―キタブ・アッカの箱― ⑩
この世界の【魔道】において、森羅万象は「四元素」と、それらが融合して生まれる「四領域」から成り立っている。
例えば、四元素を風・火・土・水と定義したとき、風と火を融合させると「雷電」の領域が、土と水を融合させると「草木」の領域が生成される。
しかし、対に位置する元素(例:風と土、火と水)はその性質上、互いに打ち消し合うため、自然の状態で領域を為す(融合する)ことはありえない。
「では、この法則を超えて対元素を融合させ、新たな領域を作り出したとしたら?」
【対元素融合】とは、簡単に言えばそのような魔道理論である。この発想自体は古くから存在していた。しかし「自然では存在することができない領域の生成」については否定的な考えが多く、現世利益の大きい錬成術等に比べると、この分野は長く日蔭の立場にあったと言える。
そんな状況が一変したのは、今から約300年前のことであった。ナワール魔道大学の研究特務班が、「極めて短い時間、極めて少量」ではあったが、【第五の領域】を生成することに成功したのだ。
この発見は、魔道の歴史において画期的な出来事であり、後世では次のように評価されている。
「――【対元素融合】の成功をもって、近代魔道は現代魔道へと移行した」
そして現在、【対元素融合】は最も注目される研究分野のひとつであり、多くの魔道士がその深淵へと挑み続けている。
§ § §
アルバートが【本鍵の試練】に挑戦し始めてから、一か月が経とうとしていた。
【箱】に設置された図書室。
机に突っ伏して仮眠を取っていたアルバートは、人の気配で目を覚ました。
顔を上げれば、そこに立っていたのは 【箱に憑かれた男】ことキタブ=アッカ。
「対元素融合か。ふむ、確かに難関ではある」
彼は、アルバートが枕にしていた分厚い書物をちらりと見て言った。
アルバートは慌てて姿勢を正す。
「これはお恥ずかしいところを……」
「いや、無理もない。決して平易な理論ではないし、発動には極めて繊細な操作が求められるのだから」
「4元素や4領域の魔道は、日常生活で何度もお世話になってきたので、むしろ楽しく吸収できたのですが、こいつはどうにも浮世離れしておる気がして……」
「自然の理をねじ曲げるような魔道だ。しっくりこないのも当然だろうよ」
「ひとつ発動するにしろ、大量の魔力と大規模な魔道具が必要となります。それゆえ現実的な使い道も限られるとなると、どうにもやる気が起きないのです」
「おやおや、宝を得るためという理由でも不足か」
「もちろん、宝は喉から手が出るほど欲しい。ですが、その、上手く伝わるかはわかりませんが……この魔道はどうにも美しくないのです」
キタブ=アッカは、その言葉を聞くと面白そうに眼を細めて、
「美しくない、か。なるほど、それは追求者殿にとっては重要なことであったな。
――そういえば、おぬしの『魔道美学論』を読ませてもらった」
それは、アルバートが学生時代に著した論文であった。
遠い昔の作品を唐突に掘り返されたとき、人はいつでも狼狽えるものである。
「いイっ!?儂の論文のことなど、いったい何処でお聞きになられたのですか!?」
「そりゃもちろん、アガク大師からさ。独善が鼻につくが、真理に触れているところも多くあると感じたよ」
「まったくもって若気の至りであのような……」
「反省など不要」
キタブ=アッカはニヤリと笑った。
「人格というものは石材とは違う。年を経たからといって丸くはなったりはしない。我やおぬしのようなはみだし者は特にだ。そうは思わんか?」
「はあ……」
「それにしても、惜しいな」
「惜しい?」
「おぬしには、狂が足りない」
「狂……ですか」
「執念と言っても良い。そうしたものがあと少しおぬしの中にあったならば、人間という箱から這い出て、こちら側に来ることもできただろうに」
「いやいやいや、一介のはぐれ魔道士には過分なお言葉かと」
「謙遜も不要」
そう言い切ってから、キタブ=アッカはアルバートを見据える。
――そして溜息。
「やれやれ、本気で言っているのか。あのアガク大師に『友人』とまで言わせた男が……勿体無いにもほどがあるぞ」
「はは、褒めていただけるのは光栄ですが、才に乏しいのは見てのとおりです」
アルバートが自嘲混じりに示した机の上には、書き損じの魔道式が山のように積まれていた。
「才に乏しい……か。では、追求者殿から見て、我、キタブ=アッカの才はどれほどのものだろうか」
その問いかけに、アルバートは即座に答えた。
「計り知れませんな」
一ヶ月にわたる修行を経て、彼の魔道は飛躍的に成長した。だからこそ【箱に憑かれた男】が操る魔道の凄まじさを、以前よりはっきりと理解できるようになっていたのである。
キタブ=アッカは、その答えを耳にすると、少し考え込んだようだった。
「我にとって、日常のすべては“究極の箱を作るため”の修行であった。だから、どのように難解な理論であっても、苦痛をともなう実践であっても、歩みを止めるようなことはなかった。……とすると、我が才などは、たかだか歩みを止めぬことに他ならない」
「きっと、それが一番難しいことなのです」
アルバートは、キタブ=アッカの目をまっすぐ見つめて、
「誰もが『そんなことは自分でもできる』と思うでしょう。けれども、寒いとか、足が痛いとか、忙しいとか、儲からないとか、周りの目が気になるとか――そんなふうに理由をつけて、結局は歩みを止めてしまうものなのです」
そう一息に言い切った。
それから、自分の言葉の熱に気付き、すこし恥ずかしくなって付け加える。
「そう考えると、師がさきほど言っておられた『狂』こそが、才の本質なのかも知れませんなぁ……いささか陳腐な結論で恐縮ですが」
老魔道士は、あくまで頑固な後輩に、呆れと慈しみの混じった視線を向けた。
「おやおや、そうすると、先ほどおぬしを『狂が足りぬ』と評した意図がまったく逆になってしまうではないか」
「叱咤激励と受け取っておきます」
「そんなに照れなくてもよかろうに……まあよい。その詫びというわけではないが、おぬしの止まりかけた歩み、我がひと押ししてやろう」
アルバートが怪訝な顔をすると、キタブ=アッカは苦笑する。
「なに、対元素融合理論の講義をしてやろうという話だ」
「それは願ったり叶ったりですが……いわゆる試験問題の漏洩に当たるのでは?」
「……見かけによらず娑婆臭いことを言う。だが、心配は無用だ。聞けばおぬし、ナワール魔道大学におったそうではないか。だから、これはあくまで“先輩から後輩への私的な教導”に過ぎない」
「なるほど、そういう理屈で……しかし、倫理的によいのかな……」
「ああ、もう、グダグダ抜かすでない。 他人が箱の中におると、どうにも落ち着いて研究ができんのだ。早う出て行って欲しいというのが正直なところよ。このまま放っておいたら、おぬし、ここで永住しかねんだろうが!」




