SIDEサクラ
私は“良き姫君”であるよう心がけてきた。
父に恥じぬよう、母の形見の着物を美しく着こなし、言葉遣いも礼儀作法も、誰よりも厳しく躾けられた。
いずれ、顔も知らぬ殿方に嫁ぐために。
それが“ヒノモトの姫”として生まれた私の、当然の務めだと疑わずにいた。
……けれど。エリザベート様に出会ってから、私の中の“何か”が、くすぶりはじめた。
「ヒノモトの食文化を、祖国に伝えたいの」
彼女がそう言った日のことを、私は忘れられない。
異国の令嬢でありながら、和食を熱心に愛し、味噌や醤油に心を動かされ、納豆でさえ「可能性を感じる」と目を輝かせる。
女性なのに、パワフルで。まるで風のように自由。そんな人、私は知らなかった。
「サクラ! この料理は、貴女たちの誇りよ。私はそれを、世界に知ってほしいの」
その言葉を聞いたとき、不思議と胸の奥が熱くなった。この人は、言葉でだけはなく行動で、ヒノモトを愛してくれている。
そう思ったとき、私はふと気づいてしまった。彼女が羨ましい、と。誰かに決められた未来ではなく、自分で選び、その道を迷いなく歩いていく姿が。彼女が自分の人生を自分で選んでいるという、ただそれだけの事実が。
長いあいだ、眠っていた私の心に火をつけた。それは小さな火種のはずだったのに、瞬く間に燃え広がっていく。憧れと渇望。二つの感情が渦を巻き、胸の奥から全身へ、指先にまで熱を巡らせ、私の心を揺り動かす。
胸の底に押し込め、見ないふりをしてきた想いと、向き合う時がついに来たのだと――そう悟った。
父上の顔、家の名。姫として背負うべき役目。
それらは幼い頃から、私の人生そのものだった。それを捨てることなど、考えたこともなかった。
けれどーー。頭の中に浮かぶのは、いつしか見た光景だった。
まだ、ほんの幼い子どもだった頃のことだ。
はじめて海を見た日を、私は今でもはっきり覚えている。
どこまでも、どこまでも続く青。空と海の境が溶け合うように遠くへ広がり、果てなどないかのようだった。
私は父の腕に抱き上げられ、その景色を見つめていた。
潮の香りが風に乗って頬を撫でる。
ざあ、ざあと寄せては返す波の音が、まるで世界そのものが呼吸しているように聞こえた。
幼い私には、そのすべてが大きすぎて。ただ目を見開き、言葉もなく見つめることしかできなかった。
視線を海の彼方へ投げたまま、父は言った。
「あの海の向こうには、まだ知らぬ世界があるのだよ」
そう言って、遠い水平線を指さした。
私はその指の先を追いかける。けれど、どれだけ目を凝らしても、そこにあるのはただ青だけだった。空と海、境目さえ分からないほど遠く、果てしない青。それでも、胸の奥が不思議なほど高鳴った。
潮の匂い、頬を撫でる風。波が砕ける音。
そのすべてに包まれて、心臓が跳ねあがるようにどきどきして、心のどこかを強く揺さぶった。
あのとき、私は知ってしまったのだーー。
世界は、ヒノモトだけではない。この海の向こうにも、まだ見ぬ広い世界が続いているのだと。
もし――。
もし私が、その世界へヒノモトを伝えることができるなら。
この国に生まれ、この名を与えられた意味が、そこにあるのかもしれない。
正直に言えば、怖くないわけではない。知らない世界へ踏み出すことは、きっと簡単ではない。
けれど、私は逃げたいとは思わなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……エリザベート様」
声は、驚くほど落ち着いていた。
「はい」
柔らかな声が返る。
その瞳は、急かすことも、試すこともなく、ただ私を待ってくれていた。
「私……」
一度、言葉を飲み込む。喉の奥が、かすかに震える。
今ここで口にする言葉は、これまでの私を変えてしまうだろう。それでも、もう一度。
「私、やってみたいです」
自分の声なのに、不思議なくらい揺らぎがなかった。
エリザベート様は、ほんのわずか目を見開いた。
「ヒノモトの文化を、世界に伝える仕事を。この国の娘でも、未来を切り開けるのだと――私自身で証明してみたい」
とうとう、言ってしまった。
けれど、不思議と後悔はなかった。むしろ、これまで気づかぬまま背負っていた重みが、軽くなるようなそんな感覚。
エリザベート様はじっと私を見つめていた。
やがて――口元がほころぶ。その笑みは、とても誇らしげだった。
「いい答えね」
そう言って、静かに頷く。
「では――サクラ姫」
その呼び方に、思わず背筋が伸びる。
「あなたを、リューベンハイト王国への大使として迎える準備を始めましょうか」
その言葉を聞いた瞬間。私の世界が、静かに動き始めた気がした。
もう、後戻りはできない。
けれど――私はきっと、この道を選んだことを信じられる。そう確信していた。
***
その夜、私は父上の書斎を訪れた。
扉の前に立つと、背中にじわりと冷や汗が滲んだ。ここへ来るまでに、何度も言葉を頭の中で繰り返したが、いざ扉を前にすると緊張する。きっと、父上は反対なさる。それでも、引き返すつもりはなかった。
私は深呼吸し、襖に手をかける。
「父上、サクラです。少し……お話ししてもよろしいでしょうか」
襖の向こうで、紙をめくる音が止まった。
少し間を置いて、低く落ち着いた声が返ってくる。
