないのです。
重い気持ちのまま、手にした荷物を病室の外に控えていた侍女に渡し、それを馬車まで運ぶように指示すると、私もそのまま医療院を後にしようとしました。
ですが、控えの間まで来たところで、さきほど誰もいなかった場所に人が立っているのに気がつきます。
反射的に頭をさげようとした私ですが、相手は、まるでこちらから身を隠すように、顔を逸らしました。
おかしいと思ってつい凝視してしまった私は、それが誰なのか気がついてしまいました。
セレスティナ様!
そう叫びそうになった口を、慌てて押さえます。
地味な服を着て、頭には頭巾を被った姿は、どう見てもお忍び真っ最中という感じです。回りを見ても目立つ場所に護衛はいないようですし、人に知られてはまずいのだと、見ただけでわかります。
「大きな声で名前は呼ばないで」
セレスティナ様は、すばやく私に近づいて、小さな声で囁きました。
幸い、連れている侍女は古参の者で、信頼できます。
医療院でのことは公にはしたくないということで、口が固い侍女を連れてきていてよかったのかもしれません。今も、セレスティナ様のことは気がついたようでしたが、目を伏せたまま、静かに側で控えています。
私は、そんな侍女に、先に馬車に戻って、待っているように言いました。
全てを心得たように、余計なことは何一つ言わず、一礼して去って行く侍女に申し訳なく思いましたが、やはりセレスティナ様のことが気になるのです。
「何をされているのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
いつもの聡明な姿からは想像もできない姿に、尋ねずにはいられませんでした。
「あの子のことが心配で。だって、屋敷には一度戻ってきたきりで、医療院で寝泊まりしているのよ」
あの子、というのはもちろんバネッサ様のことなのでしょう。
バネッサ様は、セレスティナ様に仕える侍女ですし、幼なじみだと言っていましたから、心配するのは当然かもしれません。
「あの子は、自分の思いをはっきり自覚してしまったようね。私よりも、オルランドが大事だって」
ため息をつきながらも、こちらを伺うような眼差しをしているのは、私はオルランド様の婚約者だと知っているからのことでしょう。
「そのようですね」
あんなふうに献身的に世話をする姿を見れば、どれほど鈍い人間でも、そこに特別な感情があるのではと疑うと思います。
事情を知っているのならば、なおさらです。
「セレスティナ様。お聞きしたいことがあるのです」
私には誰も教えてくれないこと。
それをセレスティナ様が教えてくれる可能性は低いですが、ずっと心の中に引っかかっていることがありました。
他ならぬバネッサ様のことで。
「何かしら? 私で答えられることであればいいのだけれど」
曖昧に微笑んだ姿は、もういつもの優雅で考えを見透かすことが難しいセレスティナ様です。
「セレスティナ様は、危険だとわかっていて、バネッサ様を隣国へと向かわせたのですか?」
そうなのです。
隣国で何が起こっていたのか、いまだに私は知りません。
ただ、お兄様たちの慌ただしい様子や、オルランド様が怪我をして戻られたことなどから、大変な事があったのだと推測するだけです。
そんな中、いくらバネッサ様が優秀な方だったとしても、命を落とすかもしれない場所へ自分付きの侍女を送り出すなど、普通なら考えないでしょう。
「そうね、オルランドが、隣国から秘密裏に戻ってきて話を聞いたとき、あの子以上に適任な人材が見つからなかったし、一緒にいってオルランドとの間の誤解が解ければと思った。本当は、私が行きたかったのだけれどね」
「セレスティナ様が、ですか?」
それは、さすがに駄目でしょう。
なんでもないことのように言うセレスティナ様に、一瞬目眩がしそうになりました。
ですが、これまでの短いつきあいの中、この人ならばやるかもしれないと思ってしまうのです。そういう予想外の行動を取りそうなところが、セレスティナ様にはありました。
もし、私がバネッサ様のように、セレスティナ様に忠誠を誓って仕えているならば、主人の代わりに私が行く、と言ってしまうかもしれません。
もしかすると、本当にそう思って、命令に従ったということもあるかもしれないのです。
「もちろん、提案はしたけど、止められたわ」
当然だと思います。
国内の有力貴族の娘で、王太子妃候補である存在を、何が起こるかわからない場所になど、生かせるはずがありません。
「私にとって、バネッサは大切よ。大事だと思っているし、幸せになってほしい。だけど」
そういうと、セレスティナ様は、悲しげな顔をしました。
「私はひどい女なの。結局、この国や家の為ならば、親友だって見捨てるし、非道なことだって出来るのよ」
「セレスティナ様……」
「あなたのように、なりたかったわ。馬鹿で無知と言われてもいい。ただの貴族令嬢として、政略結婚を望まれるのは仕方ないと割り切って。こんなふうにではなく、ドレスの流行りを気にして、くだらないおしゃべりをして、旦那様の浮気を疑って、他の奥様方と心配しあうの。若い騎士にだってときめいてみたいし、お忍びでちょっとした悪い冒険もしてみたい。でも、誰もそれを許してくれなかった」
