18話 まだ見ぬ未来へ
港の朝は早い。
まだ日が高く昇りきる前だというのに、岸壁にはすでに多くの人の気配が満ちていた。
湿った潮風が肌を撫で、波が岸壁を打つ音が絶え間なく響く。遠くではカモメが鳴き、白い影がゆっくりと空を横切っていった。
「春が終わって、朝の空気もすっかり初夏ね」
岸辺の並木では、若葉がまだやわらかく、朝の陽を透かして淡く光っている。枝先を揺らす潮風は軽やかで、頬を撫でても冷たすぎず、かといって盛夏のような重さもない。
そこにあるのは、生まれたばかりの季節の匂い。新しい時間が始まる気配だけだった。
「ヒノモトで過ごした日々は楽しかったけど、いよいよ帰る日がきたのね……」
ヒノモトでは、本当にいろいろなことがあった。
もちろん、楽しいことばかりではない。異国の娘だと侮られたこともある。命を狙われ、刃を向けられたことさえあった。
それでも、最後には認めてもらえた。そのおかげで、和食や和菓子に用いる原材料の輸入が正式に許可された。
なかでも大きかったのは、やはり醤油だろう。
源蔵が長く苦しんでいた病は、思ったとおり脚気で間違いなかったらしい。私が伝えた治療法により彼は快方に向かい、さらに同じ病に苦しんでいた人々も次々と回復したという。
源蔵たちには感謝の気持ちを告げられ、感謝の証として醤油の輸出を認めてくれた。城下町の人々も、何度も頭を下げて感謝してくれた。
その信頼があったからこそ、味噌や乾物、寒天といった他のヒノモトの品々の輸入交渉も、驚くほど円滑に進んだのだった。
私は岸壁に積み上げられた木箱の列を見渡す。
そこにはヒノモトの品々がぎっしりと詰め込まれていた。
ヒノモトで得たものを――今度は、リューベンハイトへ持ち帰る番だ。
「さあ、運ぶわよー! 待っててね、リューベンハイト!」
私の声に、荷役の人夫たちが一斉に振り向く。
「お嬢様、こっちはもう積み込み始めてますよ!」
「この箱は船倉の奥でいいんですかい?」
「ええ、それで大丈夫! 醤油は割れないように気をつけてね!」
次々に交わされる声。
私は腕まくりをして、木箱のひとつをぽんと叩いた。
「さあ、忙しくなるわよ。リューベンハイトで和食を広めないといけないんだから!」
ダイエットのためにも、和食は欠かせない。
祖国でも気軽に食べられるようにする――それが、これからの私の目標だ。
荷物を運ぶ先は、港に停泊する一隻の大きな船だった。
朝の光を受けた帆布は、目を細めたくなるほど眩しく輝いている。張りつめた縄は風を孕んで軋み、帆柱は低く、腹の底に響くような唸りをあげている。巨大な船体は寄せては返す波に身を預け、ゆったりと揺れていた。
「わあ、おっきなお船だねえ」と歓声を上げる子供。
「あれは海の向こうの遠い国から来たんだぞ。これからヒノモトの国産物と人間を運んでいくんだよ」
父親らしき男が、誇らしげに答える。
ヒノモトの港は、祝福のざわめきと、抑えきれぬ不安とに包まれていた。
今日、海の向こうへと出航する。
潮の匂いと、人々のざわめきと、祝いの太鼓の音……そのすべてが混じり合い、胸の奥を震わせるような空気を生み出していた。
新しい世界へ踏み出す高揚と、未知へ向かう怖れ。その両方を抱えたまま、港は今、ひとつの鼓動のように脈打っていた。
「お、サクラ様だ」
「姫様ァ、どうかご無事で……!」
そのざわめきのなかを、サクラは歩いてきた。
大使として海を渡る。それがどれほど重い決断か、私は知っている。彼女の細い肩に、この国の未来の一端がかかっているのだ。
薄紅の衣が潮風に揺れる。
顔は穏やかだ。けれど、その瞳の奥には、確かな覚悟が宿る。
「うむ、準備は整ったようだな。サクラ、いよいよ海外派遣の大使として……」
藩主の声が朗々と響く。その声色には、国主として誇りと、同時に娘を送り出す父の重さを含んでいた。
「はい。……行ってまいります。必ずやヒノモトへと成果を携えて戻ってきます!」
はっきりと告げるサクラ。
その姿が誇らしかった。この国の未来を担う者が、私の前にいることが。
少し離れた場所では、カミルが港の様子を確認していた。
荷の積み込みに追われる人夫たちや、別れを惜しむ見送りの列、船甲板で忙しく立ち働く船員たち。視線は常に巡っている。
「今のところは、問題はなさそうだね」
彼がそう呟いた直後だった。
港の奥、倉屋敷の並ぶ通りから、ざわめきが波のように押し寄せてきた。
祝いの声に混じる、場違いな怒号。
「開国反対!」
鋭い叫びが港の空気を裂く。
幾人もの男たちが、人波を押し退けるように姿を現した。粗末な刃物を握る者もいる。顔は怒りに歪み、目は血走っていた。
