2.新年の挨拶2
ユーグリークはエルマを抱き留めると、ひょいと軽々持ち上げた。
人間がはしゃぐ気配を察知した天馬フォルトラが、ぶぶぶと不満の鼻音を鳴らして当たられない位置まで後ずさる。
エルマは笑い声を上げそうになるが、先ほど祖母から言われたことを思い出し、ぱっと口を閉じた。
「どうした?」
「あまり物音を立てると人が起き出してきますよって、先ほど……もう、お祖母さまには見つかってしまった後なのですけど」
「それは……確かに、大騒ぎはできないな」
ユーグリークはエルマをそっと下ろした。
恋人を腕の中に閉じ込めたまま、何か期待するようにじっと見つめている。
彼は両親以外、その美貌を目の当たりにした人間の正気を奪ってしまうという、いささか特殊な顔面事情を持つ男である。なので普段は布で顔を隠している。
エルマは彼の顔を直視しても、正気を保っていられる人間だった。
けれど布越しの熱い眼差しから目を逸らし、そっと小さく呟く。
「倉庫にご案内しますね」
「エルマ」
「その、ここでは……屋敷の窓から見えますし、わたしもきちんとお顔を拝見したいですし……だめでしょうか……?」
ごにょごにょ続けると、焦れたように声を上げたユーグリークが黙り込み、腕を緩めた。
エルマは先導して歩き出そうとしたが、阻まれる。ばさっと音を立て、何かに包まれたのだ。
「ユーグリークさま……!?」
「今日も薄着で出てくるんじゃないかと思って。案の定だったな」
どうやらユーグリークに何か羽織らされたようだ。見下ろしてみると、ふわふわもこもこなケープが目に入る。
「新年のお祝いだ。寒い時期に重宝する」
「…………! あ、あの、ありがとうございます……!」
「ほら、早く行こう。ちゃんと顔が見たい」
エルマは真っ赤になったまま、ユーグリークに差し出された手を取る。そしてこっそり嘆息した。
(やっぱり素手だわ……)
彼の手はひんやりとしているが、真冬の夜、天馬を駆ってきたであろう割には、触った瞬間驚くほどの冷たさでもない。
(氷魔法の使い手だから、寒さは気にならないということなのかしら……となると手袋は必要ないのでは……でも早速お祝いをいただいてしまったのに、何も返さないのも……うう……!)
エルマは下手をすると自分より形の整っている手を恨めしげに睨みながら、ぐるぐる悩んで黙り込む。
ユーグリークは目的地に着くまで、大人しく彼女に従っている。
そして彼らの後ろを、かっぽかっぽ蹄を鳴らしながら、お利口なフォルトラがついてくる。
倉庫には馬車が静かに眠っていた。
二人にくっついてきたフォルトラはそちらに興味を惹かれたようだ。近づいていって、木のにおいを確かめている。
エルマは足踏み台を引っ張ってくると、その上にいったん荷物を置いた。
その間に、他に人のいない気配を確かめ終えたユーグリークが、顔を隠す布を取り払う。
銀色の瞳と目が合ったエルマは、一際胸が高鳴るのを感じる。
相変わらずとんでもなく整った顔立ちだった。それに、奇妙な高揚感を覚える。
以前は未知の感覚に恐ろしさすら感じたものだが、今ではただひたすら、この美貌を独占できることが、その瞳に自分だけが映ることが、幸せに感じる。
ユーグリークが蕩けるような微笑を浮かべた。
「新年おめでとう、エルマ」
「新年おめでとうございます、ユーグリークさま……」
歩み寄った二人の影が重なりそうになった瞬間、けれどエルマがぱっと自分の口を覆ってしまった。
ユーグリークは形の良い眉を顰める。
「……今日は俺が嫌いな日なのか?」
「ご、ごめんなさい、違うんです! さっき間違えて、ホットミルクを口にしてしまって――」
些細なことを深刻に受け止めさせるものが恋心である。
喋っているだけなら問題なかろうが、口づけを交わすとなると、腫れているかもしれない唇でよいものか……と急に気になってきた。
ユーグリークは目を見張る。
「火傷したのか? なんでもっと早く言わないんだ!」
「そんな大層なことでは……今の今まで忘れていたぐらいですし……」
「見せて」
「……えっ」
「大丈夫にしろ大丈夫じゃないにしろ、確認した方がいいだろう。さあ」
