メラヴェル男爵家のアルバート卿
虚偽広告事件の数か月前の話です。
ロマンス番外編に収めるつもりで書いた小話ですが、特に甘い展開が含まれるわけでもないので第4部外伝扱いとしました。
本質的にはこれが今私に書ける至上のロマンスだと思っています。
「さて、そろそろ、私たちの役割分担を話し合った方が良いと思うのだが……」
ウェクスフォード侯爵家の三男アルバート卿が彼の妻メラヴェル女男爵アメリアに対して、出し抜けに言ったのは、新婚の二人がバークシャーのカントリーハウス<メラヴェリー・マナー>の応接間で午後のお茶を楽しんでいた1912年5月のことだった。
その年の3月に結婚した彼らだが、4月初めにハネムーンから戻ってすぐタイタニック号の沈没事故が起こり、心休まらない日々を過ごしていた。
しかし、悲劇から一ヶ月経ち、世間も彼らも、まだ悲しみの只中にはありつつも、ある程度の落ち着きを取り戻していた。
「あら、役割分担?話し合うほどのことがあるかしら?」
ティーカップを持ち上げてキームンの香りを楽しんでいたメラヴェル男爵家の当主かつ女主人であるアメリアは僅かに眉を上げた。
「もちろんさ。我々のような上流階級の夫婦には多くの役割が課されているからね」
アルバートは神妙な顔でメラヴェル女男爵夫妻が果たすべき役割を並べた。
「まず、これまで君とお義母さんが分担して担ってきた男爵家の当主かつ女主人としての役割がある。家族や使用人を含めた家の統率、領地経営、社交、慈善活動――君はレディだから幸か不幸か貴族院議員やその他の公職のことは考えなくていいが、とにかく盛りだくさんだ」
アメリアも彼の言葉に合わせて、一つ一つの役割を頭の中に思い浮かべた――確かに盛りだくさんだ。
その内、慈善活動については、今後もアメリアの母が一部担ってくれるが、その他については基本的に夫婦二人でどうにかしなければならない。
「それに、私が加わったことで、今後は、『男性的な』社交もあるだろう。狩猟パーティーの主催などだね」
この点も彼の言う通りだった。
これまで男手のなかったメラヴェル男爵家では、紳士向けの社交行事は催して来なかったが、アルバートが加わったのだから今後はある程度は開催しなければならないだろう。
「それから、私たち個人で引き受けている役割も忘れてはいけない。言うまでもなく、君は探偵業で私は執筆業だね」
アルバートの口調は、それまでと打って変わってどこか楽しげだった。
これにはアメリアも思わず微笑んだ。
彼がアメリアの「探偵業」を役割として数えてくれていることがなんだか嬉しかった。
「個人で引き受けている役割は分担できないから、それ以外の役割を分担しようということね?」
「ああ、そういうことになるね」
「そうは言っても、私が当主かつ女主人であることを考えると、『男性的な』社交以外は全て私の役割じゃないかしら?」
「おやおや、難儀な探偵業に加えて、家の役割をほとんど全て担ったら君は倒れてしまうよ」
アルバートはアメリアに向けて少し眉を上げると、傍らのサイドテーブルの上のティーカップを持ち上げて一口紅茶を飲んだ。
そして、至極優雅な所作でティーカップをソーサーに戻してから続けた。
「とはいえ……やはり『君でないといけない』役割がいくつかあることは認めよう。例えば、女男爵の地位と不可分の役割――男爵家や領地に関する事項の最終決定がそうだね」
「そうね。そればっかりは私が担わないといけないと思うわ。それから、基本的な社交や慈善活動も私が担うべきじゃないかしら?あなたのような紳士が先頭に立つわけにはいかないし……」
「君の言うとおりだね。ただ、公平に言えば、社交には多少分担の余地がある。しかし、君も気づいているだろうけど、私は本当は社交が苦手なんだ。できれば、ごく『男性的な』社交だけで容赦してほしい」
