10話 交渉
倒れていた花魁を世話するという思いがけない出来事もあったが――それも含めて、ヒノモトで過ごした一日は、忘れがたいものとなった。
そして、ヒノモトを歩いたその翌日。
カミルは、現地の医師たちが集う寄合へと出かけていった。
私は再びサクラの案内を受け、城下町へと足を運ぶ。
行き交う人々の足取り、店先に並ぶ品々、何気ない日常の営み。それらを眺めながら、私は胸の奥で、しみじみとヒノモトという国の在り方を噛みしめていた。
「サクラ、あなたの通訳と解説のおかげで、私はヒノモトの良さを随分と知ることができたわ」
サクラは、静かに首を振った。
「いいえ、とんでもございません」
だけど、今度は私が首を横に振る番だった。
「そんな、謙遜しないで。ヒノモトの文化は本当に素晴らしいわ」
言葉を選びながら、胸に溢れる思いを口にする。
「とりわけ、食文化にはすっかり虜になってしまったの。醤油や味噌――発酵に宿る悠久の知恵。素材の清らかな味わいを引き出す“引き算”の美学。口にするたびに、この国が歩んできた歴史と、自然の恵みを感じるのよ」
思わず熱がこもると、私は小さく息を整え、さらに続けた。
「海藻から作られる寒天。あれは、我が国の菓子文化に革命をもたらすかもしれないわ。そして――“醤油”!あれは魔法の調味料よ。そして、“大豆”は、醤油、味噌、納豆、豆腐……様々なものに形を変える、まさに“魔法の食材”ね」
語るうちに、私は自然と声を弾ませていた。
この国で得た知恵は、旅の思い出に留まるものではない。頭の中ではすでに、未来の貿易図が鮮やかに広がっている。
「私は、これらの食品を自国へ輸入したいの。ただの珍品ではなく、リューベンハイト王国の食卓に新たな健康と美をもたらす“必需品”として、安定した供給ルートを築きたいわ!」
サクラは感心したように頷いたものの、どこか言葉を選んでいるようだった。
「……エリザベート様。申し訳ないですが、ヒノモトの伝統的な醸造元は――非常に、排他的です。彼らにとって醤油は、家伝の秘法。異国に売り渡すなど、想像もしていないでしょう……。ましてや、輸出という概念自体が存在しないかと……。」
私は静かに頷いた。その障壁の高さは、滞在の間にうかがい知れた。
「そうなのね。……この国の“外”への忌避感が、どれほど根深いかは分かってきたわ」
それでも、諦めるという言葉は私の辞書にない。
私はまっすぐに、サクラの瞳を見据えた。
「だからこそ、あなたに頼みたいの、サクラ。あなたの知識と、この国での立場、そして――何より、あなたの情熱があれば。彼らの閉じた心を、開けるんじゃないかしら?」
「え……」
「お願いよ。交渉の場に同行してくれないかしら」
サクラは言葉を失い、唇を固く結んだ。
それでも。
沈黙の奥で、確かに何かが揺れていた――
長い沈黙ののち、彼女は小さく息を吸い込み、凛とした声で言った。
「……分かりました、エリザベート様」
短い言葉だった。だけど、その声音には確かな決意があった。
私は笑みを浮かべ、「ありがとう」と感謝の気持ちを告げた。
***
私とサクラはその足で、城下町の南端へ向かった。
その通りには木桶と味噌の香りが立ちのぼっていた。さらに醤油の深く芳醇な匂いが、あたりに静かに漂っている。
「ここが、醤油の醸造元である“橘屋”です」
サクラが指差した先に、黒塀と白壁の蔵が重々しく佇んでいた。
門の上には、風雨に晒されて掠れた木の看板。“橘屋”の三文字が、古びながらも威厳を放っている。
その門を前に、私たちは思わず息を呑んだ。
この空気――外の人間を容易く拒む、厚い壁のような沈黙。
「ここはヒノモト有数の醤油蔵です。私の家では、こちらから醤油を下ろしていただいていて、馴染みはあるのですが……だからといって、その、エリザベート様の頼みを聞いていただけるかは、分かりません」
サクラの声はかすかに震えていた。
私はそっと彼女の肩に手を置く。
「大丈夫。きっと、分かってもらわるわ」
サクラは小さく頷き、両手で門を押し開けた。古い木の軋む音が響き、蔵の内から濃密な香りが溢れ出す。
橘屋の蔵は、数百年の歴史をそのまま閉じ込めたかのように、黒く太い梁が組まれ、時間そのものが染み込んでいるようだった。
熟成された大豆と麹、そして時の匂い――ここに積み重ねられてきた歴史、そのものだった。
蔵の中には、一人の青年がいた。
灯明の下で木桶をかき混ぜるその姿は、真剣だった。
髪は煤けた黒、袖をまくった腕には鍛えられた筋が浮かび上がっている。
「ん? お客さんかい」
私達に気が付いて、梯子を下りてくる。
「こんにちは。私、サクラと申します――。藩主の娘の……」
「藩主様の娘!? ああ、ちょっと待っててくれよ」
そう言って、人を使って、誰かを呼びに行った。
やがて、年老いた職人が姿を現した。白髪交じりの髪、煤けた前掛け、節くれだった手。その眼差しは、まるで蔵そのもののように重く、揺るがなかった。
「橘屋の当主、橘源蔵と申します。……姫様が、どのようなご用件で?」
「お初にお目にかかります。私、春日桜と申します。こちらはリューベンハイト王国のエリザベート・グラシエル様。ヒノモトの文化を、世界へ伝えたいと願っておられます」
