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39.エルマ=タルコーザの真相

「――エルマにしましょう」


 故郷への移動中、母がそんなことを言った。

 娘がきょとんと目を瞬かせると、シルウィーナは優しく頭を撫でる。


「あなたは今日からエルマ。お母さまもそう呼ぶことにするわ」

「……わたしのあだ名が、わたしの名前になるの?」

「そう。念のため。本当の名前は、お母さまとだけの秘密ね」

「あの怖いおじいさんから、隠れるため?」

「そうよ、賢い子ね。それにね……きっと、平民みたいな名前の方が安全なの」


 幼いエルマには、母がなぜそんなことを言うのかは理解できなかった。

 けれど彼女を困らせたくなかったし、エルマは元から時々呼ばれているあだ名の一つだった。

 全く別の名前になってしまうと混乱しただろうが、耳慣れた物なら受け入れやすい。

 そういったわけで、大人しく頷いた。



 タルコーザ家に帰ったシルウィーナだが、ゼーデンに顔を見せると、広い屋敷ではなく村の方に寝泊まりした。

 離れてはいけない、と言いつけられていたエルマはよく言うことを聞いて母を手伝い、村の人間にも可愛がってもらえた。

 母が色んな人に話を聞いたり、手紙を書いたりして――そしてある日、立派な身なりの人達がやってきた。


 彼らは辺りを歩いてまわり、屋敷を見て――そして、ゼーデン=タルコーザから領主の資格を、屋敷を取り上げることを決めたのだった。



「何をした、シルウィーナ!!」


 大人の男の大声が、エルマは昔から苦手だった。びくっと体をこわばらせ、母の背に隠れる。


 タルコーザの屋敷には多くの物が乱雑に置かれ、大勢の人間が青い顔で働いていた。

 けれど今はがらんとして、置物達には皆、差し押さえの印がつけられている。


 シルウィーナは静かに、取り乱した様子の弟を見つめた。

 その冷ややかな目には、怒りと、悲しみと――そして憐憫のような感情が浮かんでいた。


「最初に言っておくわ。わたしを害すれば、あなたは必ず捕まります」

「ぐっ……は、はったりだろう!」

「いいえ、事実よ。わたしは嘘を言っていないし、言っていなかったでしょう?」


 叔父は今にも母に殴りかからん勢いだったが、顎にぐっと力を入れ、血管を浮かせたまま停止した。


 母の忠告を全て聞き流した結果、人と書状が送られてきて、ゼーデン=タルコーザは領主ではなくなった。家中の張り紙が、先ほど命令をしてきた格上の男達の存在が、彼を踏みとどまらせている。


「何をした? わたしが聞きたいぐらいよ、ゼーデン。父から領地を受け継いだ数年間、あなたは何をしてきたの? 何もしなかったんでしょうね。どこもかしこも酷い有様――」

「やかましい、生意気を言いやがって! 様はどうした、ゼーデン様、だったろうが! なぜ呼び捨てにする!? ワタシがこの家の長男だぞ! 雌犬おんなごときが口答えするなっ!!」


 ばちばちとゼーデンの掌が発光した。エルマはすくみ上がったが、シルウィーナは相変わらず全く動じる気配はない。


「そう。それがタルコーザ家。成り上がり商家の父と、落ちぶれた貧乏貴族の母の張りぼての城。あなたは待望の男児――しかも魔法の才能があった。それに比べて、わたしは無能の添え物。女らしく従順(めすいぬ)であれ。それが我が家の美徳だったわね」

「わかっているなら、なぜ――」

「あなたこそ、どうしてまだわからないの。わたしはここを自分の意思で出て行ったのよ。タルコーザの姓も使っていなかったわ」

「だが帰ってきた! 自分が間違っていたと認め、ワタシを当てにしにきたんだろう!? なぜ邪魔を――勝手に領主不適格なんか訴えて、ワタシから地位と財産を奪うんだ!?」

「元々援助してほしくて帰ってきたわけじゃない。ただ、わたしの始まりであり終わりである場所に来て、思い出したかったの。鞄一つ持って家を飛び出した、あの頃の気持ちを。わたしはまだ、エルマと生きていかなければならないのだから」


 シルウィーナは物静かで、穏やかに微笑みを浮かべる女性だった。

 エルマの父が死んでからは、儚げな印象がより強くなっていた。


 けれど今、彼女は淡々と、毅然と振る舞っている。

 そこには何者にも曲げられぬ、断固たる自分の意思が存在していた。


 エルマは気圧されていたし、真っ赤な顔をしたゼーデンも、母の迫力に押し負けているような感じがあった。


 ぐるりと広い屋敷を見回して、シルウィーナはふっと寂しげな笑みを浮かべる。


「結局、タルコーザはあの頃から何も変わらなかったのね。わたしはすべて搾取され、あなたは愛玩されるだけだった。それに、わたしもまた、あなたを見捨てた無責任な大人の一人。だからこれはわたしなりの精算……姉としての、最後の務めです。あなただけが悪いのではない。けれどもう、わたしがあなたの我が儘や暴力を我慢すればいいだけの時は過ぎてしまったのよ、ゼーデン」

「待て! どこに行くつもりだ、シルウィーナ!!」

「どこに? そうね……明日へ」

「何を馬鹿なことを! ワタシ達から身分と家を取り上げておいて、勝手は許さんぞ!」

「住む場所は手配した。身の丈にあった暮らしをすれば、三月程度はなんとかなるお金も渡した。平民街で暮らしなさい。あなたももう、娘のいる大人なんだから」

「このワタシに、汗水垂らして働けというのか? あれの面倒を見ろと言うのか!?」

「そうよ。働かなければ人間は生きられないの。もし貴族を続けたければ、貴族なりの働きをしなければならなかった。それはあなたのさげすむ地道な肉体労働とは異なるかもしれないけど……でも、遊んでいるだけでいいわけではなかったのよ。それから、キャロリンのことは安心して。教会の方がまもなく迎えに来てくださいます」