小さな頃から、ベルグラーノ家の娘として、あるいは王太子妃候補の一人として、完璧でなければならなかったのだと、セレスティナ様は言います。
「だから、私が今回したことについては謝らない。謝らないけど、あなたがオルランドの病室から出てきた時、少しだけ後悔した。私は、あなたのあんな泣きそうな顔、見たかったわけじゃないの」
彼女も、また普通の女性だったのだと、その時初めて私は気付きました。
誰よりも聡明で、革新的な考え方で人々を引きつけ、いつも優雅に微笑んでいる――それがそんな感情の上に成り立っているのだと、知っている方はいるのでしょうか。
バネッサ様は、知っているのかもしれません。
だから、オルランド様よりもセレスティナ様を選んだのだとすれば。
どこか危うい部分を持つ主を守るために、自分の幸せを捨てようとしたのなら。
これまでのバネッサ様の行動を知る限り、その可能性は高いように思えます。
そして、自分では平然としていたつもりだったのに、私自身も、泣きそうだったと言われたことに、動揺しました。
私がもし、政略結婚を完全に割り切って、愛人の一人や二人には動じない態度を取ったり――あるいは婚約者を侍女に奪われたと騒ぎ立てるような女性だったなら、きっとそんな顔は出来なかったと。恐らくセレスティナ様は思われたのでしょう。
でも、違うのです。
私は何もしていないのですから。セレスティナ様から戦いなさいと言われても、迷いから、行動を起こさなかった。
その間、あの人は、命をかけて、オルランド様とともに隣国で戦っていたのです。
最初から、負けていたのは私の方。
それがわかっているのに。
口にするのは、セレスティナ様にもバネッサ様にも、望まぬことなのです。
「私も、ひどい女性です。あんなバネッサ様の様子を見ても、私の方から婚約を破棄するつもりはないのですから」
「そうなの?」
「これは家同士の繋がりを深める結婚です。愛情で決まったものではないから、私の一存だけでは破棄など不可能ですもの」
それに、きっと。
認めてしまうのは恐いけれど、私自身がオルランド様との婚約解消を望んでいないのです。恋ではないけれど、確かに心の奥に、オルランド様を思う気持ちが芽生えてきているのです。
ごまかし続けてきましたが、やはりもう限界のようでした。
このまま、何事もなければ、きっと私はオルランド様に恋したでしょう。ゆっくりと、穏やかに時間をかけて、そうなっていただろうと、確信できます。
「そうね、普通の結婚とは違うもの。言われてみれば、そうかもしれない。本当に、世の中、ままならないことだらけ。でも」
ふいにセレスティナ様の手が伸びてきて、私の頬に触れました。
優しく包み込むような指先は、どこかオルランド様に似ています。
「私、どうしてオルランドがあなたとの婚約を了承したのか、わかった気がする」
「それはどういう意味なのでしょう」
「ないしょ」
セレスティナ様は、優しく穏やかな微笑みを浮かべたまま、私の目をのぞき込んできます。
その眼差しは、いつかのバネッサ様のようにまっすぐで揺るぎなく、同時にバネッサ様とは違い、人の心の奥底まで見透かしてしまうようなものでした。
それが不快ではなく、心地いいと感じてしまうことに気付き、なんとなく、理解できた気がします。
皆が何故セレスティナ様に心酔するのか。
優しいだけでも、理知的なだけでもない何か引きつけられる部分が、この方にはあるのです。
だって、私でさえ、いつのまにかセレスティナ様への警戒心がなくなっているのですから。
ヘッセニアが聞けば笑うかもしれません。
お姉様もとうとうセレスティナ様に落ちてしまったと。
「……オルランド様が目覚めて、はっきり私をいらないとおっしゃったら。皆が望むような結末になってもいいと思います」
きっとこの方は、私が惨めに泣き叫んでも、笑ったりなさらない。
そう思えたからでしょうか。
私は誰にも言えなかった思いを、初めて口にしました。
「オルランド様が、バネッサ様を選ぶというのなら、潔く振られてあげます。いい男は、他にもたくさんいますもの」
「そう。それがあなたの答えなのね」
「こんな私でも、一応貴族の娘ですから。みっともない終わり方だけはしたくないのです。……馬鹿ですよね、私」
そうかもね、と笑うセレスティナ様は、私の頬から手を離すと、元気づけるかのように微笑みました。
「ここからは、もう私は何もしない。3人で、決着をつけなさい。遠慮はしてはいけないわ。誰もが傷付かない結末なんて、ありはしないのだから」
誰かが幸せになれば、他の誰かが不幸になる。
セレスティナ様がおっしゃりたいのは、そういうことなのでしょう。
だから、まだ本当に泣くわけにはいきません。
それは、何もかもの決着がついてから、許されることなのでしょうから。
今はただ、オルランド様が目覚めるのを待つしかないのです。