「入りなさい」
私は襖を静かに開け、書斎の中へ足を踏み入れた。
部屋の奥では、机に向かう父上が灯りの下で筆を置いたところだった。鋭いけれど、どこか優しい眼差しが、まっすぐ私を見つめている。
私は畳の上に座り、背筋を伸ばした。そして、胸の奥に抱えてきた想いを、ゆっくりと言葉にする。
「父上。……お話ししたいことがあるのです」
私は、すべてを話した。
エリザベート様から大使の話をいただいたこと。そして、その役目を引き受けたいと思っていること。
胸の奥にずっと抱えてきた、あの海の向こうに広がる世界への熱情を。
「私は……“大使”になります。ヒノモトの女性でも、未来を担えるのだと、私が証明してみせます」
言い終えた瞬間、部屋の空気がぴんと張りつめた。
父は机の向こうで何も言わず、私を見つめていた。
その視線は鋭く、逃げ場を与えない。藩主として長らくこの地を治めてきた男の眼差しだった。
「……サクラ」
低い声が落ちる。
「お前は、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「はい」
私は迷わず答えた。
「分かって、おります」
父の眉がわずかに動く。
「姫が異国へ渡るという意味を、本当に理解しているのか。……世の中は、理だけでは動かぬことが多い。ましてや、女が表に立つなど――まだ早いと思う者も多かろう」
父は静かに言った。
腹の底に響く、重みのある声だった。
「お前が傷つくかもしれぬ。蔑まれ、孤立することもあるだろう」
言葉の一つ一つが、胸の奥に落ちてくる。
父は決して声を荒げてはいないけれど、厳しい現実の言葉だった。
「きっと……縁談も来なくなる。女の幸せを望めなくなるかもしれないのだぞ」
その言葉は、叱責ではなかった。
むしろ――案じる父の声だった。
「私は……誰かが決めた幸せではなく、自分で選んだ幸せを掴みたいのです。たとえ、縁談が来なくても。それでも私は、自分の道を歩いたと誇れる人生を送りたい」
私は言葉を続けた。
「世界に伝えたいのです。ヒノモトの文化を、この国の誇りを。そして――ヒノモトの女性にも、未来を切り拓く力があるのだと、私が証明したいのです」
父はすぐには口を開かなかった。
一拍置いて、ゆっくりと息を吐いた。
「……まったく、親の心は子供知らずか。誰に似たのかと思えば」
父は私を見た。
その目には、ほんのわずかな懐かしさが浮かんでいた。
「お前は母に似ているな」
胸が、どくりと鳴る。
「えっ、母上に……?」
父は頷いた。
「お前の母も、そうだった」
遠い記憶を見るような目で言う。
「この国の外を見たいと、よく言っていた。……まあ、女の身では叶わぬと、最後には諦めていたがな」
私ははじめて聞く話に、息を呑んだ。そんな話は、これまで一度も聞いたことがなかった。母は私が幼い頃に亡くなっていて、顔さえ記憶はぼんやりしている。けれど、私と同じように海の向こうの世界に心を惹かれていたというのか。
父は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ると、私の前に立った。
「サクラ」
「はい」
「夢を見るのは構わん。だが――」
父の目が鋭く光る。
「夢というものはな、見ているだけでは決して叶わぬ」
私は深く頷いた。
「重々に承知しております」
父は私を見定めるように見据えていた。
そして、重々しく口を開いた。
「ならば、証明してみせろ。お前が本当にヒノモトを背負えるのか。その覚悟があるのか」
私ははっきりと答えた。
「あります!」
「よかろう。お前に機会をやる」
私は思わず顔を上げる。
父は背を向けながら言った。
「だが忘れるな。お前はヒノモトの姫だ」
開けた襖から風が吹き込む。
父は最後にこう告げた。
「その誇りを、決して失うな」
私は畳に手をつき、深く頭を下げた。
胸の奥で、確かなものが芽吹いていた。
――私は行く。
ヒノモトの誇りを胸に。そして、私自身の未来を掴むために。
***
廊下に出ると、ツキシマが立っていた。
暗い廊下の中で表情はよく見えないが、その立ち姿から、険しい顔をしていることだけは分かった。
どうやら、ずっとここで待っていたらしい。
「……話、聞いてたの?」
私の質問に、ツキシマは頷いた。
「ええ」
短く答えたあと、ツキシマは一歩こちらへ歩み寄った。
行灯の光がわずかに顔を照らし、その眉が深く寄せられているのが見える。
「なぜです」
その声には、抑えきれない感情が滲んでいた。
「なぜ、そこまでして外へ出ようとするのです。姫はこの国にいればいい。ここなら貴方を守る者も、支える者もいる」
私は息を吐いた。
「……それでも、よ」
ツキシマの目が細くなる。
「危険です。異国へ渡るなど、何が起きるか分からない」
「分かってるわ」
「分かっていません!」
「……ツキシマは、反対?」
小首を傾げながら上目遣いで問いかける。
ツキシマは肩を揺らした。
「はい。正直に申せば、今も賛同はしかねます」
「やはり、女だから?」
「……いいえ」
短い否定のあと、ツキシマは言葉を選びながら続けた。
「貴女が……大切だ。その貴女が、異国の地で踏みにじられるのが……耐えがたいのです」





