第92話 選ばない代償
空気が張り詰める。
誰も動かない。
でも、止まってもいない。
女の呼吸が乱れる。
壊れ始めている。
それでもまだ戻れる。
まだ。
「やめろって言ってんだろ!」
レオンが踏み込んだ。
一瞬の判断。
迷いはなかった。
素早く男との距離を詰める。
でも——
届かない。
触れる直前で身体が止まった。
見えない“抵抗”。
「……っ、なんだこれ」
歯を食いしばる。
力は入っている。
でも進まない。
「介入行動を確認」
男は淡々と言う。
「条件違反」
その言葉と同時に女の身体が大きく揺れる。
「——っ」
声にならない声が響く。
壊れ方が一段階進む。
レオンの目が見開かれる。
「やめろ!!」
さらに力を込め、無理やり体を押し進める。
軋む。
骨が鳴る。
それでも止まらない。
止まれない。
「いいから、そいつ離せ!!」
叫ぶ。
男はその言葉を聞いていない。
「条件更新」
静かに言う。
「対象二名、干渉優先順位を変更」
次の瞬間。
レオンの身体がわずかに引き戻された。
「……っ!?」
足元が揺れる。
視界が一瞬歪む。
何かが“入り込む”。
違和感。
寒気。
「……なんだ……これ……」
声が掠れる。
男は答えない。
ただ、調整している。
女と、レオン。
どちらを壊すか。
どちらを残すか。
イレーネは見ていた。
何も変わらず、選ばずに。
でも、少しだけ、ほんの少しだけ視線が揺れた。
レオンを見る。
歪んでいる。
苦しんでいる。
でも、まだ“戻れる”。
女は、もう戻れない。
その差。
「……ああ」
小さく呟いた。
理解する。
「……そういうこと」
選ばないとこうなる。
でも、それでも、選ばない。
「……別に」
ぽつりとこぼした。
「……どっちでもいいし」
その言葉が空気を歪める。
レオンの動きが一瞬だけ止まる。
「……ふざけんな……」
低く、絞り出す。
「……お前……」
言葉にならない。
怒りとも違う。
失望とも違う。
ただ、分からない。
その瞬間、女の身体が完全に崩れた。
音もなく、ただ、終わった。
レオンの目が見開かれる。
間に合わなかった。
自分のせいで、進んだ。
それを。理解してしまう。
男がわずかに頷く。
「結果確認。対象イレーネ、選択拒否」
「判定——」
一瞬の間。
「保留」
静かに言った。
男はそのまま踵を返した。
レオンも、イレーネも見ない。
役目は終わった。
残るのは、沈黙。
レオンはその場に立ち尽くしていた。
呼吸が乱れている。
「……なんでだよ」
小さく言う。
「なんで、何もしねえんだよ」
イレーネは答えない。
少しだけ考える。
でも、すぐにやめた。
「……だって」
静かに言う。
「……選ぶ理由、ないし」
それが、答えだった。