アルバートは眉を寄せながら言ったが、アメリアの口元には微かな笑みが滲んだ。
侯爵家に生まれ育った彼は、幼少期からの教育のお蔭で社交の技術には長けているのだが、それを心から楽しむことは稀なのだ。
それを知っているのは目下のところ、侯爵家の家族や彼の旧くからの友人、そして、アメリアしかいない。
「そうなると、私にできるのは領地経営の実務だと思うのだがどうだろう?領地管理人のミスター・マクドゥーガルとの定例会議、帳簿の確認、領地の見回り、小作人との交渉……そんなところだね」
「でも、あなたには執筆業があるのだから少し忙し過ぎないかしら?動き回りながらだと物を書けないわ」
「いや、執筆は自分のペースで書いたり休んだりできるから意外と問題にならないと思うんだ。移動しながら頭の中で書き進めることもできるしね。それに……」
アルバートは一瞬躊躇したが、結局はアメリアを真っ直ぐに見据えて言った。
「私も君の夫であるからには、この家に対して何か実際的な責任を果たしたいんだよ、マイ・ディア」
***
そうして、二人の話がまとまってから約一か月後――アルバートは悩んでいた。
彼を悩ませているのは、アメリアから引き継いで領地管理人ミスター・マクドゥーガルと共に進めている小麦農家向けの設備投資の件だった。
最新の耕作機械を地主であるメラヴェル男爵家が購入し小作人に貸し出す代わりに、小作料を増額したいという話なのだが、小作人の説得が難航していた。
もちろん、説得が一筋縄ではいかないことは、アルバートもミスター・マクドゥーガルもわかってはいた。
地主としては将来の小麦の収穫量を増やすために必要な投資を行いたいが、小作人としては本当に収穫増となる保証もないのに小作料が増えることに抵抗を覚えるのもまた道理だ。
しかし、アルバートには彼らの抵抗はそれだけが理由ではないように思えた。
「――というわけなんだ……君が私を信頼して任せてくれたのに申し訳ない」
アルバートの話を聞いたアメリアは僅かに首を傾げた。
去年、この話が本格化する前にさり気なく小作人の意見を聞いたときには、皆が大賛成とはいかないまでも必要性は理解してくれている感触があった。
特に、若手の小作人からは、小作料の増額だけで最新の機械を導入できるのは有り難いという声も聞かれていたくらいだ。
「申し訳ないなんて思わないでちょうだい、あなた。どの小作人が抵抗しているのかしら?」
「表向きは全員が反対だが……どうやらハリス、タッカー、ボウヤーがそう言わせているように見える」
アメリアは小作人の顔ぶれを頭に思い描いた。
——ハリス、タッカー、ボウヤー……皆、古参の昔気質の小作人ね。
——最古参のミスター・ハリスは、私が先代男爵から爵位と領地を継いだときにとても喜んでくれていたわ。
——「遠縁だろうが、女の方だろうが、とにかくグレンロス家の血筋の方に継いでいただくことが大事」だと言って。
——だとすると……。
暫く思案したアメリアは、自分の考えに内心で何度か頷いた。
「ねえ、アルバート。次の小作人との会合には私も連れて行ってもらえないかしら?」
「しかし、それでは結局君に負担がかかってしまう」
眉を寄せるアルバートに、アメリアは少し悪戯っぽく言った。
「あら、私は何も言わないわ。その場に『いる』だけ。説得するのはあくまであなたとミスター・マクドゥーガルよ。私は……そうね、二人が紙に文字を書きやすくするためのペーパーウェイトみたいなものよ」
そのヘーゼルの瞳の奥には静かな煌めきが宿っていた。
***
翌週、小作人との会合は、<メラヴェリー・マナー>の別棟にある領地管理人ミスター・マクドゥーガルの事務所で行われた。
領地管理人のデスクを挟んで、地主のメラヴェル男爵家側の参加者――アルバートとミスター・マクドゥーガル――が奥側に座り、小作人たちはデスクの手前側に並べられた椅子に座った。
