11話 花魁と鉛の白
2章全体を加筆修正しました。内容が大きく変わったため、11話から再掲載しています(特に12話・13話の醤油と病気のエピソード)。ですが、最新話まで読み直さなくても楽しめる形になっています。
最新話から読みたい方は「SIDEツキシマ」からお読みください。
なお、2章完結まで執筆済みですので、今後は毎日1話ずつ更新していく予定です。
夕暮れの城下町は、茜色の空に灯がひとつ、またひとつと点り始める頃だった。
今日はサクラに城下町を案内してもらった。城下の呉服店、賑やかな魚市場、そして静かな寺院の庭まで歩いた。
通りには団扇を片手にした町娘や、湯上がりの男たちの笑い声が満ちている。
私は隣を歩くカミルとともに、その賑わう往来をゆっくりと進んでいた。
「今日は、ずいぶん歩いたわね」
私が息を整えながら言うと、カミルは懐から懐中時計を取り出し、少し驚いたように眉を上げた。
「気づけば半日以上経っているんだね」
「サクラが張り切ってくれたもの。あれも見せたい、これも知ってほしいって。呉服店、魚市場、寺院……お陰で色々と知る事が出来たわ」
「そうだね。おかげでヒノモトという国がどんな国なのか、分かりました。サクラ嬢、ありがとう」
カミルの言葉に、サクラは慌てて両手を振る。
少し照れたように、頬をほんのりと染めた。
「そ、そんな……どういたしまして」
「私からも感謝するわ。着物があまりにも素晴らしくて、呉服店では、つい何着も仕立ててしまったもの」
今度、着る機会が楽しみだわ。
そう言いながら、私はふと、路地の先に見える朱塗りの門へと視線を向けた。
ちょうど、その時。
道端で、ひとりの女性がふらりと身体を揺らし、土塀にもたれかかる。
薄紫の打掛に身を包み、黒髪を高く結い上げた姿は、ひと目で分かるほど整っている。しかし、その肌は不自然なまでに白く、血の気を失った唇は青く色づいていた。
「……大丈夫? 貴方、顔色が悪いわ」
思わず駆け寄ると、女性は首を振り、笑みとも苦痛ともつかぬ表情を浮かべた。
「お見苦しいところを……お嬢さん、どうぞお構いなく」
その声には艶があるが、喉の奥で掠れていた。
カミルが膝をつき、彼女の脈を取る。
「冷たい。……血の巡りが悪いな。それに、この香り……」
彼は眉をひそめ、袖口をかすかに嗅ぐ。甘く、重い香。白粉と香料が混ざり合い、むせ返るほどだった。
私はそっと女性の頬に触れる。粉の下の肌は荒れ、細かな亀裂が走っていた。
胸の奥に、不吉な予感がよぎる。
――まさか、この国でも……?
「このまま放ってはおけないわ。お宅はどちらですか? お連れしましょう」
私は身をかがめ、彼女の手を取った。冷たい指先がわずかに震えている。
カミルと視線を交わすと、彼もうなずいた。
「行こう。放っておける状態じゃない」
私たちはその女性の肩を支え、ゆっくりと歩き出す。
彼女が口にしたのは、「世話になっている」という一軒の店の名。それは、町でもひときわ灯りが華やかな界隈、すなわち花街にある店だった。
すると、ツキシマに呼び止められる。
「そこは……いささか、姫様の行き先として相応しくござらん。申し訳ないが、護衛としてそこに行くのは許せん」
彼の顔には明らかな戸惑いと警戒の色が浮かんでいた。
だが、サクラがぴしゃりと言い返す。
「体調の悪い方を見捨てることのほうが、よほど恥ずかしいことよっ!」
「けれど、そこは……」
「ツキシマが許してくれないなら、私達だけで行くわ」
ツキシマは渋い顔をしていたが、最終的に首を振ってくれた。
「……では、俺も参ります。何かあったら困りますから」
私たちは、提灯の灯りが連なる花街へと足を向ける。夜風に混じる香の匂い、遠くから聞こえる三味線の音。その中を、ひとりの女性を支えながら歩いていった。
店の戸口をくぐると、鈴の音がかすかに鳴った。
中から駆け出してきたのは、まだ年若い娘だった。
「姐さん! どうしたんですか!」
薄桃色の着物の裾を押さえながら、娘は駆け寄る。
女性――先ほど助けた花魁は、壁に手をつきながら息を整え、かすかに笑んだ。
「……具合が悪いところをねえ、助けられてね。連れてきてもらったんだよ」
「そんな……姐さん……」
娘は目を潤ませながら、こちらへ向き直った。
