15話 SIDEカミル
淡い桜色が、視界いっぱいに広がっていた。風が吹くたび、花びらがやわらかく宙を舞い、光を受けてきらきらと揺れる。
隣を歩くエリザベートは、その光景にしばし目を奪われたあと、ふわりと微笑んだ。
あまりにも穏やかなその表情に、いつの間にか僕の視線は彼女へと縫い留められていた。
そっと、手を取る。
指先に伝わる温もりは、風に散る花びらよりもずっと確かで――
エリザベートが、今この場所にいるのだという事実を、静かに胸へ刻み込んでくる。
彼女は桜を見上げながら、どこか懐かしむような目をしていた。
まるで初めて見る景色ではなく、思い出しているかのように。
満開の桜の下を歩くエリザベートは、本当に楽しそうだった。
花びらの雨の中で無邪気に笑うその姿を見ていると、理由も分からぬまま、胸の奥がざわりと波立つ。
境内の中心に立つ一本桜を見つけた瞬間、彼女はぱっと声を弾ませた。
「まあ、大きな桜の木だわ!」
天へ伸びる太い幹。
空を覆うほどに広がる枝。
無数の花が咲き誇り、風に乗って舞い落ちるその光景は、あまりにも現実離れしていて――
そして、なぜか、ひどく危うく見えた。
「……綺麗だ」
気づけば、そう呟いていた。
エリザベートは吸い寄せられるように桜のもとへ歩み寄り、太い幹に手をついて空を仰ぐ。
その背中を見た瞬間、胸の奥に、正体の知れない不安が込み上げた。
――このまま、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。
気づけば、僕は背後から彼女を抱きしめていた。
「な、なに。どうしたの、カミル」
戸惑った声。
「……エリザベートが、桜に攫われてしまう気がして」
自分でも馬鹿げていると思った。
それでも、その言葉は胸の奥から、どうしても溢れてしまった。
「もう……なにそれ。ずいぶんロマンチックなことを言うのね」
鈴を転がすような、軽やかな笑い声。
けれど僕は何も返せず、ただ腕に力を込めた。
「カミル……?」
不安げに呼ばれる声に、今度は僕の方が胸を締めつけられる。
彼女を抱く腕が、わずかに震えているのが分かった。
「……君は、不思議な人だ」
長い沈黙のあと、ようやく言葉を選ぶ。
「エリザベート。君が何かを隠していることくらい……前から、分かっていた」
小さく息を呑む気配が、背中越しに伝わる。
「僕は医者だ。人の表情や癖を見るのが仕事みたいなものだからね。
君の話には、知らないことが多すぎる。医学の知識も、言葉の選び方も……それに、あの目だ」
時折、彼女は遠い場所を見ているような目をする。
ここではない、どこか別の世界を映しているような――。
「エリザベートが秘密を抱えているのは……ずっと前から、薄々気づいてた」
腕の中の温もりが、ほんの一瞬、強張った。
彼女には、最初から小さな違和感があった。
僕は、君がくれた知識に何度も救われてきた。医師として判断に迷ったときも、妹を救えずに打ちひしがれていたときも。君の言葉は、いつだって、僕にひとつ先の景色を示してくれた。
それでも、王太子妃教育だけで説明できる範囲を、明らかに君は越えていた。
ヒノモトに来てからも同じだ。
この国の風土や文化を、初めて触れるものとしてではなく――
すでに知っているものとして語っていた。
それでも僕は、何も言わなかった。
気づかないふりをした。
違和感に名前を与えず、疑問を胸の奥へと押し戻した。
もし、それを言葉にしてしまったら。
もし、君に――「君は、一体何者なんだ」と問うてしまったら。
――君は、ここからいなくなる気がした。
理屈では説明できない。
医師として、最も信用すべきではない種類の確信。
それでも、その予感だけは、どうしようもなく真実味を帯びていた。
そして、何より。
……君は、時折、遠い目をしていたから。
今見ている景色とは別の何かを、胸の奥に重ねているような――そんな目を。
その目を見るたび、心が締め付けられた。
だから、踏み込めなかった。
怖かったんだ。
君が、どこかへ行ってしまうかもしれないのが。
「実は前世の記憶がある」と告白されたとき、確かに驚いた。
「……わたし、元々は、この世界の人間じゃないの」
けれど同時に、ひどく納得していた。
――やはり、そうだったのか。
君が語る世界。
科学が進み、忙しく、それでも確かに存在していた「日本」という国。
その言葉一つ一つが、これまでの違和感を、無理なく繋ぎ合わせていく。
腕の中の君は、温かくて。
けれど、怯えるように震えていた。
――失うかもしれない。
このぬくもりを。
積み重ねてきた時間を。
それでも――今、君はここにいる。
僕の腕の中で、泣いている。
それだけで、十分だった。
「ありがとう、話してくれて」
そう口にした声は、思いのほか穏やかだった。
君がどこから来たとしても。
どんな過去を背負っていようとも。
今、僕の心を掴んで離さない君は――
間違いなく、エリザベートだ。
***
僕らはその後、宿へと移動した。
湯から上がっても、夜はまだ深く、並んで腰を下ろしながら、僕らはゆっくりと言葉を交わした。
これまでのこと。これからのこと。
過去と未来が、穏やかに溶け合っていくような時間だった。
「これからも、あなたと一緒に……もっと多くの場所を見て、知らない味を知って、手を取り合って歩いていきたい」
エリザベートが描く未来の中に、当たり前のように自分が含まれている。
その事実が、胸の奥をじんわりと温めた。
湯けむりの向こうに揺れる星空が、彼女の想いを包み込むように瞬いている。
月光は彼女の瞳に映り込み、夜風が、ふたりの髪をやさしく揺らした。
もう、言葉はいらなかった。
語らずとも、心の奥深くで通じ合う何かが、確かに結ばれていると分かる。
耳に届くのは、宿に満ちる夜の気配――
遠くの虫の声。
風に揺れる木々の音。
そして、互いの静かな呼吸。
この時間が、永遠に続けばいい。
そんな願いが、ごく自然に胸に浮かんだ。
僕は、静かに決意する。
君の抱えるすべてを受け止めよう。
過去も、秘密も、迷いも――その全部を。
そして、君と共に生きていく。
それが、僕の選んだ未来だ。





