第46話 残ったもの
静かだった。
あれだけのことがあったのに、教会はいつも通りの顔をしていた。
廊下を歩く足音。
遠くで交わされる小さな会話。
何も変わっていないように見える。
――だが、
違う。
ユリウスは立ち止まった。
窓の前。
外を見る。
街は、いつも通りだ。
人がいて、灯りがあって生活が続いている。
分かっている。
”なかったこと”にはならないことは。
ただ、一区切りついただけだと。
「……おい」
後ろから声。
レオン。
壁にもたれたまま、こちらを見ている。
「……どうだ」
短く聞く。
それだけ。
「……まあ」
ユリウスは肩をすくめる。
「生きてるな」
軽く言った。
だが、どこかで、少しだけズレている。
「そうかよ」
レオンはそれ以上言わない。
言えない。
何を聞けばいいか分からない。
沈黙が落ちた。
気まずくはない。
だが、以前とも違う。
「……あいつは」
ユリウスは無意識にぽつりと呟いた。
言葉が止まる。
名前が出てこない。
「……誰だよ」
自分で言って、少しだけ笑う。
乾いた笑い。
「忘れたか」
レオンが低く言う。
責めてはいない。
ただ、確認する。
「……いや」
ユリウスは首を振る。
「いるのは分かる」
「でも、名前が……」
そこまで言って、やめる。
「……まあ、いいか」
軽く流す。
それ以上は追わない。
レオンの表情が、わずかに歪む。
だが、何も言わない。
「エリアスが呼んでる」
短く言う。
「来れるか」
「……ああ」
ユリウスは頷く。
そのまま歩き出す。
違和感はある。
だが、止まらない。
その背中を、レオンは少しだけ見ていた。
分かっている。
それでも――
「……まあ、生きてるか」
小さく呟く。
それだけで、今は十分だった。
教会の奥。
静かな部屋。
「……ノア」
エリアスの声。
穏やかだ。
机の向こうには一人の男が座っている。
ノア。
顔色は悪い。
目の焦点が、少しだけ合っていない。
「……どうですか」
ゆっくりと問いかけた。
ノアは少し遅れて顔を上げた。
「……えっと」
口を開く。
考える。
「誰、でしたっけ」
その言葉に、部屋の空気が止まった。
エリアスは一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに戻す。
「……エリアスです」
はっきりと答える。
「……ああ」
ノアが頷く。
理解したように見える。
だが、浅い。
「……ごめんなさい」
すぐに言う。
柔らかく、申し訳なさそうに。
「最近、ちょっと……」
言葉を探す。
「……ぼんやりしてて」
弱く笑った。
だが、その笑顔はどこか空虚だった。
「……構いません」
エリアスは静かに言った。
「無理に思い出す必要はありません」
その言葉に、ノアは少しだけ安心したように頷く。
「……はい」
それから、ぽつりと呟く。
「……でも」
視線が揺れる。
「なんか、分かんなくなってきて」
小さく。
「……何で、こんなに嫌ってたんだっけ」
その言葉が、静かに落ちた。
エリアスは何も言わない。
言えない。
ノアの中から“理由”だけが抜け落ちている。
だが“感情”は残っている。
「……怖いんですよね」
ノアが続ける。
「分かんないのに……嫌いなままでいるのが」
その言葉で、すべてがはっきりする。
壊れている。
だが、終わってはいない。
エリアスは静かに息を吐いた。
これが、残ったもの。
これが、現実。
なかったことになったわけではない。
ただ、痕を残していった。
そして――
もう、元には戻らない。




