17話 胸に灯る小さな炎
翌朝。障子越しに差し込む光で、私は目を覚ました。
やわらかな朝日が畳に滲み、夜の名残をそっと溶かしていく。
「もう、朝なのね……」
胸に手を当てると、心臓の鼓動は穏やかだった。昨日まで胸の奥に居座っていた重たい何かが、嘘のように消えている。
私はうーんと背伸びをした。昨夜の湯の余韻がまだ身体に残っていて、どこか心地よい気だるさがある。
ゆっくりと息を吸い、そして吐く。
それだけで、世界が少しだけ優しくなったような気がした。
前世のことを話した。
隠し続けてきた記憶も、恐れも、弱さも――すべて。
「……それでも、私はここにいる」
ふと視線を向けると、隣の布団ではカミルが静かな寝息を立てて眠っていた。
穏やかなその寝顔を、私はしばらく眺めていたくなる。
「ん……エリィ、おはよう……」
まぶたがゆっくりと開き、カミルがぼんやりとこちらを見上げる。
「おはよう、カミル」
起きたばかりの彼の髪は、あちこちに寝ぐせが跳ねていた。
その無防備な姿が可笑しくて、思わずくすりと笑いがこぼれる。
きょとんとした顔でこちらを見つめるカミルに、ますます笑みは抑えきれなくなった。
「昨夜はよく眠れたかい?」
「ええ、おかげさまでね」
「……なんで、笑ってるの?」
不思議そうに眉を寄せる彼に、私は肩を震わせながら答える。
「ふふ……寝ぐせがついてるわよ」
「えっ」
カミルは慌てたように自分の髪に手をやった。
指先であちこち触ってみるものの、どう跳ねているのか自分では分からないらしい。
「ああ、恥ずかしいな……」
私は身を乗り出し、彼の頭の後ろを指差す。
「ここよ。ほら、ぴょこんって」
カミルはますます困った顔になる。
「見えない……」
その様子がおかしくて、また笑ってしまう。
「じっとしてて」
私はそっと手を伸ばし、跳ねた髪を指先で押さえる。
寝起きの髪は思ったより柔らかくて、くしゃりと指の間でほどけた。軽く押さえつけてやると、ようやく素直に落ち着いた。
「ほら、これで良いわ」
カミルは照れくさそうに髪を撫でつけながら、まだ少し眠たげな目で私を見ている。
「ありがとう」
「ふふ、旦那様の身支度を整えるのも妻の仕事よ」
そんな何気ない朝のやり取りが、どうしようもなく愛おしかった。
私たちは宿屋で朝食をとり、名残を惜しみながら温泉街をあとにした。
***
屋敷へ戻ったのは、昼下がりのことだった。
出迎えてくれたのはサクラだ。そして、私は彼女と並んで縁側に腰を下ろし、差し出された薄茶を手にしていた。
金粉を散らした菓子皿には、小さな練り切りがひとつ。淡い桃色に染まった花の形がちょこんと載っている。食べてしまうのが惜しくなるほど可愛らしいそれを、私はそっと口に運んだ。ひと口含むと、やさしい甘さが舌の上でふわりとほどけていった。
「どうでしたか? デートは楽しめましたか?」
サクラが湯呑を両手で包み、いたずらっぽく目を細めて尋ねる。
「ええ、楽しかったわ。素敵な宿を紹介してくれてありがとう」
「いえいえ、楽しんでいただけたなら、なによりです」
サクラは微笑み、相槌を打った。
陽光を受けた黒髪が青みを帯び、絹のような艶を放って揺れた。
私はその光景を眺めながら、昨夜の温泉街での光景を思い返していた。
提灯の灯り、湯けむりに霞む夜空、そして――カミルの手の温もり。
すべてが夢のように、心の奥にやさしく残っている。
そのカミルというと、今日はこの国の医師たちと話し合ってくるらしいと言って、出掛けていった。
先日、脚気ではないかと疑った城下町で流行している病。その患者たちに食事を変えるよう試してもらっている最中で、今日はその経過を見に行くらしい。そして、今後の対策を考えるのだとか。
