書籍発売記念 カミルとアルフォンス殿下
1章が始まる前の頃のお話しです。
僕は、人の美醜にさほど興味がなかった。整っているかどうかは見れば分かる。だけどそれが好意に直結するわけでもなければ、心を浮き立たせる理由にもならなかった。
だから、貴族の男たちがこぞって言い寄るルチア嬢にも、僕の心は微動だにしなかった。
確かに、彼女の容姿は愛らしい。潤んだような大きな瞳は庇護欲を誘うのだろう。くっきりとした目鼻立ち、触れれば折れてしまいそうなほど華奢な肢体――世間がこぞって称賛する理由は、理屈では分かる。
ただ、それが魅力的かと問われれば、僕には首を縦に振れなかった。
むしろ、もう少し肉が付いた方が健康的で良いのでは、などとのんきに考えてしまうあたり、僕の感覚はやはりどこか、世間とはずれているらしい。
***
そんな僕は、宮廷医師という立場上、時折アルフォンス殿下と顔を合わせることがあった。
年に一度の定期健診。僕にとってそれは、いつもと変わらぬ仕事の一つに過ぎない。王宮の廊下を歩けば、すれ違う侍女たちが揃って目を伏せる。時たま、流し目を向けてくる者もいたが、気に留める余裕もなかった。
「失礼いたします」
簡素な一礼とともに扉を開けると、殿下はすでに窓際の椅子に腰を落ち着けていた。診察は滞りなく進んだ。脈を取り、瞳孔を確かめ、いくつか問診を交わす。
殿下は検査の間、さして緊張する様子もなく、むしろどこか退屈そうに天井を眺めていた。
「異常はございません。引き続き、睡眠と食事には気をつけてください」
「分かったよ」
面倒くさそうな返事だった。毎度の事とはいえ、もう少し真剣に聞いてほしいものだと思いながら、僕は道具を片付けはじめた。
するとア殿下が、おもむろに口を開いた。
「お前は、婚約者はまだなのか」
かすかに眉が動いた。
「お恥ずかしい限りで……。忙しくて、まだ縁がありません」
「気楽なものだな。……なあ、どんな令嬢と婚約したいんだ?」
少し間を置いて、考えてみる。だが答えが出るよりも先に、殿下が軽く身を乗り出した。
「やっぱり、ルチアか? ルチアほど美しい令嬢はいないものな。ああ、駄目だぞ。ルチアは俺のだからな」
僕はちらりと視線を上げた。
エリザベートという婚約者がいながら、よくもそんな事が言えるものだ。そう思ったが、口には出さなかった。王族の軽口に言葉を挟む必要はない。
「……確かに、ルチア嬢は可愛らしい方ですが、個人的には健康面の方が気になりまして。もう少し体重が増えた方が、身体には良いかと思われます」
殿下は思わず吹き出した。
「健康を重視するとは、お前らしいな! 美しさよりも健康を気にするのはお前ぐらいなものだよ」
特に反論もなかったので黙っていると、殿下は続けた。
「それじゃあ、ルチア以外ならどんな女性がいい?」
「……そうですね」
少し考えてから、正直に答えた。
「エリザベート嬢のように、芯の強い方であれば素晴らしいと思います」
殿下の目が丸くなった。
「エリザベートだと? あんな醜い白豚がいいというのか?」
――醜い。
その言葉が、妙に耳に引っかかった。
「醜くはないでしょう。確かに体重の管理という点では課題がありますが……厳しい王妃教育にも音を上げず、礼節も完璧に身につけておられる。ご自身の考えもしっかりとお持ちだ。十分に素晴らしい方だと思いますが」
「はあ? 本気で言ってるのか? いくら勉強が良くたって、あの見た目だぞ」
僕には、殿下の言いたい事がいまひとつ理解できなかった。
「見た目が良くなければ、婚約者にする価値もないと?」
僕が問い返すと、殿下は鼻で笑った。
「当たり前だろう。毎日顔を合わせるんだぞ。それに――」
殿下は足を組み、どこか忌々しそうに続けた。
「あいつは生意気なんだ。女のくせに、やたら博識ぶって。こちらが何か言えば、すぐに口答えをする。王妃になる女が、王になる俺に意見するなど言語道断だと思わないか」
僕は答えなかった。
答えられなかった、というのが正確かもしれない。殿下の言葉を聞きながら、僕の頭の中には、今日廊下で見かけたエリザベートの姿が浮かんでいた。
彼女とは、一度口論になって以来、交流が途絶えている。それでも遠目から見た彼女は、侍女たちに囲まれながら、分厚い書物を小脇に抱えて歩いていた。その顔には疲労の色があったが、背筋は真っ直ぐに伸びていた。彼女はこちらに気づかなかったようだったが、僕はその背中が廊下の奥へ消えるまで、ただ見送った。
なにも変っていなかった。あの目は、賢そうに澄んでいたままだった。
「……殿下は、エリザベート嬢、とお話になられてるんですか?」
「話す気にもなれん。顔を見るだけで食欲が失せる」
「……そうですか」
僕は短く返す。それ以上は何も言わなかった。言ったところで、殿下の耳には届かないだろう。
彼女ときちんと話をすれば、その人となりはきっと分かるはずだ。志の高い、努力を惜しまない女性だと。恋心こそ抱かなくとも、尊敬くらいはするだろうに。けれど僕は医師であって、殿下の価値観を矯正する立場にはない。
ただ――と、道具を鞄に収めながら、僕は密かに思う。
芯の強さを生意気と呼び、知性を疎ましいと感じる人間と、生涯を共にしなければならない。
エリザベートにとって、それはどれほど息苦しいことだろう。
「カミル、お前は本当に変わった男だな」
殿下が呆れたように言った。
「エリザベートを褒めるなど、この宮廷でお前くらいのものだぞ」
「……そうでしょうか」
僕は鞄を持ち、静かに一礼した。
「では、また来年伺います。どうか体調にお気をつけて」
「はいはい」
軽い返事を背に受けながら、僕は部屋を後にした。廊下に出ると、行きよりも少し、足取りが重かった。
いくら勉強が出来たところで、あの見た目だぞ――
殿下の言葉が、頭から離れなかった。
……僕は変わっているのだろうか。
殿下の言いたい事は分かる。世間の大半がそう考えているのも、知っている。令嬢の価値は容姿から始まる。それがこの社会の共通認識だ。
だが、どうしても腑に落ちなかった。
いくら見た目が整っていても、中身が釣り合っていなければ意味がないだろう。美しい顔は、その人間が誠実かどうかを保証しない。賢いかどうかも、芯があるかどうかも、何一つ語らない。
むしろ逆だと、僕は思う。見た目など、さして重要ではない。中身こそが、人を人たらしめるものだろう。
……もっとも、それを口にすれば、また「お前は変わっている」と笑われるのだろうが。
僕は小さく息をついて、足を進めた。
――その数か月後、僕は別人のように変わったエリザベート様と再会することになる。
絞り込まれた輪郭、凛と背筋の伸びた立ち姿。誰もが目を奪われるほどの変貌に、僕も思わず息を呑んだ。
だが僕が惹かれたのは、その美しさだけではなかった。
誰かに言われたからではなく、自らの意思で変わろうとした、その芯の強さに――気づけば、目が離せなくなっていた。
だけどそれは、もう少し先の話だ。