「……リューベンハイト、だと?」
源蔵の眉がぴくりと動く。
「はい! 私はリューベンハイトにヒノモトの食文化を伝えたいと思っておりますの。それゆえ、和食に欠かせない調味料である醤油を是非とも輸入させていただきたいと存じまして……」
しばしの沈黙ののち、彼は蔵の奥を見やり、低く呟いた。
「女の口から、“商い”の話を聞く日が来るとはな」
その声には、冷たい嘲りが混じっていた。
続けざまに、唇の端をわずかに歪める。
「女が商売をするものではない。家を守り、火を絶やさぬのが女の役目だ。ましてや、“異国”の者と商売など――聞く筋合いはないな」
場の空気が、一瞬にして凍りつく。
木桶の奥から聞こえていた作業の音も止み、ただ静寂だけが支配した。私は必死に声を保とうとしたが、その声には痛みと悔しさが滲んでいた。
「……それでも、申し上げます。私は、あなた方の技と誇りを、決して軽んじるつもりはございません。ただ――この味を、未来へ繋ぎたいのです」
「未来、だと? 余計なお世話だ。この味は、守るもんであって、広げるもんやない」
私は、彼の頑なな眼差しを見つめながら、心の中で静かに息を吸った。この国の閉ざされた扉を開くには、まだ長い時間がかかるだろう。
けれど――それでも、この壁を越えねばならない。それが、私の“使命”なのだ。
「……分かりました。今日のところは、これ以上は申しません」
サクラがそう告げてから、ほんの一拍、間を置く。
「ですが――あなた方が守ってきたこの味が、いつかここだけに留まらず、世界へと伝わっていくことを。
私も、心から願っております」
源蔵の眉が、わずかに動いた。
サクラは一歩退き、深く、礼を尽くすように頭を下げる。
「……本日は、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
――この国が抱く、外への警戒と拒絶は、想像していた以上に分厚い。
そう痛感した、その時だった。
「待ちな」
背後から、ひとりの男が、低い声で割って入った。
「親父、待てよ。ちゃんと話を聞いてやってくれねえか」
振り返ると、先ほど桶をかき混ぜていた青年が一歩前に出ていた。
拳を握りしめ、その目には迷いよりも焦りが宿っている。
「この前の和菓子屋での一件――、俺、見てました! ……正直、見事でしたよ」
「……! 見ていたの」
源蔵が眉をひそめるのも構わず、青年は言葉を続ける。
「この方は、他の南蛮人とは違う。ヒノモトを、上っ面じゃなく、ちゃんと見ようとしてる。そう感じたよ」
一瞬、蔵の空気が揺れた。
「それに……ツバキからも話を聞いてます」
「ツバキ……?」
「ツバキってのは、あんたに助けてもらった花魁の名前だよ。俺、あそこのなじみでさ。倒れたツバキを看てくれたって。白粉に毒が混じってたって話も……」
青年は唇を噛みしめ、言葉を選ぶように続けた。
「正直に言うよ。医学だって、薬だって……俺たちは、もう海外に遅れを取ってる。だからこそ、学ばなきゃならねえ。外を拒んでばかりいたら、ヒノモトは――置いていかれる」
真っ直ぐに、源蔵を見据えて。
「守るだけじゃ、続かねえ。
守るために、変わることだって、必要なんじゃねえか」
源蔵は、すぐには答えなかった。
青年の言葉を一蹴するでもなく、視線を逸らすでもない。ただ、重たい沈黙の中で立ち尽くしている。
やがて、彼はゆっくりと木桶の縁に手を置いた。
ごつり、と低い音が蔵に響く。
「……口が減らんようになったな」
低く、ぶっきらぼうな声だった。
「いつから、そんな大層なことを考えるようになった」
青年は一瞬、言葉に詰まったが、それでも視線を下げなかった。
「仕方ねえだろ……考えちまったんだよ。実際に、目の当たりにしちまったんだから」
「変わるいうんはな、若ぇもんが言うほど、軽い話やないんやぞ。ひとつ変えりゃ、すべてを失うかもしれん」
その声には、拒絶よりも――長年背負ってきた重みが滲んでいた。
私とサクラは、言葉を挟まず、ただ成り行きを見守る。
張り詰めた空気に、胸の鼓動がやけに大きく聞こえた。
やがて、源蔵はゆっくりと顔を上げる。
「……まあ」
一拍置いて、低く続けた。
「一度だけや。試験的に、輸出を認めてやる」
蔵の空気が、かすかに揺れる。
「ただし、条件がある。この醤油が、日本の味を損なわず、リューベンハイト王国に届けること。そして、海外で扱われる際、我らの名誉を傷つけぬこと――それを守るのが前提だ」
警戒の色はまだ消えていない。だが、固く握られていた源蔵の手は、確かに緩んでいた。
「もちろんです! 必ず、技と誇りを守ります。ご安心ください」
私の言葉に、サクラも小さくうなずき、静かに額を下げた。
源蔵の息子は、ほっとしたように口元を緩め、父の肩を軽く叩く。
「ほら、親父。彼女たちなら大丈夫だよ。ヒノモトの心を分かってるってのはさ――彼女が作った和菓子を見りゃ、一目で分かった」
「その和菓子とやら、俺はまだ拝んでいないがな……」
源蔵はわずかに目を細め、静かに微笑む。
「……分かった。試してみよう。異国に、我らの味を伝えてくれ」
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