17.衣装と化粧
エルマは風呂を上がり、濡れた髪を丹念に拭き取ってもらった。
体が冷えないようにバスローブを羽織り、服選びとなる。
色とりどりのドレスを前に、入浴でうとうとしていた頭が覚醒した。
針子をしていた時代もあるから余計にわかる。
これらは全部、本物の貴族が着る特注品だ。
(キャロリン様だって、こんな服着ていたことがあるかわからないのに……!)
「あの……こんな高価な物、恐れ多くて、わたし風情がお借りできません……」
ただでさえ場違いな身であれこれ文句を言うのは申し訳ない。
が、自分の分不相応っぷりをわかっているからこそ、もうちょっとこう、グレードダウンしてほしいというか。
ニコニコしていた侍女は、首をこてんと傾げた。
「あら? エルマ様は謙虚なお方ですねえ。ま、確かにまだ髪も乾ききっていないですもの。もう少し軽めの方がいいかしら」
別の服が持ってこられる気配にエルマはつかの間ほっとし、すぐに一瞬油断した自分を後悔した。
「これはどうです? お出かけがない普段用のドレスです!」
「もっと……あの……できればもっとこう、簡素なもので……こちらとか」
「駄目ですよ、それは喪服です! あまり体にきつい物が、ということでしたら、こちらはいかがでしょう。フリルが可愛いでしょう? きっとエルマ様にはよくお似合いです!」
「それ、部屋着ですよね……? 他の方の家で着る物ではないですよね……!?」
「ふむむ。坊ちゃまの反応が面白そうだと思ったのですが、さすがに別の意味で攻めすぎでしょうかね。ではこちらの無難な――」
「今、あなたの着ているようなお洋服などは、貸していただけないのでしょうか……!」
このまま任せていたら、屋敷の女主人が着そうな物しか出てこない事を察知したエルマは、目の前の女の身につけている服装を指差す。彼女はきょとんと目を見張った。
「これですか? ええ、もちろん替えはありますけれど……お仕着せですよ?」
「では、そちらを……そちらで、ぜひ、お願いします……!」
女はしばし「でも若い人なのに」「お客様なんですから」「せっかくですし、豪華に行ってみません?」「坊ちゃまのリアクション芸が……」などと地味に粘って食い下がったが、エルマもけして折れなかった。
あんなすごいお風呂をいただいただけでも一生分の幸せなのに、この上ドレスなんか着させられたら今度こそ心臓が止まりかねない。
ようやく希望通りの服を持ってきてもらえたときには、思わずほっとしすぎて大きなため息を零してしまった。
(これだって、よく見れば染色されている上に柄もあって、おまけに襟の所だって、おしゃれなデザインになっているもの……)
エプロンにあしらわれた豪奢なレースといい、主人の裕福さと格の違いを見せつけられているようだ。
エルマにとってはこの時点でも贅沢にすぎる。
しかも女が着替えを手伝おうとするのを恐縮している間に、もう一つの違和感に気がついた。
「あの……」
「どうなされました?」
「えっと……なぜここに、指輪が……?」
そう、服と一緒に、返却したはずの指輪がまだ置いてあるのだ。
しかもエルマの手作りの粗末な紐はきちんと取られていたが、代わりに繊細な銀色のチェーンが今度は指輪に通されているのだ。
「ああ、首の後ろは自分ではなかなか手が届きませんからね。さ、つけてさしあげましょ」
「そうではなく、お返ししたはずですが……!?」
「だってこれは坊ちゃまからエルマ様にお渡ししたのでしょう? 坊ちゃまはなんと? あたくしめに渡しておけと言っていましたか?」
「いえ……」
そんな風に聞かれてしまうと、むしろ積極的に押しつけられていたし、返しますいや返さないでくれの攻防を未だに繰り返している因縁の一品だ。
女は何やら訳知り顔で笑みを深めた。
「なら、よこせと言われるまでエルマ様がお持ちなさいまし。お返しになるときも、ちゃんとエルマ様から。坊ちゃまもそれをお望みでしょう。あたくしの方で勝手に取り上げたら、かえって怒られてしまいます」
ようやく肩の荷が下りたと思ったら、更に確固たる形となって戻ってきてしまった。
が、確かに直接渡されたのはエルマなのだ。ならば人づてなどという無責任な方法ではなく、エルマの方から返すのが正しいというのはうなずける。
どことなく釈然としない気持ちもありつつ、エルマは指輪とお仕着せを身につけた。
「まあま、かわいらしいこと! やっぱり若いっていいわねえ。本邸はともかく、こちらでは大体坊ちゃましかおりませんから……」
良かった、ドレスなんて自分には似合わないに決まっているけど、これなら最低限、みすぼらしくもみっともなくも見えずに済む。
全身が映る鏡の前で小さくなりつつほっと胸をなで下ろしたエルマは、女の言葉に引っかかりを覚える。しかしそれよりまた次の問題が発生しそうになった。
「さあ、ではお化粧を――」
「お化粧!?」
「エルマ様はあまりなさらない方ですか?」
「いえ、あまりというか、ぜんぜん……」
「元のお顔立ちが整っていらっしゃいますものね。肌もお綺麗で。少々痩せすぎには思いますけど」
エルマはすっかり混乱している。
さっきから何なんだろう、この人は。褒め殺しでもしたいのだろうか。
しかもエルマなんかの見た目をあれこれいじくって、どうするつもりなのだろう。
いや、まあ、ただでさえこの空間の異物な自覚はあるが、それならとっととたたき出してくれればいいだけで。
(きっと、これはキャロリン様を見たことがないからなのね。そう、だって会えば皆、わたしなんかよりあちらの方がずっと綺麗だってすぐにわかるし、そう言うのだもの……)
たぶんエルマのような種類の人間は、見たことがなさすぎて新鮮に感じているのではなかろうか。
しかしそれで一応の納得はできたものの、化粧をせずに済む論が立ったわけではない。
怪しげな笑いを浮かべる女を前に涙目で後ずさりしたエルマの背後で、ノックの音が鳴り響いた。
「ニーサ。坊ちゃまが、『いつまで待たせるのか、湯船で溺れていないか、というかこれはもうのぼせてるんじゃないのか踏み込んだ方がいいのか』とか悩みながら、部屋を行ったり来たりしているんだが」
「んーまっ! 女の支度が待てない男は野暮天だとお返事くださいまし!」
どうやらユーグリークがそわそわして執事をよこしたらしかった。
侍女はかっと目をつり上げたが、エルマにとっては天の助けだ。どうして彼はいつも助けてほしい時に来てくれるのだろう?
「わたしは大丈夫です……! ユーグリークさまをお待たせしすぎるのは、よくないと思います!」
長居すればするほどよくわからない魔改造を施される危機感からの訴えだったのだが、執事と侍女は顔を合わせた後、なんだか奇妙に優しい顔になった。
「ニーサ。これは焦らせすぎると、坊ちゃまにもお嬢様にも恨まれることになるのでは?」
「まあ……野暮はあたくしでしたわね。先ほどだってあんなに離れるのを嫌がっていらしたのですもの。うっかりしていました」
(なんだろう……危機が去ったはずなのに、ますます変な事になっているような……)
ともあれ、エルマはこのようにして、ようやく衣装部屋を脱出することができたのだった。
「エルマ!」