距離
(とは言ったが)
ジンの前に再び立ちはだかるフェイ。余裕しゃくしゃくという様子で戻った彼だが、内心には焦燥があった。
(正直、何度も無理な移動をするのは体力を消耗するからできない。それに街を抜ければ曲がり角で距離を稼ぐことができなくなる。戻れて、あと一回か二回か……)
状況を分析しながらも、相対する敵に少しでも余裕を見せようとフェイは焦燥を表にしない。
対して、ジンは全く最初の頃と変わらず、気の乱れは見られない。平生と変わらない口調でフェイに向かう。
「第何ラウンドまでいけるか……。限界はあるだろう。少なくとも、街を抜けた時点でお前を振り落とせば、これを続けることはできないはずだ」
「……まあ、俺に色々教えてくれた人が分からないわけはありませんね。とはいえ、限界が来る前にあなたを捕らえさせていただきます」
自分の能力では追うことのできない限界を既に察せられていたフェイだが、深く動揺はせず、再び戦う態勢を取る。そして鎖を操ろうと両腕を構えた。
だが、フェイが能力を用いて攻撃を開始する直前、ジンが声を上げる。
「今回はあまり汚い手は使わないんだな」
ジンの言葉に、フェイは体を硬直させる。攻撃の手を止め、彼は眉を寄せてジンに向かった。
「……さっきのことを責めているのですか? あの子供を傷つけたこと」
フェイはジンに、レフィの腕を銃弾で傷つけたことを責めているのかと問う。そう言う彼の額には汗が浮かび、目元が歪んでいた。そんな様子のフェイの問いに、ジンは軽く笑って答えた。
「いや、別に。もちろん俺達には不都合なことで、何よりあいつが痛い思いをした。そうならないほうがいいのは当然だが、お前を責めることじゃない。戦いではそういうことが起こり得るだろう」
「そうですか」
ジンはフェイのことを責めていないと言う。戦う上の都合で仕方なくそうなったのだと。だが、その言葉を受けてもフェイは顔を曇らせたままだ。彼はその表情を浮かべながら、自分が傷つけたレフィについて話す。
「今回あの子を、意図的に足手纏いにしようとああしたのは分かりますよね」
「ああ。まあ、メリーが状況を打開したが」
「……正直、ああしたくはありませんでした。体以上に、あの子の心を傷つける事につながりますから」
フェイは目を下に向けながら続ける。
「俺達の目的はあなた達ですから、部外者には手を出したくはありませんでした。そうせざるを得なかったのでやりはしましたが……」
「お前が思っているより、あいつは気にしていなかったぞ」
「……そうですか。なら幸いです」
フェイは少しだけ安心したように緊張を緩める。そんな彼の表情の変化を見たジンは、一瞬だけ誇らしそうに小さく笑みを浮かべ、しかし次の瞬間には険しい顔に戻って手に持つ剣を強く握る。
「やはり、お前にはまだ教えることが沢山あるようだ」
ジンは戦う態勢を整え直しながら、そう宣言する。
「敵の心配をしてどうする。子供だろうが何だろうが、敵は敵だ。無慈悲になれとは言わんが、自分が納得できるラインを越えなければ何をしてもいいという線を決め、戦いに臨むのが最適だ。今のお前は、その線をあやふやにしたまま俺達に向かってきている。だからやることが中途半端なんだ」
ここまで話すと、ジンは呆れたようにため息を吐く。
「それと、お前は自分のやった策が卑怯だとか、汚い手とか思っているんだろうが、戦いに綺麗も不潔もない。……手本を見せてやる」
ジンは不敵な笑みを見せて、剣の構えを解く。フェイは敵に相対した状態で戦闘態勢を解除するというジンの不可解な行動に、逆に警戒を強めて向かう。単純に姿勢を整えている状態よりも不気味さが勝り、フェイに強く警戒を抱かせた。
