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やがて霧に還る  作者: いづくにか
ノクス編
26/75

第26話 記録と現実

 紙の擦れる音だけが、部屋に残っていた。


 静かだった。


 外の気配も、ほとんど届かない。



 エリアスは机に向かっていた。


 いつもと同じ場所。


 いつもと同じ姿勢。


 ペンを持ち、記録をなぞる。


 巡回の報告書。


 数日前のものから順に、丁寧に目を通していく。


 異常はない。


 少なくとも、書かれている内容には。


 ――はずだった。




「……」


 手が止まる。


 ほんの一瞬。


 それから、もう一度読み直す。


 同じ行を。


 同じ言葉を。


 同じ数字を。


 違和感は、小さい。


 言葉にするほどではない。


 だが、消えない。


 エリアスは紙をめくる。


 次の報告書。


 さらにその次。


 視線は一定の速度で動く。


 だが、内側では何かが引っかかっている。



「……人数が」


 小さく呟く。


 声に出したことで、輪郭が少しだけはっきりした。


 別の書類を引き寄せる。


 人員配置表。


 現在の構成。


 名前と役割。


 整然と並んでいる。


 エリアスは指でなぞる。


 一つずつ。


 確認するように。


 数える。


 巡回班。


 補助班。


 医療班。


 数字は合っている。


 書かれている限りでは。



 それでも、


「……」


 ペン先が止まる。


 何かが、足りない。


 あるいは、多い。


 どちらか分からない。


 だが、噛み合っていない。


 エリアスは目を閉じた。



 思い出す。


 昨夜の巡回。


 レオンの動き。


 ユリウスの位置。


 マルタがいないこと。


 それは、はっきりしている。


 だが、その“穴”が、


 どう埋められていたのか。


「……」


 浮かばない。


 不自然なことではない。


 細部を忘れることはある。


 だが、今回は違う。


 忘れている、というより――


 最初から、そこに形がなかったような。


 そんな感覚。



 エリアスは目を開けた。


 呼吸は乱れていない。


 思考も崩れていない。


 だが、確信だけが足りない。



 机の上に、もう一枚の紙を置く。


 白紙。


 そこに、ゆっくりと書き始める。


 日付。


 時間。


 巡回の構成。


 覚えている範囲で整理する。


 名前を書く。


 レオン。


 ユリウス。


 ――そこで、ペンが止まる。


 続かない。


 書けない。


 “次があったはずだ”という感覚だけが残る。



「……おかしい」


 小さく呟く。


 否定ではない。


 確認。


 エリアスは紙を裏返す。


 今度は別の角度から書く。


 配置ではなく、出来事の順序。


 遭遇。


 接触。


 戦闘。


 その流れを追う。


 途中までは滑らかに進む。


 だが、やはりどこかで引っかかる。


 流れが、一箇所だけ途切れている。


「……」


 ペンを置く。


 指先でこめかみを軽く押さえる。


 疲労ではない。


 混乱でもない。


 ただ、整合性が取れない。


 それだけだった。




 扉が軽く叩かれた。


「どうぞ」


 エリアスが言う。


 普段通りの声で。



 扉が開き、レオンが入ってきた。


 腕を組んだまま、部屋の中を一瞥する。


「まだやってんのか」


「ええ」


 エリアスは頷く。


「少し、確認したいことがありまして」


「確認?」


 レオンが眉をひそめる。


 面倒そうに。


「巡回の件です」


 エリアスは簡潔に言う。


「昨日の構成について、少し」


「なんだよ、ミスでもあったか」


「いえ」


 即座に否定する。


「そういう類のものではありません」


 レオンは椅子に寄りかかる。


 腕を組んだまま。


「じゃあ何だ」


 エリアスは一瞬だけ考える。


 言葉を選ぶ。


「……一部、記録と実感が一致しない箇所がありまして」


「は?」


 レオンが顔をしかめる。


「なんだそれ」


「私にも、まだはっきりとは」


 エリアスは首を振る。


「ただ――」


 少しだけ間を置く。


「一人、足りない気がするのです」



 レオンが黙る。


 数秒。




「……誰だよ」


「それが、分からないのです」


 エリアスは静かに答える。


「名前も、顔も」


「でも、いた気がするってか?」


「ええ」


 迷いなく頷く。


「そのように感じます」


 レオンが小さく舌打ちした。


「気のせいだろ」


 即答だった。


「人手足りてねえんだ、勘違いくらい起きる」


 現実的な判断。


 間違ってはいない。


 エリアスもそれは理解している。


「その可能性も、考慮しています」


「だろ」


 レオンはそれで話を終わらせる。


 それ以上深入りする気はない。



 だが、エリアスは言葉を続けた。


「ですが」


 レオンが少しだけ視線を向けた。


「この違和感は、単なる数の問題ではありません」


「……どういう意味だ」


「欠け方が、不自然なのです」


 静かに言う。


 抑揚はない。


 だが、言葉だけが重く残った。


「欠け方?」


「はい」


 エリアスは机の紙を示す。


「最初から無かったように、記録が整っています」


「にもかかわらず、私は“そこに何かがあった”と認識している」


 レオンは紙を見る。


 何も書かれていない。


 ただの整理途中の痕跡。


「……分かんねえな」


 正直な感想だった。


「俺はそんなの感じてねえ」


「ええ」


 エリアスは頷く。


「それが、通常です」


 淡々とした言い方。


「私も、そうであるべきだと思っています」



 レオンはしばらく黙る。


 それから、小さく息を吐いた。


「……寝ろ」


 一言だけ言う。


「考えすぎだ」


 それ以上でも、それ以下でもない。


 現場の判断。



 エリアスは少しだけ目を伏せる。


 否定はしない。


「……そうかもしれません」


 静かに言う。


 だが、完全には引かない。


「ただ、もう少しだけ確認させてください」


 レオンは肩をすくめる。


「好きにしろ」


 それで終わりだった。



 そのまま扉に向かう。


「でもな」


 振り返らずに言った。


「分かんねえもんに付き合いすぎんな」


 足を止めずに続ける。


「足元すくわれるぞ」


 そのまま出ていく。



 扉が閉まると、静寂が戻った。


 エリアスはしばらく動かなかった。


 その言葉を反芻する。


 否定はできない。


 理解もしている。


 それでも、ペンを取る。


 白紙に、もう一度向き合う。


「……これは」


 小さく呟く。


 自分に向けて。


 静かに。


「何でしょうか」


 答えはない。


 だが、問いだけははっきりと残っていた。





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