第53話 近づきすぎた温度
夜は静かだった。
霧は薄い。
視界は開けている。
それでも、どこか輪郭が甘い。
ユリウスは壁にもたれていた。
特に理由はない。
ただ、ここにいる。
そんな感じだった。
「……来ると思った」
独り言みたいにぼそりと呟いた。
「そう?」
すぐ隣から声が返る。
驚きはない。
もう慣れている。
「……なんとなくな」
ユリウスは視線を動かさない。
横を見るまでもない。
セラフィナがいる。
いつもと同じ距離に。
でも、ほんの少しだけ違う。
短い沈黙。
だが、妙に意識される。
「……今日さ」
ユリウスが口を開く。
「なんか変じゃない?」
曖昧な言い方。
だが、不思議とそう思った。
「何が?」
セラフィナはいつも通り聞き返す。
声も、表情も、変わらない。
「……分かんねえけど」
ユリウスは少しだけ眉をひそめる。
「なんか、近い」
ほんのわずかな一瞬の間。
「近いよ」
セラフィナが言った。
「いつも通り」
「……そうか?」
「そうだよ」
あっさりと返す。
それで終わる、はずだった。
だが、セラフィナは動かない。
距離も、そのまま、近いままに。
呼吸が、少しだけ重なる。
前よりも、はっきりと。
ユリウスは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を下げる。
「……お前」
ぽつりと言う。
「顔色、悪くない?」
自然に出た言葉。
無意識に。
セラフィナの指先が、ほんのわずかに止まった。
けれど、すぐに戻る。
「そう?」
いつも通り、軽く返した。
「……いや」
ユリウスは少しだけ首を傾げる。
「なんか……違う」
うまく言えない。
でも、感じている。
セラフィナは答えなかった。
代わりに、少しだけ距離を詰めた。
さっきよりも、近い。
「……なに」
ユリウスが言った。
声は落ち着いている。
「別に」
セラフィナはやわらかく笑った。
「ちょっと見てるだけ」
それだけだった。
視線が合う。
外れない。
逸らさない。
だが、落ちてもいない。
セラフィナは見ていた。
観察じゃない。
もっと、単純なもの。
喉が、わずかに乾く。
身体が、正直に反応している。
ユリウスの鼓動が、少しだけ強くなる。
音はしない。
でも、分かる。
その瞬間、セラフィナの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。
ほんの一瞬。
「……っ」
止める。
自分で。
すぐに整える。
何もなかったように。
だが、遅い。
「……おい」
ユリウスが少しだけ真剣に言った。
「大丈夫か」
セラフィナは答えない。
代わりに、もう一歩、距離を詰めた。
近い。
近すぎる。
触れれば、終わる距離。
手が動く。
ゆっくりと、迷いなく、ユリウスの首元へ。
だが、止まる。
触れる直前で。
視線が揺れる。
ユリウスは動かなかった。
逃げない。
拒まない。
ただ、見ていた。
その“抵抗のなさ”が、逆に、引き金になった。
もう少しで、届く。
そのとき――
「……やめとく」
小さく呟いた。
自分自身に。
そして。何事もなかったように手を下ろした。
ユリウスは息を吐いた。
気づいていたのか、いないのか、分からない。
「……ほんとに大丈夫か」
もう一度聞いた。
今度は少しだけ強く。
セラフィナは少しだけ考える。
それから、ふっと笑った。
「ちょっとだけね」
軽く言った。
冗談みたいに。
でも、否定はしなかった。
ユリウスはそれを聞いていた。
深くは追わない。
追えない。
「……そうか」
それだけを言った。
それ以上は、何も言わない。
沈黙。
さっきとは違う。
少しだけ、重かった。
セラフィナは目を閉じた。
呼吸を整える。
明確に足りない。
目を開ける。
視界は変わらない。
でも、見え方が少し違う。
ユリウスを見た。
今度は、少しだけ距離を取って。
「……やっぱり」
ぽつりと。
「惜しいよね」
同じ言葉を。
でも、意味が変わっている。
「……何がだよ」
ユリウスが聞く。
「全部」
また同じ答え。
でも、さっきよりも静かだった。
それ以上は、何も起きない。
何も決まらない。
ただ、距離だけが残った。
近すぎて、でも、届かない距離が。