少しの間、二人の間には風が通り抜ける音だけが響く。景色は激しく前から後ろへと入れ替わり、足場の不安定さを示しているようだ。
そんな中、ジンはふと、横に逸れて車の屋根を歩く。正面にいるフェイから完全に視線を切り、そして、その先がない屋根の端にまで向かった。そこまで行くと、ジンはフェイを振り返る。そして、一言呟いた。
「お前を信じているぞ」
言った瞬間、ジンは車の屋根から飛び降りる。ただ体を宙に放るのではなく、地面に向けてしっかりと勢いをつけ、高速で地面に向かった。
「なっ……ジンさんッ!」
唐突に、師が自死のような行為を行った。その状況を一瞬で把握したフェイは、今までレプト達に攻撃してきたどの時よりも早く、右手の鎖をジンに向かわせた。それは銃弾ほどの速さでジンの左腕を捉えて絡めとる。腕に返ってくる感触で自分の鎖が対象を捉えたと知ったフェイは、ジンの体が地面に落下しきるそのギリギリで彼の体を引き上げる。彼の腕力と鎖を操る力が合わさり、ジンの体は軽々と持ち上げられ、再び車の屋根まで戻ってきた。ジンは何事も無かったかのように両足で着地する。
「ぐっ……一体何のつもりですか!?」
フェイは責めるように怒声を上げ、ジンに向かう。彼の肩は激しい息で忙しく上下している。運動量自体はさほどのものではなかったが、状況が彼をそうさせたのだろう。顔には冷や汗がびっしりとついている。コンマ数秒のやり取りだったが、彼は精神的に強く疲労したように見える。
そんなフェイに反し、充分に余裕を持ったジンは言い放つ。
「こういうことだ、フェイ。戦いにおいては、どんな手を使ってでも有利を取る。そして、お前はこうして欠点を晒した」
「っ……クソ」
ジンは自分の左腕を強く引く。すると、彼の腕に絡まる鎖が操り主であるフェイを逆に引っ張った。屋根から落ちないように足で踏ん張りながら、フェイは顔をしかめる。
「お前の能力は確かに強い。だが、こうやって中途半端に相手の腕につけただけでは十分に動きを拘束できない。どころか、お前より腕力の強い相手じゃ逆効果だ。お前が動きを縛られることになる。前回もこんなことがあったな」
咄嗟に右手の鎖を手繰り寄せようとするフェイ。だが、ジンがそうはさせない。左腕に絡まった鎖を堅く掴み、離さない。
「カスミや俺のように、明確にお前より腕力が強い相手には通用しない。足や、腕と胴を一緒に縛るのであれば話は別だがな。最も、お前は俺を助けるのに必死で、おあつらえ向きに振り上げた俺の左腕に目を向けるしかなかっただろうがな」
「……そこまで考えていたわけ、ですか。俺があなたを助けるのに必死で、冷静さを失うのも」
状況が一気に最悪と化したフェイは、歯を食いしばり、どう打開するかと思考をフル回転させる。だが、そう簡単に良い策というのが浮かぶわけもない。
フェイは首に伝う冷や汗を左手の甲で拭い、息を整える。
(畜生……まともじゃないが、もう、これしかない)
最悪な状況だからこそ、すぐに判断を下し、フェイは前、ジンがいる方へと飛び出す。一変した状況から急に敵が目の前に迫り、ジンは一瞬だけ判断が遅れる。その隙を突いて、フェイは彼の顔面に向けて左の拳を振るう。反射的にジンは自分がとった有利である左腕の鎖を引く。だが、反応しない。
(ッ! 接近された、たわみで……)
元々距離が離れていたからこそ、二人を繋ぐ鎖は張っていた。その状態であれば鎖に力を加えるとダイレクトに相手へそれが伝わるのだが、今は違う。フェイが距離を詰めたことにより、鎖は緩み、力を加えても鎖は車の屋根を擦るだけだ。
判断の遅れたジンはフェイの拳をガード出来ず、まともに顔面でそれを受けた。