「姐さんを助けてくださって、ありがとうございます!」
深々と頭を下げるその姿は健気で、どこか幼さが残っている。
ほどなくして店の者たちが駆けつけ、「姐さん」を両脇から支え、奥の部屋へと連れていった。
香の匂いと女たちのざわめきが、廊下の奥へと消えていく。
残された娘が、改めて私たちを見上げた。
「ええと……あなた方は?」
彼女の瞳には、明らかな戸惑いが浮かんでいる。
金髪に青い目。異国の衣をまとった私たちは、ここではひときわ目立っていた。
そんな空気をやわらげるように、カミルが穏やかに微笑んだ。
「実は、僕たちは海外から交易のために参っている者です。今は、藩主さまのお城でお世話になっているんですよ」
「えっ、藩主様のところに!」
娘は目を丸くし、すぐに背筋を正した。その表情には緊張と、そして安堵の色が混じっている。身分の確かな人間だと分かり、安心したのだろう。
カミルは軽く頷き、少し声を落として続けた。
「実は、僕は医者なのですが……先ほどの彼女の具合が気になりまして」
「お医者様……!」
娘の顔がぱっと明るくなる。
「それなら、ぜひ姐さんを診てあげてください! 最近どうも体調が悪くて……」
私とカミルは目を合わせる。やはり、このまま放っておくことはできない。
花の香りの奥に潜む、見えない病の気配を感じながら、私たちは奥の座敷へと足を踏み入れた。
店の奥へと進むと、空気がひんやりと変わった。
障子越しに差し込む夕暮れの光が、畳の上に淡い朱を落としている。
香の煙が細くたなびき、かすかに白粉と香水の匂いが混ざり合っていた。
「こっちです」
案内してくれた娘が、静かに襖を開けた。
中には、先ほどの花魁が布団に横たわっていた。
薄く紅を引いた唇は乾き、呼吸は浅い。額には冷や汗が浮かび、首筋にはわずかな震え。見た目の華やかさとは裏腹に、彼女の身体は限界に近いのが一目でわかった。
「姐さん……お医者様が来てくださいましたよ」
娘がそっと呼びかけると、花魁はゆっくりと目を開けた。
「え? おや……先ほどの……。お医者様だったんだね」
かすれた声でそう言い、微笑を浮かべようとする。しかし唇が震え、力が入らない。
カミルはそっと膝をつき、持っていた手提げ鞄から聴診器を取り出した。
「ご無理はなさらず。少し診せていただきますね」
彼の動きは静かで、無駄がない。
脈を取り、瞼を持ち上げ、喉の色を確かめ、香の匂いに鼻を寄せる。
やがて、眉をわずかに寄せた。
「やはり……」
カミルは低く呟く。
「どうなんですか? 姐さん、病気なんですか?」
娘が不安そうに身を乗り出した。
「病というより――慢性的な中毒ですね。白粉に混ざっている鉛が、少しずつ身体を蝕んでいるようです」
「鉛……?」
娘が首をかしげると、カミルはうなずいた。
「白粉の中に、毒が含まれているのです。毎日塗り重ねれば、皮膚から体内に入り込み、血を濁し、臓を弱らせていくんです」
やっぱり……。カミルの言う通り、白粉に混ざった鉛が彼女の身体を蝕んでいたのだ。祖国でも問題になっていた、それとおなじもの。
「けど、毒だからって化粧は止められないよ……」
私は花魁の枕元に座り、彼女の手を取った。細く、骨ばった指先。白粉の下に隠された手のひらは、冷え切っていた。
「気づいてたの?」
花魁はその感触を拒むことなく、かすかに微笑み、ゆるやかに目を閉じる。
「この身は見世物だからね……いつだって、美しくなきゃならないんだよ」
花魁の言葉に、私は胸の奥がきゅっと締めつけられた。
毒と知りながら、それでも笑って美しくあろうとする。その姿は痛ましくも、どこか気高かった。
「……そんな。自分を削ってまで美を保たなければならないなんて」
「はっ、安っぽい同情なら要らないよ」
私は首を振り、彼女の手を包み込んだ。
「大丈夫よ。毒に頼らなくても、美しくなる方法はあるわ。肌を傷つけず、命を削らずに――。私がこの国に来る前に、開発したの」
花魁がゆるりと目を開け、かすかに眉を上げた。
「あんたが……毒じゃない……化粧、を?」
「ええ。自国でも、鉛を使った化粧品による健康被害が問題になったの。それで、体に害のない素材だけを使って化粧品を作ったわ。もしよければ、その化粧品を譲るわ。あなた一人だけでなく、芸子の皆さんで使ってほしいの」