責任感の強い、いかにも彼らしい行動だ。きっと真剣な顔で討論に臨んでいるだろう。
私はその姿を思い浮かべ、自然と口元が緩んだ。
「その簪も素敵ですね。昨日買われたんですか?」
湯呑を置いたサクラが、私の髪に挿された一本の簪に目を留めた。
そこには、翡翠の花をかたどった髪飾りが静かに揺れている。淡く透き通るような緑はやわらかな光を帯び、見る角度によってはほのかに煌めく。まるで、朝露を宿した若葉のような色――どこか、カミルの瞳を思わせる優しい緑だった。
「……カミルからの贈り物なの」
思わず、指先で簪に触れる。
嬉しさと、少しの気恥ずかしさに、頬がふわりと熱を帯びた。
「まあ……! 本当に、お似合いです」
サクラは目を細めて微笑む。
「ありがとう」
そう返したものの、頬に残る熱がまだ引いていないことを、自分でもはっきりと自覚していた。
贈り物に慣れていないから――きっと、そのせい。
そう思い込もうとするのに、胸の奥に浮かぶ光景が、それをやさしく否定する。
あのときの、カミルの横顔。
どれが一番似合うのかと、じっと簪を見つめる眼差し。少し困ったように眉を寄せながら、それでも楽しそうに選んでいた姿。
――まるで、実験の時の真剣な顔と一緒だった。
それだけ私の事を思ってくれたって事だ。
思い出した瞬間、心臓がきゅんと鳴る。同時に、口元がゆるみそうになるのを感じて、私は慌てて唇をきゅっと結んだ。
「カミル様は、本当にエリザベート様のことを大切にしておられますね」
サクラの声が、やわらかく私の胸に落ちる。
「……ええ。きっと、私の方がずっと、支えられているわ」
障子の向こうで、庭を渡る風が木々の葉を揺らす。池の水面もゆるやかに波打った。
その音に紛れるように、私はそっと笑みを零した。
「政略結婚なのでしょう? 本当に仲が良くて羨ましい限りです。私もお二人のように仲のいい夫婦になりたいものです……」
ヒノモトでも、リューベンハイト王国でも、身分の高い者に恋愛の自由はない。
愛よりも義務。結婚は家のため――それが常識。私とカミルの結婚が政略のものだと思われても仕方ないの事だった。
「ああ……実は、私たちの結婚は恋愛結婚なのよ」
「えっ! 恋愛結婚……、ですか」
サクラの目がまんまるに見開かれた。
驚きのあまり、湯呑の中のお茶がかすかに揺れる。
「……政略結婚の相手はいたのだけれど、上手くいかなくて。そのあと、ビジネスパートナーだったカミルと結婚したの」
サクラは見るからに動揺していた。
「大丈夫?」と声を掛ける。
「いえ……、恋愛結婚が許されているだなんて思わず、驚いてしました……。その、娘というのは……家の繁栄のための政略の駒、というのが常識ですから」
「そうね……」
少し考えてから口を開いた。
「私の国でも、女の立場が特別高いわけではないの。でも、数は少ないけれど、女の領主もいるのよ。私自身、公爵家の爵位は私が持っているしね」
その話を聞いて、サクラはしばらく黙っていた。湯呑を見つめるその瞳に、光と影が揺れる。
やがて、意を決したように唇を開いた。
「……私、この頃、ずっと考えていたのです。女が家のために嫁ぐのが幸せ――そう言われて育ちましたけど、本当にそれだけでいいのだろうかって」
落ち着いた声だった。
言葉は慎重に紡がれていく。
「エリザベート様を見ていると……ますます考えてしまうのです。自分の道を選んで、仕事をして、大切な人と共に生きて……。そんなふうに生きている女性が、ヒノモトの外にはいるのだと知って」
そこでサクラは小さく息を吐き、かすかに苦く笑った。
「女の幸せとは何なのだろう、と」
その問いは、独り言のようでもあり、長い間胸に抱えてきた疑問のようでもあった。
