第三話 : 踊る女
彼と出会ったのは三年前。
会社帰り、急いでいた私は彼とぶつかり、肩にかけていたカバンを落としてしまった。
その拍子に中のものが道路に散乱した。
彼は慌てて、一緒に拾ってくれた。
それがきっかけで意気投合し、私たちは付き合い始めた。
彼はスーツを着こなしていて、どこか大手商社の社員のようだった。
けれど仕事のことを聞いても、いつもはぐらかされていた。
「君の長いまつ毛と黒髪、引き込まれるような黒い瞳が好きだよ」
会うたびにそう言ってくれた。
嬉しかったけれど、私は少し照れて、俯きながら頷くだけだった。
「照れるところも可愛いね」
それから二年。
彼はだんだん口数が少なくなった。
何を話しかけても、
「うん」
「そうだね」
スマホを見ながら、生返事ばかり。
枕を並べていても、心は私ではないどこかにあるようだった。
いつも背中を向けている。
ある日、私は彼の後をつけた。
閑静な住宅街。
彼は一軒の家に入っていった。
「パパ! おかえり!」
「あなた、お帰りなさい」
その声を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
――嘘だ。
――こんなことって。
――嘘でしょ。
帰り道、悔しくて涙が止まらなかった。
私は遊ばれていただけなの?
あの優しい言葉は嘘だったの?
それでも彼は、その後も私のマンションに来た。
「今日は何か雰囲気が違うね。何かあった?」
「ううん、何でもない。ちょっと体調が良くなくて」
「そう。気をつけてね」
「うん」
もう彼のすべてが虚像に見えた。
何を信じればいいのかわからなかった。
彼も最近では、最初の頃のような優しさはない。
いつか別れを切り出されるかもしれない。
それは悔しい。
弄ばれて捨てられるなんて。
――それなら、いっそ私から。
「ねえ、さっきも言ったけど、最近体調が良くないの。しばらく休職して、実家に戻ろうと思う」
「そっか。それなら仕方ないな。僕も最近忙しくなってきたから、ちょうどいいよ。ゆっくりしておいで」
彼はどこか、ほっとしたように見えた。
叫びたくなるのを必死にこらえながら、
「だから……今夜は帰ってくれる?」
それだけ言うのが精一杯だった。
「わかったよ。帰ってきたら連絡くれよ」
それが二人の最後だった。
彼からは、それ以来何の連絡もなかった。
自分から切り出した別れ。
なのに眠れぬ夜が続いた。
――そう、まだ愛している。
彼の声も、腕の温もりも、この体が覚えている。
悔しくて、悲しくて、寂しくて。
この気持ちをどこへ持っていけばいいのかわからない。
泣いても、泣いても、涙は止まらなかった。
――ここを離れよう。
アジアに女友だちがいる。
少しは気が晴れるかもしれない。
私は異国の下町に、小さなアパートを借りた。
窓を開けると、屋台から漂うスパイスの刺激的な香りと、行き交うバイクの喧騒が、熱気と共に流れ込んでくる。
色褪せた漆喰の壁。
軒先に吊るされた極彩色の果物。
すべてが私の知らない色をしていた。
部屋の隅には簡素なベッドが置かれ、藍色の木綿のケットが無造作に掛けられている。
露店で買った、鈍く光る真鍮のアンクレットを足首につける。
更紗模様の長いスカートが、夕暮れの琥珀色の光を吸い込んで、軽く揺れた。
私は祈るように踊ってみた。
かつて愛した彼を思い出しながら。
シャラシャラとアンクレットが鳴る。
両手を上げ、くるくると回る。
私の心の澱を遠くへ運んでくれるかのように、ジャスミンの香りを孕んだ風が、そっと頬を撫でていく。
涙はもう出なかった。
枯れてしまったのかもしれない。
私は無心で踊り続けた。
――そう。
――私は自由。
誰も、私を止めることはできない。
私は、やっと自由を手に入れた。
彼と別れても、愛を忘れることはできなかった。
それでも、故郷を離れたこの異国の地で、彼への愛を手放すことができた。
かつての痛みさえも、時と遠い国の風が癒してくれた。
また新しい愛に出会うその日まで、
私は――自由に踊り続ける。




