第4話 ―死に損ない狂騒曲― ③
【魔道探偵ナツメ事務所 2階 応接室】
「私はいったい、どこの誰なのでしょうか?」
頬に深い傷跡を刻んだ悪相の老人は、容貌に似つかわしくない穏やかな口調で、そう繰り返すばかりだった。
彼の身なりは決して卑しくない。一目で仕立ての良さが分かる燕尾服を纏い、首には手の込んだロザリオが掛かっている。しかし、それらは等しく泥と埃にまみれていた。
「お名前も、どこから来たのかも、わからないのですね?」
そう問いかけたのは、まだ幼さの残る少女だった。眉をひそめ、心配そうに老人を見つめている。
「はい……どうにも、頭の中に霧がかかっているようなのです」
老人は、どこか他人事のような調子でそう答える。
「あの、ええと、あの、ほかに何か憶えていることはありませんかねえ?」
度の強い眼鏡をかけたモジャモジャ頭の青年がオロオロしながら尋ねると、老人はしばし考え込んだ後――
「そうですね……何か恐ろしいことから逃げてきたこと。それから、誰か大切な人に会わなくてはならないということだけは覚えているのですが」
それだけ言うと、虚空を見つめたまま黙り込んでしまった。
少女と青年は、どうしたものかと顔を見合わせる。
少女の名はアイラス・チックタイア。
「魔道探偵ナツメ事務所」で会計担当を務めている。
そして、いかにもお人よしそうな青年はユースケ・サイトー。
同じくこの事務所で「助手」という肩書を与えられているものの、その実態は「置物以上雑用係未満」という扱いであった。
さてさて、こうして所員二人が途方に暮れかけていると、階下でけたたましく扉の開く音がした。
ほどなくして、応接室のドアがノックもなく乱暴に蹴破られ、けだるいアルトの歌声が室内に響き渡る。
お昼♪ お昼♪ お昼にしよう♪
ただいま帰りましたよっと♪
もちろん♪ 手ごたえ♪ 今日も無~し♪
救いようのない歌詞を、無駄な美声で歌い上げたのは、腰まで届く黒髪が印象的な女性であった。
そう、彼女の名はナツメ・カナワ。
我らが「魔道探偵ナツメ事務所」の所長である。
「いやあ、営業はツラいねえ。ほとんどの会社が話も聞かずに門前払いしやがんの。いつかあいつらが頭を下げて依頼をしてくるようなことがあっても、ぜったいに、ぜぇぇぇぇったいに引き受けてやるもんかって……ん、ん、ん!?」
そこでようやく老人の存在に気づき、目を丸くするナツメ。
所員二人の冷ややかな視線をこれでもかと感じた彼女は、わざとらしく「エヘン」と咳払いを一つすると――
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました御客人。私の名はナツメ・カナワ、当事務所の所長を務めております。我が事務所は創立以来およそ100年に渡り、魔道に関わる難問を悉く解決して参りました。その依頼達成率は、なんと驚異の360%! 当業界で右に出るものはいないと自負しております。加えて、秘密厳守、リーズナブルな料金設定、どれをとっても気に入っていただけると思いますよ」
そう流暢に口上を述べ、優雅に一礼した。
――静寂。
最初に沈黙を破ったのは、もちろんユースケである。
「ちょっとナツメさん? まさかそのノリで営業をしてきたわけじゃないよね!?」
彼は目を白黒させながら立ち上がると、
「うちら、この仕事を始めてまだ1年も経ってないよね? それに、依頼達成率360%ってどんなチート使ったのさ!? 数値が盛られすぎてバグにしか見えないよ!? 波動砲が3発撃てちゃうよ!? 宇宙の法則が乱れてアルマゲスト発動だよ!? あとさ、ドヤ顔で『業界』なんて言っちゃってるけど、魔道探偵なんて超ニッチな職業にそんな概念あるわけないじゃない! 恥ずかしくないの? ホント、おはようからおやすみまでまるごと誇大広告だよ! ……ぐむむっ」
「お気持ちはわかりますがユースケさん、お客様の前ですから。ね?」
ツッコミを垂れ流すユースケの口を、アイラスが手で強引にふさぐ。
さて、そんな三文寸劇を見せつけられた老人であったが、依然として動じることはない。ナツメが、老人の顔をまじまじと覗き込んで言った。
「……あの、お客様、失礼ですが生きていらっしゃいますか?」
「ホントに失礼極まりないよナツメさん!?」
そう言って駆け寄るユースケを、ナツメは困惑した表情で制す。
「どうどうどう……。だって、最初からおかしかったんだよ」
「おかしいって、何が?」
「事務所に入った時――いや、この部屋に入ったときでさえ、この人の気配が一切感じられなかったんだ。で、顔を合わせてみれば瞬きも呼吸もしていない。心臓も動いていないでしょ、多分」
改めて老人の様子を観察し、ユースケとアイラスは息を呑んだ。
確かに、まつ毛一筋動かさないし、呼吸で胸が動くこともない。顔色の悪さも、血が通っていないと思えば納得がいく。
周囲のざわつきをようやく感じ取ったのか、老人がおもむろに口を開いた。
「ええ、どうやら私は死んでいるようです。自分では、あまり自覚はないのですが」




