16話 ふたりきりのデートⅡ
2章全体を加筆修正しました。内容が大きく変わったため、11話から再掲載しています(特に12話・13話の醤油と病気のエピソード)。ですが、最新話まで読み直さなくても楽しめる形になっています。
最新話から読みたい方は「SIDEツキシマ」からお読みください。
なお、2章完結まで執筆済みですので、今後は毎日1話ずつ更新していく予定です。
声が震えて、喉がつまる。
「……わたし、この世界の人間じゃ、ないの」
言ってしまった。
心臓が早鐘のように打ち続ける。
体の奥から、冷たい恐怖がじわじわと這い上がってくる。
「……この世界の人間じゃない?」
カミルの腕が少しだけきゅっと強くなった。でも、拒絶ではなかった。
「私……前世の記憶があるの。この世界とはまるで違う、科学も発達して、便利で、でもすごく忙しない世界。
そこでは“日本”っていう国に住んでた。ヒノモトと、どこか似てるけど違っていて……。
ある日突然、その記憶を思い出したの……」
言葉が止まらなかった。止められなかった。
一度口にしたら、もう堰を切ったように溢れてくる。
「医学の知識も、言葉も、全部……その世界で学んだものなの。
でも、それを話すのが怖かった。前世の記憶があると言っても、信じてもらえないんじゃないかって、私のこと、気味悪く思うんじゃないかって……。カミルがそんな人じゃないと分かっていても、怖かったの」
自分の声が震えているのが分かった。
でも、それ以上に、心が震えていた。
「カミル、私、貴方に嘘をつきたかったんじゃないの。隠し事をしたかったわけでもないの。
ただ……あなたの隣にいたかっただけなの。
何も言わずに、普通に過ごして、あなたと季節を重ねて、笑い合って……それだけで十分だった。
だから……そんな日常を壊してしまうんじゃないかって、怖かったの……」
最後の言葉は、涙に滲んでしまった。
俯いたまま、カミルの胸に顔を埋めると、彼の心臓の鼓動が静かに響いていた。
とくん、とくん――
どこまでも穏やかで、優しい音。
「ありがとう、話してくれて」
静かな、でも確かな声。
カミルはわたしをそっと包み込むように抱きしめ直した。
「君がどこから来たとしても……」
低く落ち着いた声が、耳元に触れた。
「君が君であることは、変わらない。どんなに不思議な人でも、君は君だ。僕の知ってる、誰よりも優しくて、強くて、そして……どうしようもなく心を惹かれる、君なんだよ」
耳元で囁かれた言葉に、胸がじんと熱くなった。
抱きしめる力が、ほんの少しだけ強くなる。
「僕が怖かったのは、君が何かを隠していたことじゃない。
その秘密が、いつか君を連れて行ってしまうんじゃないかってことだった。でも……君は今、ここにいる。僕の腕の中に。
それなら、それでいい。
君の過去も、僕が受け止める。何も怖がらなくていい。君を、手放したりしないから」
そう囁かれて、ようやく――胸の奥で張りつめていた糸が、ぷつりと切れた。
止めようと思っても、涙は勝手に零れてきた。
安堵と、後悔と、愛しさと、あたたかさと――全部が混ざった涙だった。
「……ありがとう、カミル。あなたに出会えてよかった」
桜がまた、風に乗って舞い降りる。
花びらが頬に触れ、涙とまじりあいながら静かに溶けていく。
現実も過去も全部忘れて、カミルのあたたかさに身を預けたくなる。
今だけはもう少し、この腕の中で、泣いていたかった。
涙が落ち着くと、ずっと打ち明けられずにいた秘密を少しずつ話し始めた。
前世の記憶があること。ある日、突然思い出したこと。
そして、この国の風景や文化の端々に、前の世界の面影を感じているのだと。
「……日本、という国に住んでいたの」
静かな声でそう告げると、カミルの眉がわずかに動いた。
「日本……?」
「そう、海に囲まれた国よ。四季があって、桜の花が咲く季節があるの。春になるとね、街中が薄い桃色に染まるのよ」
目を閉じると、懐かしい光景が浮かんだ。川沿いを覆う桜並木、柔らかい風、花びらの雨。
あれほど美しい景色を、この世界で再び見ることになるなんて、涙が出るほど嬉しかった。
「お米が主食で、毎日のように味噌汁を飲んでいたわ。街並みも全く同じではないけれど……この国の雰囲気に、どこか懐かしさを感じるの」
口にするたび、心の奥が小さく震えた。
ずっと、誰にも言えなかった。長い間、誰にも言えずにいた孤独が、今になって波のように押し寄せた。
「……信じられない話よね」
「うん、少しだけ……いや、信じられないということではなくて」