「うるさいうるさいうるさい! 返せ! ワタシから奪った者を全部、返せぇっ!!」


 太った男は地団駄を踏んだが、シルウィーナはエルマの手を引いて背を向けた。


「いいか。この借りは、必ず返してやるぞ。必ずな……!」


 恨みの声が恐ろしくて、エルマはぎゅっと母の手をつかんだ。

 体に冷たさがじんわりとまとわりついて取れない……そんな嫌な感覚がつきまとった。



 タルコーザを再び出たシルウィーナは、町で働き始めた。

 父と母がコツコツ貯めてきたお金の大部分は、この前のあれこれで消費されてしまっていた。

 エルマを育てるために、母は忙しくする必要があった。


 エルマは大人しく留守番した日もあれば、母についていった日も、仕事を手伝う日もあった。


 運が良いと、頑張ったご褒美にと、エルマにお小遣いをもらえることもあった。


 エルマは少しずつ貯まっていくお金を、母のために使いたかった。

 いつも疲れた彼女を、なんとかして喜ばせたい。

 日に日にその気持ちは強くなっていく。



 留守番の日、お外に出てはいけないという言いつけを破った。

 母の誕生日が近かった。

 父は毎年、綺麗なお花を贈っていたのだ。


 エルマも貯まったお小遣いで、母に花をあげたかった。

 一人で出歩くのは危ないと言われていたし、心細く恐ろしくもあったが、この日のために色々と準備をした。


 すべてはシルウィーナに、心からの笑顔を取り戻したくて。



 花を買うまでは順調だった。

 大きな達成感を胸に、後は帰るだけ、と足を踏み出そうとしたエルマの体が凍り付いた。


「やあ、エルマ。久しぶりだね」


 目の前に、ゼーデンとキャロリンが立っていた。

 ゼーデンは不気味な笑みを浮かべ、キャロリンは恨めしげな目をエルマに向けてくる。


「ママはどこかな? 叔父さんとお話をしよう」

「……! いや!」


 エルマは花を抱えて逃げ出した。

 大人達の驚く声。待てと響く怒号。


「――エルマ!?」


 仕事が早く終わったのか、それとも移動か休憩中。

 母の姿が目に入った。


 まだ追ってくる気配がする。

 エルマは一目散に、母の腕の中に飛び込もうとする。


「お母さま――」

「――! 駄目、エルマ、止まって!!」


 人。人。人。知らない人の群れ。

 それがぱっと開けた。

 がらがらがら、と横から大きな車輪の音。



 気がつけばエルマは誰かに突き飛ばされて地面に転がり、振り返ると母が倒れていた。

 石畳を血が汚していく。


「……お母さま?」


 人が牽かれたと騒ぐ声が遠くに聞こえた。

 震える瞼を開き、シルウィーナは弱々しく微笑む。


「エル――。良かった、無事で……」

「お母さま。ごめんなさい。言いつけを守らなくて。ごめんなさい。勝手にお出かけして。もうしません、もう絶対に約束を破りません。だから……!」


 エルマは母に取りすがり、必死に言いつのった。

 けれど泣きじゃくる娘の前で、シルウィーナは事切れてしまった。



 そして、エルマの後ろに、ゼーデンが立ち。


「全部お前のせいだ――お前が悪い、責任を取れ!」


 雷のような声でそう言われ、エルマは気を失った。



 恐怖と混乱は、エルマに記憶の混濁をもたらした。


 母は自分を庇って死んだのだ。

 その恐ろしい事実は、幼子には認めがたい。

 だから父の死と混ざり合って、病死した、と認識された。


 眠りから覚めると、ゼーデンとキャロリンが側にいた。


 男は幼子の親族を気取って――実際そうではあるのだが――手元に置き、エルマが混乱していると悟るや否や吹き込んだ。


「お前が悪いんだよ。お前が母さんを殺したんだ。だからお前は、家族につぐなわねばならない。そうだね、エルマ」


 エルマを我が子のように扱ったのは、その方が色々と都合が良かったのだろう。


 シルウィーナがエルマに残した財産をすぐに絞り上げ、忘却してもなお残る罪悪感を盾にこき使った。


 キャロリンもまた、彼女の都合でエルマを虐げた。

 単純な理屈だ。虐げる側でいれば、虐げられずに済む。きっとそういうことだったのだろう。



(……そういう、ことだったのね)


 思い出を閉ざしていた氷が溶けていく。


 真実は痛く切なかった。母はエルマのせいで死んでしまった。あの日、エルマが勝手に外出しなければ、ゼーデンに会わなければ、馬車の前に飛び出さなければ――彼女はきっと、死なずに済んだ。


 たとえタルコーザが悪だったとしても、それでエルマの罪が消えるわけではない。


(でも……これで全部わかった。ずっと引っかかっていたことが……)


 ゼーデンが父親と誤認していた間、あの優しい過去は本当は嘘で、エルマが作り上げた幻想なのではと思うときもあった。


 けれど、父と母は確かに幸せで、愛し合っていて、エルマのことをいっぱい愛してくれたのだ。


 優しく二人に名前を呼ばれていた。

 家に笑いが溢れていた。

 歌声を聞いていた。母と自分で、いつも父の、歌声を……。


 あれらは嘘ではなく、確かにエルマの中にある大切な思い出だ。


 そのことを、ようやく実感することができた。

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