ハイネックの白いレースブラウスに、外出用のネイビーのアンサンブル、控えめなトーク帽を身に着けた女男爵アメリアは、小作人たちからよく見える部屋の隅のアームチェアに座って議論の成り行きを見守っていた。
議論が始まった当初、小作人たちは女男爵たるアメリアに敬意を払いつつも、小作料の値上げを伴う設備投資には断固反対する姿勢を見せていた。
特に最前列に座ったハリス、タッカー、ボウヤーの三名は頑なだった。
中央で腕組みをした長老ハリスが無言で抵抗を示し、両側のタッカーとボウヤーが時々立ち上がって舌鋒鋭く反論を並べていた。
ただ、アメリアの視線が向けられると三人共ほんの僅かに口調を和らげた。
——やっぱり皆、拒否しているのではなく、心配しているのだわ。
そこで、アメリアはただ待つことにした。
アルバートとは事前には何も打ち合わせていなかったが、普段通りに振る舞えば、二人の間にあるものを見せる機会が必ずあると確信していた。
そして、議論が最も紛糾すると思われる論点――小作料の値上げ――に及ぼうとしたとき、「そのとき」が訪れた。
アルバートは、その話を切り出す直前に、一瞬だけアメリアの方に視線を向けた。
メラヴェル男爵家にとって、女男爵たるアメリアにとって、重要な事項を任せられていることを確認し、確かに引き受けるという合図だった。
アメリアは彼の視線に応えて一度だけ深く頷いた。
その瞬間、三名の古参小作人の雰囲気は明らかに変わった。
先ほどまで積極的に主張していたタッカーとボウヤーは黙って話に耳を傾けるようになり、代わりにこれまで沈黙を守っていた最古参のハリスが静かにいくつか質問を挟み、アルバートとミスター・マクドゥーガルの回答に頷いた。
最終的には、ハリスが「お話はわかりました。再度小作人同士でよく相談させてください」と言った。
これまで「小作料の値上げは認められない」の一点張りだったところ、大きな進展だった。
アルバートは思わずミスター・マクドゥーガルと顔を見合わせた。
そして、会合が終わると、更に驚くべきことが起きた。
小作人たちがアルバートの周りに集まり、質問攻めにしたのだ。
これまでにはなかったことだった。
先ほどまで話していた設備投資に関する質問もあったが、多くは彼個人のことだった。
バークシャーやメラヴェリー村の印象、タイタニック号の悲劇のせいで中止になった結婚の祝宴のこと、更には実家の侯爵家のことまで――。
アメリアは、部屋の隅のアームチェアに腰かけたまま、小作人たちに囲まれて微かに戸惑う彼を見てそっと笑みを浮かべていた。
すると、小作人の長老ハリスが歩み寄って来た。
彼女が微笑みを向けると、ハリスは恭しくお辞儀をしてから切り出した。
「女男爵様、わしらはあなたにお詫びをせにゃなりません」
「まあ、どういうことかしら?ミスター・ハリス」
アメリアが首を傾げると、ハリスは「本当はおわかりでしょう?」とでも言いたげな含みのある視線を彼女に向けた。
「わしらはあのお若くて高貴な旦那様がお優しいレディの女男爵様を侮って、夫の権利で好き勝手なさろうとしているのだと思っとりました。旦那様はなんとかって侯爵様のご子息だし、しかも、なんとかって大学までお出になっているときたものだから……てっきり」
ハリスは苦笑して肩を竦めた。
「しかし、実際は違ったようですね、女男爵様」
申し訳なさそうに眉尻を下げる彼にアメリアは鷹揚な微笑みを返した。
「心配してくださったのね、ミスター・ハリス。でもね、卿はあなた方が思うほど難しい方じゃないのよ。あの方はただ私と私の大事なものを守りたいだけなの」
アメリアが穏やかに言うと、ハリスは深く頷いた。
そうして二人は改めて小作人に囲まれる彼に視線を向けた。
そこにいたのは、すっかり打ち解けた笑みを浮かべる「メラヴェル男爵家のアルバート卿」だった。