「姫というものが外国に渡るなど、許されんぞ!」
「国を売るな! 売国奴どもめ!」
港の空気が一瞬にして凍りつく。先ほどまで祝福ムードだった群衆は、恐怖と戸惑いの混じったどよめきに変わった。人々が後ずさりし、波のように空間が開いていく。
だが、ためらいなく前へ出たのはツキシマだった。
腰の刀が、朝日に鋭く閃く。ゆっくりと鞘から抜かれた刃は、冷たい光を放った。
「姫様! 必ずお守りします故、俺の後ろに下がってください! ……エリザベート殿も姫様の近くから離れぬよう、お願いします」
低く、しかし確固とした声。
その背は広く、頼もしい。剣先は威嚇するようにわずかに傾けられる。まるで、ここから先は一歩たりとも通さぬと言わんばかりに。
私は深く息を吸った。恐怖は、ある。だが、それ以上に胸に満ちていのは――信頼だった。
ツキシマならば、サクラと私を守ってくれる。サクラが海を渡ると決めたあの日から、ツキシマはどこか私を見る目を変えた。ただの外から来た客人としてではなく、サクラを預ける相手として、彼は私を認めてくれたのだろう。
「分かったわ!」
短く答え、私はサクラのそばへ寄る。
隣りで、カミルが注意深く周囲を見渡す。彼の瞳はすでに状況を読み解いていた。
「町民の皆さん! こちらから港へ、迂回しながら安全に移動します。風向きはこちらから海へ流れています。混乱が広がる前に、皆、落ち着いて!」
理路整然とした声が、群衆の不安をほどいていく。町人たちは顔を見合わせ、頷き、カミルの誘導に従って避難を始めた。
その間にも、敵は勢いよく迫っていた。けたたましい声が飛び、足音が荒々しく石畳を打つ。転がった石が甲高い音を立て、緊張をさらに煽る。
けれど――ツキシマの剣捌きは速く、そして的確だった。
抜刀の一閃。
刃は相手の武器だけを弾き飛ばし、次の瞬間には足払いで体勢を崩す。倒れた相手の喉元へ切っ先を突きつけるが、決して深追いはしない。その動きは無駄がなく、研ぎ澄まされている。
「姫様には傷一つつけん!」
彼の叱声が、怒号を裂いた。
私も、何もせずにはいられない。
「怪我人をこちらへ! 高台へ誘導して。子どもは母親と一緒に!」
自分の声が、驚くほどはっきりと響いた。
手を伸ばし、泣き出した子どもを母親のもとへ押しやる。転んだ老人を支え、倉の中へと急がせる。恐怖に呑まれるのではなく、今この瞬間にできることを。
しかし、その時だった。避難する町民の群衆に混じって、ひときわ荒い息遣いが混じる。
背後に、殺気。振り向く間もなく、影が迫った。
「きゃあ!」
叫びが喉を裂く。
けれど鈍い音が響き、私のすぐ後ろで何かが崩れ落ちる。振り返ると、反発派の男が地面に転がっていた。頭を鈍器で殴られたのだろう、ぴくりとも動かない。
そして、その背後に立っていたのは――
「……ツ、ツバキ!」
「久しぶりだね、エリザベート姫さん!」
いつぞや花街で会った花魁が、肩に木製の棍を担いだまま、にやりと笑った。
「……サクラ姫さんが、女だてらに海を渡るって聞いてさ。こりゃあ一目拝んでおかないとと思ったのさ」
肩に担いだ木製の棍を軽く振り、足元に転がる男を一瞥する。
「そしたら、この騒ぎだ。祝い事ってのは、どうも妬みを呼ぶらしいねえ」
からり、とツバキは笑った。
「いやあ、凄いもんだよ。女の身で大使だなんて、大きな仕事じゃないか。エリザベートお姫さんの力添えがあってこそ、かい?」
潮風が彼女の衣の裾を揺らす。
花街の灯の下で見た華やかさとは違う、凛とした強さがそこにあった。
「女でも社会で活躍できる日がくるなんてねえ……。ああ、そうそう。あんたから貰った白粉、ありがたく皆で使わせてもらってるよ! おかげで棍をぶん回せるぐらい、絶好調だ!」
ツバキは棍を肩に担ぎ直した。
「……あたいは此処で頑張るよ。あんたは、向こうで達者でやりな!」
そして、威勢のいい声がツバキの背後から飛んできた。
「俺の親父が世話になったな! うちの醤油、無事に届けてくれよ!」
ツバキの後ろに立っていたのは源次郎だった。
腕を組み、誇らしげに胸を張っている。
「……ええ、もちろん!」
私が力強く頷くと、源次郎は満足そうに大きくうなずいた。
そして、ツバキが力強く言う。
「さあ、行きな!」
背を押すようなその一言に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
皆を避難させながらーー、私はもう一度だけ、ヒノモトの港を振り返る。
ここで出会った人々。共に笑い、時に戦い、同じ未来を願った人たち。
その姿を胸に刻んだ。





