第48話 上書きされるもの
昼の光は強かった。
窓から差し込むそれが、机の上の紙を白く照らしている。
エリアスはその光を見ていた。
何も考えていないわけではない。
だが、何かを無理に整理することもしていない。
紙に目を落とす。
報告書。
新しく書かれたもの。
内容は単純だ。
市内の巡回記録。
異常なし。
問題なし。
それが、何枚も続く。
「……正常ですね」
小さく呟く。
それは事実だった。
少なくとも、“新しく発生している異常”はない。
それだけで、十分な進展だった。
「失礼します」
扉がノックされる。
「どうぞ」
若い司祭が入ってくる。
少し緊張した顔。
「……あの」
言いにくそうに口を開いた。
「この前の記録なんですが」
手に持った紙を差し出す。
「一部、意味が通らない部分があって……」
エリアスはそれを受け取って視線を落とした。
数秒の沈黙。
「……問題ありません」
静かに言った。
「そのまま保存してください」
司祭が戸惑う。
「ですが、これでは……」
「分かっています」
やわらかく遮る。
「ですが、それでいいのです」
一拍。
「これは“修正すべきもの”ではありません」
司祭は完全には理解できていない。
だが、それ以上は言わない。
「……分かりました」
小さく頭を下げて、部屋を出ていく。
扉が閉まった。
エリアスはもう一度紙を見た。
意味が繋がらない文章。
だが、そこに確かに“あったもの”。
「……残っている」
小さく呟く。
それでいい。
消えていないなら。
完全でなくても。
その頃、外では。
「……あ、そうだ」
女が笑う。
手を打つ。
「これ買いに来たんだった」
小さな袋を手に取る。
さっきまで忘れていたことを、思い出した。
「やだ、ほんとに」
自分で笑う。
さっきの違和感は、もうない。
別の通りでは、
「――あいつだよ、ほら」
男が言う。
「前に話した……」
一瞬止まる。
だが、今度は出る。
「……リック」
名前が出る。
曖昧ではある。
でも、確かに繋がる。
「そうそう、そいつ!」
友人が笑う。
会話は続く。
少しだけぎこちない。
だが、ちゃんと進んでいく。
教会の外。
石段の上。
ユリウスは立っていた。
今は座っていない。
ただ、少しだけ歩いている。
足を止め、空を見上げる。
朝と同じ空。
でも、少しだけ違う気がする。
ふと、思う。
ここで、誰かと話した気がする。
やわらかい声。
近い距離。
少しだけ、首を振る。
「……まあいいか」
朝と同じ言葉。
だが、今は少し違う。
そこで終わらない。
「……あとで思い出すかもだしな」
小さく付け足す。
それだけ。
それだけの変化。
だが、確実に違う。
前に進んでいる。
「……おい」
声がする。
振り向くとレオンが階段の下にいる。
「……来い」
短く言う。
「仕事だ」
「……ああ」
ユリウスが頷く。
自然に、そのまま歩き出す。
すれ違うとき、ほんの一瞬、足が止まる。
レオンを見る。
少しだけ考える。
「……レオン」
名前を呼んだ。
確認するみたいに。
レオンが一瞬だけ目を見開く。
「……ああ」
短く返す。
それだけ。
それ以上は言わない。
ユリウスはまた歩き出した。
今度は迷いなく。
完全ではない。
欠けているものはある。
戻らないものもある。
それでも、積み重なっていく。
新しい記憶が。
干渉されないものが。
上書きするように、ゆっくりと、確実に。
人は、思っているよりしぶとい。
だから、続いていく。
少しだけ歪んだままでも、ちゃんと前に。