私はしばらく考えてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「難しいわね。人によって違うものだと思うの。結婚して家庭を守ることに幸せを見つける人もいるし、そうじゃない人もいる。ただ――誰かに決められた幸せじゃなくて、自分で選んだものなら……きっと後悔は少ないんじゃないかしら」
サクラは、はっとしたように目を瞬かせた。
「自分で……選ぶ」
「夢を、諦めきれないんでしょう?」
サクラはゆっくりと目を閉じた。
長い睫毛が頬に影を落とす。
「……私は生まれながら道が決まっていました。この国のために、いつかどこかへ嫁ぐ。それが私の役目だと、ずっと思っていました」
しばらく沈黙が落ちる。
そして、彼女はぽつりと続けた。
「けど、もし……もし許されるなら……やっぱり、私も――自分の足で、世界を見てみたい……です」
「そう……」
私は頷き、サクラをまっすぐ見つめる。
「ねえ、その覚悟はある? 人と違う道を歩くのは生半可ではないわよ」
「えっ……」
サクラが顔を上げる。
驚きに揺れる瞳を、私は逸らさず受け止めた。
「……貴方の夢の話をきいて、じっくり考えたの。サクラーー。貴方、大使としてリューベンハイトの国へ来てみない?」
サクラの瞳が、大きく揺れた。
「た、大使……ですか?」
「ええ。ヒノモトとリューベンハイトは、これから本格的に交流を深めていくわ。文化も商いも、まだ始まったばかり。橋渡しができる人が必要なの」
私は庭へ視線を向けた。
満開だった桜が、風に揺れてはらはらと散っている。薄紅の花びらが空を舞い、やがて地面へ音もなく降り積もる。
「この国を愛していて、外の世界にも目を向けられる人。両方を理解できる人が必要なのよ」
そして、もう一度サクラを見る。
「私は、それが貴方だと思った」
サクラは言葉を失ったように黙り込んだ。
指先が、膝の上でぎゅっと握られている。
「で、でも……」
ようやく絞り出した声は、弱々しかった。
「私はただの姫で……政治のことだって、そんなに詳しいわけじゃ……」
「それは、これから学べばいいことよ」
私は穏やかに言った。
「むしろ大事なのはそこじゃないの。異なる文化を理解しようとする心。人の話を聞こうとする姿勢。それがあれば、いくらでも成長できるんじゃないかしら」
サクラは、はっとしたように顔を上げた。
私は少しだけ笑う。
「それにね、サクラ。姫として政略結婚するよりも、大使として同盟関係を築く方が、国益になる場合もあると思うの。外交の象徴としてね」
その言葉に、サクラの目が見開かれる。
「それは……」
「つまり、貴方の夢と、国の利益を両立させる道があるかもしれない、ということよ」
庭のどこかで、小鳥が鳴く。
サクラは視線を巡らせ、縁側の先に広がる庭を見つめた。
陽光がその横顔を照らす。その瞳の奥で、何かが揺れている。
恐れ。迷い。
そして――小さな希望。
「……そんな道が。本当に、あるのでしょうか。でも、きっと……父上は許してくれないと思います」
私は息を吐く。
「反対されるでしょうね」
サクラの肩がびくりと揺れた。
「この国の常識からすれば、当然よ。女の身で外交官になるなんて、前例がないもの。でも、だからこそ意味があるとは思わない? 女の立場を向上させたいとも言っていたでしょう」
私は急かさず、穏やかに続けた。
「すぐに答えなくてもいいわ」
「……」
「でも、覚えておいて。貴方がもし世界を見たいと思うなら……」
私は微笑んだ。
「リューベンハイト国に、貴方の居場所を用意できるわ」
その瞬間、サクラの瞳に小さな火が灯った。
長い間、胸の奥に眠っていた夢が――
目を覚まし始めているのを、私は感じていた。





