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自分史  作者: 暮葉畏啓
霧雨巡社
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自己ログ倉庫30 「初期作品は恐れを知らない。」

第2話「幸せは幸せでない」


 コツコツと硬い床を打ち鳴らし無機的な音がコンクリート造りの廊下に響いていく。この細い通路で足音だけが私の存在を示していた。重要書類を抱えた腕がずしりと痛む。この疲れ切った体には紙の束でさえ筋トレ対象なのだ。


婚活を失敗した親不孝者である私は故郷から遠く離れたこの学校付近で細々と生活している。

そんな哀れで醜い私とは対照的に希望溢れる生徒たちにはせめて私の内情は隠し通したいものだ。


 この世界の住人は幸せの定義を履き違えている。

私はそう独白しながら痛む腕で扉をゆっくりと引いた。


 ねずみ色にくすんで錆びた大きな引き戸を力一杯引く。ギギギと不協和音が教室内と廊下に流れ込んだ。そんな不快な歓迎を私は断固無視し教卓への一本道をのしのしと歩く。私が教室に入る前から閑散としたこの教室には誰の声も音も響いていない。黒板の前に設置された教卓で私は手元から奥まで見渡す。やはり異様な光景だ。血気あふれる中学生には似つかない緊張した空気がそこにあった。

私は口を開く。


 「この学級の担任になりました。まずは私の自己紹介をします。」


規則的に並んで椅子に座る中学生はビクビクと全身を震わせながら私の顔色を窺っている。怖がられるような外見ではないのだが、と少々がっかりし、それでも値踏みされるよりはマシだろうか、と納得し背面にある黒板にチョークで名前を書く。コンコンコンと時計が刻む音のように律動的に手を動かす。


 河南 ユリエダ カワミナミ


「これが私の名前なのですが、一発で当てた人はいません。自信がある子は挙手して下さい。」


 私は自分語りにならないように会話の主導権を彼らに委ねた。独裁政治、圧政は自身の身をいずれ滅ぼす。故に私は共和性の道を示した。

次第に彼らは口を開き始める。巻き起こる喧騒も今は聴き心地が良かった。


「かわみなみ、かなん?こうなんかも。」


彼らのうち一人の生徒が挙手をした。クラスの中央付近に座るその生徒は将来このクラスの中心的存在になるかもしれない。私は座席表を覗き名前を読み上げた。


「では、西澤さん。」


はい、と威勢よく声を出し、希望を編んだ天然パーマは口を開く。


「かわなみだと思います。」


彼の声は驚くほどこの教室に響いた。まるでエコーがかかった機械音声のように。


「正解です。よくわかりましたね。えっと西澤さん。ですね。」


私はそう言いながら手帳にボールポイントペンで書く仕草をする。巷で言うポイント制度が今なされたのかという疑問がクラス中を覆い被さる。


ポイントを得たと勘違いし恍惚な表情をするその少年だけでなく悔しそうな顔をした生徒はちらほらと見える。

ポイント制度。素晴らしい仕組みである。承認欲求の塊である子供には自己の優位を形として表してくれるこの制度は非常にやる気が生まれ、好意的に捉えられる事が多い。そして私もまた積極的な学生を相手にすることができる。両者メリットしかないのだ。しかし私は書く仕草をしただけで実際はポイント制度など行なっていない。

存在しない制度を相手に想像させ自分に都合の良い恩恵を得る。客観的にもかなりの策士であるが、この事実は私が若者でないことを表しており、ただ喜ぶだけではいられない。


ふう、と誰にも聞こえないようため息をした後、再び主導権を受け取り声をかける。


「では私の自己紹介が終わったので今から皆さんの自己紹介を始めます。自分の名前と好きなモノを一言添えて話してくださいね。」


私が出席番号一番が座る窓側先頭の席を見つめると観念したのかその少年は立ち上がる。

教室には柏餅を想起させる桜の甘い香りが風に乗ってやってきた。一年で最も過ごしやすい季節。別れと出会いの季節。ぬるま湯のように心地よい空気が漂う気持ちの良い季節。


 色々と称されるこの季節はどこにでもあるモノではない。四季がここまではっきりしている国はそうないだろう。しかし今の私たちはそんな突出した魅力をただの常識と捉え気にもしていない。

このクラスにいる人間全員がその事実に違和感すら感じていない。私は続々と自己紹介を行う生徒たちを見つめただ茫然と思った。


この世界の幸せは腐っている、と。

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