「ぶっ……」
フェイは一撃目が充分な威力で入ると、続けて右の拳を大きく引き、正面からジンの額めがけてそれを放った。
「うらぁッ!!」
体の捻りも加えて放たれたフェイの拳は、真っ直ぐ吸い込まれるようにジンの額の中心に激突する。肉が肉を打つ高い音が響いた。拳の感触から、フェイは自分の攻撃が完全に的中したと確信する。
だが、彼が全霊を込めた一撃をもろに食らっても、ジンは動じていない。
「っ……」
ジンの額は鉄のように硬かった。フェイは自分の拳に痛みが返ってくるのを一瞬遅れて感じ、手を引いて苦痛に顔を歪める。逆に、ジンはこれ機に思考を追いつかせた。瞬時に彼は自分の右腕の鎖を利用することをやめ、眼前にいるフェイの横腹に膝蹴りをいれる。
「ごはっ……」
内臓の圧迫で一瞬呼吸を忘れ、フェイはよろめく。その隙を突き、ジンは彼の足を払った。刹那の間、フェイの体は浮く。それとタイミングを合わせ、ジンは無抵抗になったフェイの体を強く左の手で押し出す。
「まずっ……!」
体が一息にスペースの外側まで弾き出されたフェイは、何とかして車の屋根まで復帰しようと空中にいる最中にジンに絡みつけたままの鎖を手繰り寄せる。だが、その時には既にジンは鎖を剣で断ち切っていた。フェイの腕は空回る。
(このままでは地面に激突する! 態勢を……)
彼は車の屋根から突き落とされ、高速で移動しながら落下し続けている。一瞬の予断も許されない状態で、既に彼はミスを犯した。次はもうない。彼は直接ジンの元まで戻るのは諦め、鎖を幾本も地面に飛ばす。そうすることで体に乗ったスピードを緩めつつ、受け身を取るのだ。ただ、彼の体には車が走行する速度が乗っている。安全に着地するためには、時間をかけてスピードを緩めるしかなかった。彼は自分の鎖を全力で受け身に用いる。
「ぐぅ……! くっ、はぁ……はぁ」
フェイが地面に転がりながら着地し、標的へ目線を向ける余裕を得るのには実に十秒ほどかかった。彼が顔を上げて状況を確認する頃には、ジン達の乗った車は消えている。角を曲がったのだろう。
「ここからではとても追いつけない……。クソッ!」
自分がまたも標的を逃がしたことを自覚すると、フェイは石畳を両の拳で殴り、叫ぶ。自分の手が痛むのにも構わず、全力で。
(また、またなのか……もう、時間がないのに……)
無力感と、自責と、そして焦燥。それらの混じった感情で彼は表情を歪め、地面に力なくへたり込む。
「クソ……どう、すれば……」
彼は自分の広げた手の平を見つめ、自分だけでは到底探求しきれない問いを投げかける。周囲の街を通る人間達に異質なものを見る目で見られるが、フェイはそれを気にも留めず、深く息を吐く。
「……次、次だ」
一度大きく呼吸し、体の疲労を払うと、よろめきながら彼は立ち上がる。そして、自分の部下達の安否を確かめようと懐の連絡機を手に持った。彼の頭の中では、言葉で零したのと同様、既に次はどうジン達を捕えようかと考え始めている。最早強迫観念に近いほどの執着が、彼の背と思考に鞭を打っていた。
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ジンはフェイを退けた後、剣を鞘に納め、少し荒くなった息を整えていた。そうしながら、口の端から伝う血を右手の甲で拭う。
「まだまだ教えることはある。だが……」
ジンは手の甲に付着した自分の血を見つめ、深く息を吐く。彼の口から出た血は、フェイに顔面を殴られた時のものだろう。フェイの成果とも言えるそれを見つめながら、ジンはフェイが取り残された方向へと目を向け、呟く。
「確実に、近付いてきている……」