ユーグリーク=ジェルマーヌ閣下の言うことはごもっともだ。
が、エルマは口を押さえる手に力を込めて後ずさった。
「……エルマ?」
「いやです……」
「なぜだ」
「な……なんとなく……」
「俺とキスできなくなってもいいのか」
「それは……は、話が違う、というか、」
「どう考えても直結してるだろう!?」
「えっと……そうです、いいことを思いつきました、別の日にしませんか!? 明日以降もキスはできますよね……!」
「俺は今ここでしたい。今すぐに。だけどそれ以前の問題として、君の唇が心配だ」
ユーグリークは恋人に優しく甘い男だが、乙女心への理解度はさほど高くなかった。
もし火傷しているのだとしたら、腫れた唇をまじまじとなんか眺められたくない。
仮に問題なかったのだとしても、改まって唇を見せてくれだなんて、心の準備ができていない。
一応会う予定があるのだから軽くリップをのせる程度は済ませているが、こんなことになるならもっと気合いを入れて用意させてほしかった。
しかしユーグリークは毎日鍛えている現役の騎士、最近重たい物を運ぶ機会のなくなったエルマの抵抗なんて所詮儚いものだ。彼は細い手首をそっと、けれどしっかり確保した。やると言い出したらやり遂げる男なのである。
「――やっ、ユーグリークさまのいじわる……!!」
あっさりガードを剥がされてしまったエルマが絶望の抗議を上げると、「なんでそうなる。これじゃ俺が悪者みたいじゃないか……?」とユーグリークが困惑の声を零す。
これまでか、と力を抜いたエルマだったが、うめき声がしてユーグリークの手の感触が、というか姿が視界から消えた。
どうもお気に入りの娘が襲われていることを察知したフォルトラが、近寄ってきてユーグリークを押しのけたらしい。
鍛えた騎士でもさすがに天馬にどつかれたらよろける。
天馬はそのままエルマに顔を寄せてきて、「褒めてくれ!」とでも言いたげに鼻を鳴らす。
「フォルトラ……! ありがとう。それとごめんなさいね、言い忘れていたわ。あなたも新年おめでとう」
顔を撫でてやると、天馬は嬉しそうにぶぶぶと鼻を鳴らし――そのまま親愛表現で髪をもひっとして行こうとしたので、「お気持ちだけで」と手で顔をそっと押してお断りする。
天馬はふんっ! と不満そうに鼻を鳴らしたが、すぐにエルマの傍らに興味を移し、じっと置かれた籠を見つめる。
エルマが布をどけると、籠にはゆで卵が詰まっていた。
前掻きでおねだりをする馬の前に置いてやると、早速ふごふご言いながら籠の中に頭を突っ込んでいる。
「すっかり懐かれたな。俺よりよっぽどエルマの言うことを聞く」
気がつけばエルマの隣にユーグリークが帰ってきていた。
飼い主の言葉にエルマは苦笑する。
「どうでしょう。わたしはゆで卵係だと思われている気がします」
「それだけじゃないと思う。フォルトラはたぶん、エルマに触られるのが好きなんだ」
「…………?」
いまいち言っている意味がわからない、と首を傾げたエルマだが、ユーグリークはそんな彼女の手元を見ている。
「ところでエルマ。それは何だ?」
「……あっ!」
握りしめているのは、籠に入れていた贈り物候補だ。布と一緒に手に取ったのだから覆えばよかったのに、ばっちり手袋本体が見えている。
フォルトラのおかげで唇問題から話題が逸れたと思ったら、本日のお悩みの元凶を発見されてしまった。
ユーグリークはキラキラした目でエルマを見ている。
……これはもう誤魔化せない。エルマは俯いたまま、渋々自白を始める。
「あの……騎士様はよく使うと聞いたのですけど、でも……」
「何か問題でも?」
「よく考えてみれば、ユーグリークさまにはさほど必要ないような……」
「エルマが必要だと言うなら俺にも必要だ」
「いえ、でも、あの」
「なんでもいい。エルマが俺にくれるなら」
魔性の男はただでさえ通常時の眼力も強いが、期待全開オーラを隠しもしない状態だと、絶対に「はい」としか言わせない力がそこにあった。
眩しすぎて直視できない。ここから逃れるにはもう、渡すしかない。
(こうなるってわかっていたから、半端な物を用意してはいけなかったのに!!)