カミルが珍しく言葉を探すように、視線を彷徨わせた。その様子がおかしくて、私は思わず小さく笑った。
「ううん、わかってる。私だって、夢みたいに感じるもの」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「日本では会社員をしていたのよ。お昼になると、仲のいい同僚と近くのお店に行ってね。ランチを食べながら、趣味の話をするのが好きだったわ」
乙女ゲームが大好きな子で、私が『聖なる微笑みは王宮で咲いて』をプレイし始めたのも、その子の影響だった。まさかゲームの世界に転生するなんて、あの子が聞いたら羨ましがるだろうな。そんなことを思うと、おかしいような、泣きたいような、妙な気持ちになった。
「後輩もいたわ。ちょっとお調子者だけど、愛想が良くて憎めない子で。よく泣きそうな顔をして相談に来るくせに、帰り際にはけろっとしているのよ。……可愛かったわ」
言葉にするたびに、胸の奥がじわりと温かくなった。遠い記憶の中の顔が、ひとつひとつ浮かんでは消えていく。
「みんな、元気かしら……」
少しの間、沈黙が流れた。
「……なんてね」
苦笑いを浮かべて、そっとカミルを見上げた。
けれど、カミルは何も言わなかった。ただ緩やかに、私を包み込むように腕を回してくる。
その温もりが、すべての恐れを少しずつ溶かしていく。
どれほど、そうしていただろう。
気づけば私は、長い時間、カミルの腕の中に身を委ねていた。
胸の鼓動と彼の呼吸が、ゆっくりと重なり合う。時間の感覚が曖昧になり、世界から音が消えていくようだった。
ただ、彼の体温だけが、確かな現実として私を包み込んでいた。
やがて、遠くで神社の鐘が鳴る。
その低い響きが、まるで夢から覚ます合図のように、私たちの間を静かに通り抜けた。
「……もう、行かなくちゃね」
私はそう言って、そっとカミルの腕から身を離した。
離れた瞬間、ふわりと夜風が吹き抜け、ほんのりと冷たい空気が頬を撫でた。
「落ち着いた?」
穏やかな声。いつもより少しだけ、やわらかい。
「うん……もう、大丈夫」
涙で熱を帯びた目元を、カミルが指先で優しくぬぐった。
「……カミルがいてくれて、良かったわ」
何も言わず、どんな私も受け入れてくれる。
その優しさに、どれだけ救われてきたか……。
既に、陽が傾きはじめていた。
ヒノモトの町はゆるやかに夕暮れへと溶け込み、街並みの色合いが少しずつ変わっていく。昼間の賑わいはひと息つき、どこか幻想的な静けさが通りを包んでいた。
そして、あちらこちらに吊された提灯に、一つ、また一つと灯がともる。
朱と金のやわらかな光が街の隅々までゆらめきながら広がっていき、私は思わず立ち止まって見とれてしまった。
「……まぁ。まるで、夜空が地上に降りてきたみたいね」
風に揺れる提灯は、和紙越しの炎がまるで桜の花びらのように淡く揺れて、まるで夢のような景色を創り上げていた。
「昼の賑やかな城下町も楽しかったけどけれど、夜の顔は……圧巻ね。心を奪われそうだわ」
私が呟くと、隣を歩いていたカミルが唇の端を上げた。
「君が夢中になってくれると、デートを提案した甲斐があるよ」
彼の言葉に、私はふと胸が熱くなる。
カミルとこうして歩けること、遠く異国の地にいても、私のそばには彼がいてくれること。それが、何よりも心強かった。
通りを抜け、高台にある温泉宿へと向かう。
ヒノモトに滞在中は領主の居城でお世話になっているのだけど、観光したいと申し出たところ、こちらの温泉宿を手配してくれたのだ。
そこは瓦屋根に白い湯気が立ち昇る、どこか懐かしい趣のある建物だった。木造の建物は年季が入りながらも丁寧に手入れされていて、ほんのりと漂う湯の香りに迎えられながら、磨き上げられた廊下をゆっくりと進んでいく。
「露天のお湯が自慢でございます。今宵は満月でございますから、趣のある情景をお楽しみいただけるかと」
案内してくれた宿の女将の言葉に、俄然楽しみになってきた。
部屋に案内され、荷をほどいた私たちは、さっそく湯浴み着へと着替えを済ませた。
侍女や護衛たちは、こちらが「気兼ねなく過ごしたい」と頼んで、別の部屋で待機してもらっている。
カミルは、浴衣の扱いにまだ不安があるようだった。そんな彼のために、私は手を貸すことにした。
「大丈夫、私が手伝うわ」
言いながら、私は彼の前に立ち、袖を通させてから、帯を整え始める。
カミルは少し戸惑った様子で、照れた笑みを浮かべながら言った。
「さ、さすが。手慣れているね」