私の提案に、花魁はしばし言葉を失い、それから含みを持たせるように笑った。
「ふふ……あんた、変わってるねぇ。私達にみたいな、末端の人間の事を気にするなんてさ……」
「身分なんて、関係ないわ。安心して使える化粧品を、みんなに使ってほしい。それだけよ」
花魁は、じっと私の顔を見つめていた。値踏みするようでもあり、何かを確かめるようでもある視線。けれどすぐに、その瞳から棘がすっと抜け落ちる。
「……変な人だね、ほんと。見知らぬ人間を助けようだなんて」
そう呟いて、彼女は肩の力を抜く。
「良いよ、ありがたく使わせて貰おうか。ただし、正体の分からないものを、いきなり他の芸子に使わせるわけにはいかない。まずは私が使う。大丈夫だと分かったら……その時、周りにも配らせてもらうよ」
「ええ。それでいいわ」
後ほど化粧品を届けさせる。そう約束を交わし、私たちは席を立つ。
「またおいで」
見世を後にする間際、花魁はそっと私の手を取り、ぎゅっと握り返した。
その指先には、先ほどまでの冷えはなく、かすかな温もりが残っている。
「お礼に、芸を見せてあげるよ。うちの見世一番の芸をね」
「あらっ……良いの?」
思わず聞き返すと、彼女は悪戯っぽく唇の端をつり上げた。
「もちろんさ。一度助けてもらった身だし、なにより……あんたたちの気持ちが嬉しかった。その礼だよ」
彼女はゆるやかに背筋を伸ばし、誇りを帯びた声で続ける。
「これでも、私はこの見世の花魁だ。名前は……ツバキっていうよ。あんたは?」
障子越しに射し込む行灯のあかりが、彼女の白粉を透かして柔らかく照らした。
儚いその姿が、まるで夜明け前の花のように美しく見えた。
「私はエリザベートよ」
「そうかい。またね、エリザベート」
私は深く頭を下げ、そっと部屋をあとにした。
背後で、花魁たちの笑い声が、鈴のように転がっていた――。
***
数日後。月が雲間から顔を覗かせるころ。私は約束の芸を見せてもらう為に、再び花街を訪れていた。
花街の入り口は提灯の灯りに照らされ、通り一帯がやわらかな朱に染まっている。三味線の音が夜風に溶け、どこからか忍び笑いと盃の触れ合う音が重なった。
私とカミルは暖簾をくぐり、灯の揺れる廊下を抜ける。
案内された座敷は、障子越しに淡い月光が差し込む、ひっそりとした間だった。
ほのかに香が焚かれ、甘く落ち着いた匂いが空気を満たしている。
その中央に――花魁がいた。
先日とは打って変わって、彼女は華やかな紅の打掛をまとっていた。
白粉は薄く、肌の奥の血色がわずかに透けて見える。あの毒の粉を使っていないせいだろうか。どこか、生きた人間の温もりが戻っていた。
「よく来てくれたね、お医者様、そしてエリザベート姫さん」
花魁は、ゆっくりと扇を手に取る。
障子の向こうで、三味線が鳴った。低く、深く、夜の底を撫でるような一音。
花魁は一歩、また一歩と畳を踏みしめる。
袖が流れるたびに、紅と金の刺繍が灯りを受けてきらめいた。
その所作は、儚くも美しかった。
まるで、燃え尽きる寸前の焔が最後の力で揺らめいているようで――
胸の奥を、きりりと締めつけられる。
カミルは隣で息をのんでいた。
「美しい……」と小さく呟く声が、夜気に溶ける。
やがて舞は、静かな波が岸に寄せるように、ゆるやかに終わりへと向かう。花魁は扇を返し、最後の型を決めると、深く一礼した。ぱたり、と扇が閉じる。
薄紅の唇が、かすかに笑む。
「どうだい……。見世一番の芸、気に入ってもらえたかい?」
私は胸に手を当て、まだ早い鼓動をそっと押さえた。
込み上げるものを抑えて、ゆっくりと言葉にする。
「ええ……さすが、見世一番と謳われるだけはあるわ」
ひと呼吸おいて、視線をまっすぐに向ける。
「……目が離せないほど、とても美しかったわ」
そう。散ることを知りながら、それでも咲き誇っているようだった、だなんて。そんなことは言えなかったけれど。
花魁は少し驚いたように目を細め、それから柔らかく細めた。
「そうかい……。あんたの言葉は、不思議と心に沁みるね」
その夜、見世を出るころには、月はすでに高く昇っていた。
石畳を歩きながら、私は何度も振り返る。
遠く、花街の奥に見える小さな灯――それが、この夜に生きる花魁……。彼女たちの命の火のように思えてならなかった。





