29.煙突に入るのは掃除屋だけじゃない(2)
「それじゃあ、引っ張りますよ」
「た、頼む……って、あんまり乱暴にしないでくれよ?」
私は煙突の内壁に足をかけ、男性の腕をしっかりとつかんだ。全体重をかけてグッと引くと――。
「いだだだだっ! も、もっと優しくしてくれーっ!」
「でも、こうしないと抜けないんです!」
「もっとこう……こう、愛のある引っ張り方ってないのか!?」
必死な悲鳴が響くけど、遠慮していては一生出られない。
試しに力を弱めて、そっと引いてみる。……まるで石像。びくともしない。
「……無理ですね、やっぱり強引にいきます」
「ちょ、ちょっと待てっ、今の相談タイムだっただろ!? いきなり――」
返事を待たず、私は再び力を込めた。足を踏ん張り、腕をぐいっと上に――。
「いだだだだっ! あだだだっ! 関節外れるうぅぅ!」
「んーっ、も、もうちょっと!」
「や、優しくしてって言ってるだろーっ!」
悲鳴が煙突の中で反響し、私の耳にまで響いてくる。けれど、ここで止めるわけにはいかない。
「がんばってください、あと少しで――!」
「がんばってるの俺の肩ぇぇぇ!」
そのとき、ズルリと何かが動く感触があった。
腕が少し引き出されたことで、男性の体がわずかに動き、煙突の隙間に変化が生まれる。
「よし……この調子でもう一息!」
私は息を整える間もなく、すぐに次の一手に移った。少しだけ片腕が引き抜かれただけ。これで油断したら、また戻ってしまうかもしれない。
「いきますよ、もう少しです!」
「ま、待て、心の準備が――」
「せーのっ!」
私は今度こそ全力で引っ張った。体を後ろに倒し込むようにして、渾身の力をこめる。煙突の中で男性の体がギシリと音を立てて動く。
「ぎゃあああっ、肩がぁああっ! 肩が過去イチで悲鳴あげてるぅぅぅっ!」
「ガマンです、耐えてください! もうすぐ、もうすぐだから!」
私は一心に腕を引いた。汗が頬を伝い、手のひらがじっとりと湿っていく。足元が滑りそうになるのをこらえて、さらに力をこめる――そのとき。
ズルッ! ボコンッ!
男性の腕がついに引き抜かれた。
「やった!」
「おっ? おっ? おおぉっ!?」
「動けますか!?」
「……ああ。体が……上下に動くぞ!」
よ、良かった! これで、この人はもう、煙突の中に閉じ込められたままじゃない。
「う、うぅ……ほんとうに、助かった……」
涙を滲ませながら、男性はその場で感極まったように言った。
「もし、誰にも気づかれなかったら……あのまま煙で……」
ゾッとする。想像しただけで背筋が凍った。
「もう大丈夫です。さあ、上へ登りましょう!」
「ああ、わかった!」
私は先に縄を伝ってよじ登る。煙突の縁に手をかけ、外の光を浴びると、すぐに男性も後に続いた。
そして――
「うぉぉっ、出た……! 外だ……生きてる! 本当に生きてるぞおぉ!」
煙突から顔を出した男性は、両手を広げて青空を仰ぎ、叫んだ。その姿に、私は思わず微笑んでしまう。
良かった。本当に、助けられて良かった……。
すると、男性がこちらを振り返り、私の手をぎゅっと握ってきた。
「ありがとう……! お前のおかげで助かった! 本当にありがとう!」
勢いよく頭を下げるその姿に、思わず笑ってしまう。
「いえ……無事でよかったです」
「うぅ、あのままどうなるかと思った……。はっ、そうだ! こんなところでのんびりしてる場合じゃなかった!」
急に何かを思い出したように辺りを見回すと、男性は目を見開いて梯子のほうへと駆け寄った。私は慌ててその後を追う。
そして、梯子の下を覗き込んだ瞬間――。
「あっ! お前か! 煙突の中にいたっていう男は!」
下から鋭い声が飛ぶ。制服姿の警備隊員が数人、こちらを見上げていた。
「降りてこい! 逮捕する!」
「げっ……! くそっ、見つかってたのか!」
男性は青ざめた顔で梯子から身を引き、勢いよく屋根の上を駆け出した。
「おい、待てっ!」
警備隊員が叫ぶが、男は止まらない。
そう言えば、この人は泥棒だった。煙突に詰まっていたのも、逃げる途中で身動き取れなくなったからだよね?
私は一瞬ためらったものの、すぐに判断した。
――今、私が協力すべきは彼じゃない。
逃げる男の足元を見据え、私は意を決して跳びかかった。
「待ちなさいっ!」
足元を狙って体ごと飛びつく。逃げ道を断つように、屋根の上で男に向かって――。
「わっ!?」
男性は盛大に前から倒れ込み、屋根に顔面を強打した。
「いでぇっ!」
その痛みに耐えかねて男性は屋根の上で蹲る。私は男性が立てないように必死に足にしがみ付いていた。
「いたぞ! 捕まえろ!」
すると、後ろから声が響いた。振り向くと、警備隊の人たちが梯子を使って屋根に上がってくるところだった。やがて数人が私たちのいる場所に駆け寄り、ぐったりした男性の体を押さえつけ、縄でしっかりと縛り上げた。
「もう逃げられないぞ! 観念しろ!」
「いででっ……くそぉっ!」
これで、もう大丈夫。私はそっと手を離し、ひとつ大きく息をついた。
「君が泥棒を取り押さえてくれたんだな。助かった、ありがとう」
その時、警備隊の一人が私に声をかけてくれた。険しい顔をしていたけど、今は少し緩んでいる。私は、思わずうつむいてしまった。胸の奥がじんわり温かくなって、恥ずかしいような、でも嬉しいような気持ちが込み上げてくる。
自分にできることなんて小さいと思っていた。けれど、ちゃんと誰かの役に立てたんだ。そう思うと、全身の疲れも吹き飛びそうだった。
「不届き者を見つけたら、また頼むぞ」
「……はい!」
人に頼られることが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
今の私は、ただのスラムの子じゃない。ちゃんと町の一員として見てもらえた——その実感が、胸の奥を温かく満たしていく。
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