不器用に袖を通しながら、カミルがどこか照れたように笑う。
「不思議だけど、着物の着付けまで日本と一緒なのよね。こうやって右前で着るのよ」
私は彼の襟元を整えながら、手順をひとつひとつ教えてあげる。
やがて着付けが終わり、私はそっと彼に微笑みかけた。
「じゃあ、また後でね」
カミルに別れを告げて、私は女湯へと向かった。
岩に囲まれた露天の湯舟。湯の表面にはうっすらと湯気が立ち昇り、その向こうには、満月が夜空にまあるく輝いていた。
湯の表面にも月の光がゆらゆらと揺れて、まるで天と地がひとつに溶け合っているかのようだった。
私はそっと湯に身を沈めた。
熱すぎず、冷たすぎず、じんわりと肌に馴染む湯のやさしさに、思わず目を閉じる。肩の力が抜け、日々の喧騒がどこか遠くへと溶けていくようだった。
――こんなに静かな時間、いつぶりだったかしら。
自然と吐息が漏れた。
……温泉はダイエット効果もあるのよね。
女将さんに聞いたところ、この温泉は別名『美女の湯』と呼ばれていて、美白の効用もあるのだとか。たしかに、肌がしっとりしてきたような気がして、ちょっとだけ嬉しくなる。
自国にも温泉があればいいのに……。
そう切望してしまうほど、この場所が心地よかった。帰りたくないな、なんて思いが、ふと胸をよぎる。
そういえば、カミルは……、まったくの他人と裸で温泉に入る文化に随分驚いていたけれど……ちゃんと平気だったかしら?
とうとう、前世のことを話してしまったけれど。
それでも、受け入れてもらえて、本当によかった。
これからのこと。
サロンの運営のこと。
そして、サクラのこと。
取り留めのないことを考えているうちに、身体がぽかぽかと熱くなってきて、のぼせそうになってしまった。
湯船から上がり、身にまとった湯浴み着の帯をぎゅっと押えると、私は脱衣所を抜けた。
暖簾をくぐると、ちょうど廊下の向こうから足音がして、カミルが現れる。
彼もまた湯浴み着を纏い、髪先からはまだわずかに湯気が立っている。肩の力がすっかり抜けて、柔らかな表情を浮かべていた。
「エリザベート。いい湯だったね。とてもリラックスした顔をしてるよ」
「貴方もね。ヒノモトに来るために事業が忙しかったし、久々にゆっくり出来て良かったわ」
私がそう言うと、カミルはすぐ隣まで寄ってきて、そっと私の手を取った。
掌に伝わる体温が、心の奥深くまで染み込んでいくようだった。
「温泉には効用があるんですね。医療に利用できないかと考えてしまいましたよ」
「あら、此処にきてまで事業のことを考えてしまうなんて。仕事病ね。……なんて、私もダイエットに利用出来ないか考えてしまったわ」
「ははっ、似たもの同士の夫婦のようだね」
くすぐったそうに、くすくすと笑い声を零しあう。
「ふふっ。やっぱり……この国の空気、少し懐かしく感じるの。前世で過ごした国と、そっくりなんだもの」
「そうなんだね。前世の君がどんな場所で過ごしてたのか知れて、嬉しいよ」
そう言って、カミルは一度口を閉ざした。
言うべきか迷うように視線を揺らし、それでも思い切ったように言葉を口にした。
「その、……エリザベート。前世と似ているこの国が気に入ったんだろう? それなら、移住という手も……」
思いがけない言葉に心が跳ねる。けれど、私はかるく首を振った。
「確かに……前世の記憶を恋しがった事もあったわ。でも、今は――あなたとこうしている今のほうが、大切なのよ」
月明かりの下で見つめ合いながら、私は心からそう思った。
異国の湯に浸かりながら、遠い旅路の果てに見つけたあたたかな時間。
確かに。私はこの国に恋をしつつあったけれど。私の心はすでに貴方の側にある。
「貴方と出会い共に過ごした祖国を、貴方と一緒に立ち上げた企業を大切に思っているのよ。――私は貴方の側で生きると決めたの」
カミルと、此処に来れて良かった。
前世の事を話したことで肩の荷が下りた様だった。解放されたような心地だった。
「これからも貴方と一緒に……もっと多くの場所を見て、知らない味を知って、手を取り合って歩いていきたい」
湯けむりの向こうに揺れる星空は、そんな私の想いを優しく包んでいた。
月光が彼の瞳に映り込み、夜風がふたりの髪をやさしく揺らした。
言葉はなくとも、心の奥深くで通じ合う何かが結ばれていく。
ふたりきりの湯の音、夜虫の声、そして星々のざわめきが、永遠に続くように思えた。
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