とは言え全てはエルマの計画不足によるもの、ことここに至っては大人しく自らの非を認め、贈り物を差し出すしかなかろう。
エルマの震える手をそっとユーグリークが握り、早速受け取った手袋を嵌めてぐーぱー手を動かしている。
びくつきながら窺っていたエルマは、彼がまた満面の笑みを浮かべたので思わず手をかざしてしまった。
「ありがとうエルマ。毎日つけるよ」
「やめてください」
「なぜだ!?」
「あの、その、いえ、たまにならいいと思うのですけど、毎日ならもっと良い物を使っていただきたいなと思うというか……」
「エルマの作った物は全部良い物だぞ?」
「ユーグリークさまはもう少しわたしに厳しくするべきだと思います」
首を傾げる魔性の男に、エルマは神妙に申し上げた。
エルマはファントマジット家の娘であることがわかったとはいえ、タルコーザ家で使用人同然に扱われてきた娘だ。
一方ユーグリークは生まれたときから公爵家の子息であり、現在は王太子の護衛騎士でもある。
二人はけして釣り合っているとは言えない。むしろエルマはユーグリークと比べて劣っていることばかりだと思う。
それでも好きになってしまったし、嫌われているならともかく、好き合っているのなら別れたくないと思った。
だから身を引こうとした彼のもとに押しかけた。
ユーグリークはその時言った。「恋人になったら自重しなくなるぞ」と。
エルマは了承した。そう、了承は、した。やめようと何度も言う彼を押して押して婚約者になったのだ。それ自体は後悔していない。
が、過去のエルマは正直、彼の“自重”を舐めていたと思う。
自重しなくなったユーグリーク=ジェルマーヌはどうなるのか。
このように、新年の夜、誰よりも早く顔が見たいからと会いに来て、当然のように高級品をプレゼントに持ってきて、そしてエルマのなんてことはない手袋をべた褒めし、毎日遣いを宣言するような男になる。
嬉しくないわけではない。
大体、年末の会食の折、「新年の夜に会いに行っていいか?」と言われ、頷いたのはエルマだ。
会いたかったのも本心ではある。
(だけど、こう……贅沢な悩みなのかもしれないけれど、このままでは、こう……!)
エルマの複雑な胸中をよそに、相変わらずいまいちぴんと来ていないらしい男はきょとんとした顔になっていた。
「エルマに厳しく……? むしろエルマが自分に厳しすぎるような」
「ユーグリークさまはいちいち、わたしを過大評価しすぎだと思います。もう少しこう、平常時は平常時っぽくしていただいても大丈夫なのでは、と」
「……特別大袈裟に言っているつもりはないんだけどな。素直に言葉にするのは、そんなに悪いことか?」
「悪――くは、ありませんが……このままではわたしが、ユーグリークさまがいないと駄目な女になりそうな感じ、というか」
「素晴らしいじゃないか」
「ユーグリークさま?」
「全然駄目だな。うん。駄目か、そうか……」




