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業火の舟  作者: キロヒカ.オツマ―


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逃れられぬ影

あの夜の血の匂いは、今も鼻の奥に焼き付いて離れない。


 舟木功二が極道の世界に足を踏み入れたのは、まだ二十歳の頃だった。母親を腎不全で失い、借金まみれの父親が自殺した後、行き場のなくなった功二は、名古屋の片隅に根を張る小さな組織、鈴鹿一家に拾われた。


 そのとき手を差し伸べたのが、当時若頭補佐だった神堂覇真しんどう はしんだ。


「オレの弟になれ。家族が欲しいんだろう?」


功二が覇真に拾われた直後、制裁の夜があった。

 敵対組織・相良組の幹部の弟を捕らえたという情報が入り、功二と覇真を含む数名が廃ビルに集められた。薄暗いコンクリートの部屋。中央には、裸に剥かれた男が転がされていた。腕は後ろ手に縛られ、顔は腫れ上がり、鼻血と涙と小便で床を濡らしていた。


「生かしとくわけにゃいかねぇ。だがその前に楽しませてもらう」


 覇真はそう言うと、鞄の中から錆びたペンチとアイスピック、ガスバーナー、そしてカミソリを取り出した。功二は、その一式を見た瞬間、胃の中が冷たくなったのを覚えている。


 覇真は男の前にしゃがみ、笑った。


「お前、妹がいるらしいな。名前は……美咲、だったか?」


 男の顔が強張り、何かを言おうとするが、歯が折られていて声にならない。


「大丈夫だ。今頃、うちの若い衆が遊んでやってるさ」


 その言葉に男は絶叫し、涙を撒き散らしながら体をのたうった。覇真は楽しげにペンチで男の親指の爪をゆっくりと剥ぎ取った。爪が剥がれる音が、粘つく血の音とともに部屋に響く。剥がされた箇所から血と膿が滲み、男は喉が潰れるほどの悲鳴を上げた。


「功二、お前もやれ」


 覇真がペンチを差し出す。断れば、次は自分が同じ目に遭う。功二は手を震わせながら、男の人差し指を掴み、爪を剥いだ。指の先から肉が剥け、血が溢れ、男は口から泡を吹いて失神しかけた。


「まだまだだ」


 覇真は、ガスバーナーで男の足の裏を炙り、皮膚が泡立ち、焼け爛れていく様を眺めた。皮膚が膨らみ、破裂し、焼け焦げた肉の臭いが部屋に充満する。


 さらに覇真は男の両目を親指で押し潰し、眼球を潰した。ぐしゃりと鈍い音が響き、男の目の奥から血とゼリー状の眼球液が溢れた。


「神様が見てるからなァ」


 覇真はそう呟き、男の腹を掴んでアイスピックで臍の上から下へと貫通させた。腸が溢れ出し、男は痙攣しながら息絶えた。


「こうして人は、業を浄化して逝く」


 覇真は返り血で濡れた顔を天井に向け、恍惚とした表情を浮かべた。


 功二は、その光景を見ながら吐き気を堪え、自分の奥底に染み込む快楽に似た恐怖を感じていた。殺し、痛めつけ、血を見て、自分が何者かでいられる。それが覇真の側にいるということだった。


 


 さらに別の日――

 覇真は、自分を裏切ったと噂された妊娠中の女を捕らえた。若衆たちの前で、女の腹を晒し、躊躇なく腹を裂いた。女は悲鳴を上げ、覇真は女の胎内から胎児を取り出し、ニヤリと笑った。


「こいつも地獄に送らなきゃな」


 覇真は生きたままの胎児の首を絞め、赤黒い顔をしたそれが動かなくなると、躊躇なくゴミ袋に投げ込んだ。


「これが浄罪だ。神の眼には、この世の罪は全て浄化される」


 若衆たちは誰も目を逸らせず、功二もまた、自分の魂が壊れていく音を確かに聞いた気がした。


 


 あの夜、組の粛清の夜もまた地獄だった。

 毒を盛られた幹部たちがのたうち回る中、覇真の命令で若衆たちは次々と刃物を突き立て、指を切り、眼を潰し、男の腹を裂き、まだ生きている内臓を引きずり出した。腸を掴んで引きずり回し、顔を剥いだ男もいた。

 覇真は大広間の中央で、膝を抱えた少女に近寄り、ナイフで喉を裂いた。


 返り血を浴びながら、覇真は功二の方を振り返った。


「お前も、その穢れた魂を俺がいつか清めてやる」


 覇真の瞳の奥にあったのは、地獄そのものだった。


 そして今、あの男が「ぬくもりの郷 さくらホーム」に触手を伸ばしつつある。


 かつて共に地獄を歩いた兄弟分。狂気と暴力を喜び、血と死に魅入られた神の狂信者。



 十年後――。


 功二は、岐阜の山間にある小さな老人ホーム「ぬくもりの郷 さくらホーム」で介護士として働いていた。夜勤が多く、認知症の老人の世話、排泄介助、深夜の徘徊、時に暴言や暴力も受ける。だが、血の匂いと鉄の味の染みついた己には、この静けさが必要だった。


 そこで功二は、一人の女性と出会った。高坂麗奈。看護師免許を持ちながら、このホームで働く女性。年齢は三十手前、サラサラの黒髪と気の強い目元。最初は功二を胡散臭がっていたが、彼の老人たちへの誠実な世話を見て、次第に打ち解けるようになった。


「舟木さん、あんた……何か抱えてるね」


 夜勤明け、コーヒーを飲みながら麗奈は言った。


「俺なんかより、利用者のじいさんばあさんたちの方が、よほど重たいもん背負ってんだ」


 そう呟いて笑う功二に、麗奈はふっと微笑んだ。


 


 だが、その平穏も長くは続かなかった。


 老人ホームに、不可解な入所者が増え始めた。身寄りもない、高齢の男や女。だがどこか様子がおかしい。無表情で、誰とも話さず、時折、小さく呟く。


「天は我らと共に」


 功二はその言葉に、凍りついた。


 覇真の教団で使われていた、教義の一節だった。


 さらに、夜勤のたびに奇妙な出来事が起こる。突然発作を起こして死亡する老人、誰もいないはずの廊下を歩く白装束の人影、消えた記録ノート、妙に増えた訪問者。


 ホームの裏に、黒塗りの車が頻繁に停まるようになった。


 功二は、じわじわと迫りくる過去の影を感じていた。


 あの男が来る――


 覇真が、自分の静かな逃避の場所にまで、血塗れの手を伸ばしてきたのだ。


 功二の耳の奥で、あの夜の、血を啜るような覇真の声が蘇る。


「お前の罪は、俺が清めてやる」



 逃げ場など、どこにもなかった。


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