第一章 partー8
「弘美ちゃん、足を合わせてみて」
ここはシューズフィッターのいる靴屋さんだ。
学校から帰るとすぐに母に連れられてやってきた。
歩くことは毎日の生活と健康の要であり、その足を収める靴はぴったりと合っていなくてはならない。
シューズフィッターに足型を取られたり、見本の靴で店内を歩き回ったして具合を確かめたりしたあげくに、これが最適という靴を示されたのだった。
通学用の黒色の革靴と、私用の可愛いデザインの黒色の革靴、そして可愛いデザインで明るいパステルカラーの靴との三足。
そろりと足を靴にいれてみる。
「ちょっときついかな……」
「これくらいが丁度よろしいかと思います」
「そうよ。朝と夕では足の大きさが変わるのよ。むくんじゃうのよね」
朝起きた時と夕方では、足のサイズが変わっているということは、シューズフィッターの基本常識だ。
「そうなの?」
「はい。おっしゃるとおりです」
「ちょっと歩いてみなさい」
「またなの?」
靴を選ぶのにさんざ歩いた後だからもううんざり気分だった。
「だめよ。ちゃんと合ってるかどうかを確かめてから買わないと後で後悔することになるんだから」
それから三足それぞれ履いて店内を歩き回って、結局その三足を買うことに決めた。
「通学用は、もう一足はないと困るから、今の靴の様子を見ながら、いずれまた買いましょうね」
はいはい。
もう疲れたよ。
だいたいからして、朝から履き慣れない革靴で歩き続けて、棒のようになっていたと言っても過言ではない。
靴の入った買い物袋片手に、母の運転する車に乗ろうとすると、
「弘美ちゃん、そんな乗り方しちゃだめよ。来るときに注意したでしょ」
と叱られた。
車に足から入ったからだった。
女の子が車に乗るときは、まず後ろ向きに足を揃えながら、スカートが皺にならないように注意しながら(つまり手を添えて)、お尻からシートに座って、おもむろに両足を車の中へ運び入れる。
誰も見てなきゃどうでもいいじゃないかと思うのだけどね。
「だめだめ、身だしなみというものは、常日頃からしっかり身につけていないと、
いざ素敵な男性にドライブに誘われた時に、墓穴を掘ることになっちゃうわよ」
あのねえ……。
なんでいきなりそんな話しになるんだよ。十年早いよ。
一旦降りてから、もう一度女の子らしい乗り方をする。そうしないと乗せてくれないのよね。もう……。
「ええと……。まだ時間があるわね」
腕時計を見ながらあたしを見つめた。
な、なに? なにかあるの……。
「ついでだから、もう一件回りましょうか」
と言って車を走らせた。
「どこ行くの?」
尋ねてみると、
「行けば判るわよ」
答えてくれない。にこにこと微笑みながら鼻歌まじり。
そこはランジェリーショップだった。
見渡せばそこは……。
可愛らしいブラジャー・ショーツから、殿方を魅了するセクシーベビードールまで。
目を覆いたくなるような女性用のランジェリーが……。
ところでランジェリー{lingerie}とは、フランス語で婦人用下着のことらしい。では紳士用下着はなんというのだろうか? アンダーウェアでは男女とも使うし英語だもんね。
さて……?
意外と知られていないものですね。
誰か教えてよ。あたしは和仏辞典持ってない。
そもそも女性衣料品は、やたらカタカナ語それもフランス語を使いたがるのよね。それにくらべて男性衣料品は、下着と漢字かシャツなどの英語が多いと思う。
ええい、そんなことはどうでもいいの!
今の問題は、目の前にあるこのランジェリーだ。
「ねえ、これなんか可愛くていいわよ」
と楽しそうに品選びしている。
本人よりも母の方が夢中というところだ。
自分じゃもう着ることができないとびきり可愛いものを、娘に着せて喜んでいるという図式。
いい加減にしてほしいなあ……。
しかし……、いかにも楽しそうに娘のランジェリーを選んでいるその横顔を見てふと思った。
そうか……。
母さんは、ずっと男六人の中でたったひとりの女性として、暮らしてきたんだったっけ……。
女同士だけの話を共有する相手もなく。ただ一人寂しく息子達を育ててきたんだ。
すこし可哀想に思えてきた。
それだけに女の子ができたということで、これほどまでに嬉しそうな表情を隠しもせずにしているところなど見たこともなかった。
そうだね。
母さんと一緒にいる時くらいは、女の子らしくしていてあげよう。
心底そう思った。
ヴィーナスに対してはしゃくにさわるけど……。
「弘美ちゃん、ありがとう。また一緒にお買い物に行きましょうね」
帰りの車の中で母は言った。
別に母が「ありがとう」という筋合いのものではないが、一緒に楽しく買い物が
できたことへの感謝の気持ちを現したものであろう。
「うん、そうだね」
ごく自然にそう答えてしまう。
まあ、いいさ。
女の子としての躾には、ちょっとうるさいと思うこともあるけど、すべてはあたしのため。言葉遣いはやさしいしまなざしは温かい。
親孝行も大切だよね。
「疲れたあーっ!」
家に帰りついて、ソファーに寝そべるようにして、足の疲れを癒す。
とたんに、
「弘美ちゃん、はしたないわよ」
と注意される。
「へい、へい」
起き上がって、腰掛けるように座ると、
「両足は広げずにちゃんと揃えてね」
となる。
女の子としての躾に、一所懸命なのは理解できるけど……。
ああ、女の子ってなんて面倒くさいんだ。
なんて考えていると、
「はい、弘美ちゃん」
何か手渡された。
広げてみると……。
「エプロンじゃない……」
「そ、夕食の支度のお手伝いね」
「な、なんでえ! 今まで、そんなことさせなかったじゃない」
「お料理は、女の子のたしなみよ。お手伝いしてもらいながら、少しずつ教えていくからね」
そんなの男女不平等だよ。
男が料理したっていいんだから。
女の子だからっている理由だけで……。
「はい、はい。お台所へ行きましょう」
しかし、母さんには通用しないみたい。
ヴィーナスじゃないけど、このあたしを女の子として人前に出しても恥ずかしくないだけの躾をしようと一所懸命なのだ。
ほとんど強引に台所へ連れていかれて手伝いをさせられるはめになった。
それから包丁を持たされて、下ごしらえとしてにんじんやら肉などのカットをやらされた。
手伝いをすること小一時間。
そのうちに三々五々家族達が帰ってくる。
「母さんのお手伝いか。弘美ちゃん、えらい!」
そう思うなら兄さんも手伝えよ。
しかしそれっきりリビングに行ってしまった。
母も兄弟達には手伝わせる気はないようだ。
「いいわ。弘美ちゃん、テーブルにお皿を並べて頂戴」
「うん……」
すでにテーブルには皿や茶碗が重ねて置いてある。それを各自の前に並べていく。
「それじゃあ兄さん達を呼んできて」
兄弟は全員帰ってきていた。
母の家庭方針で、食事時間は午後七時と決められていた。
家族はそれまでに帰るか、遅くなるときは必ず連絡することになっていて、全員ちゃんと守っていた。そういった物事のけじめには、幼少の頃から厳しい母だったからである。




