15.屋敷と案内
天を駆ける馬は、優雅に翼をはためかせ、やがてどこかに下りていく。
着地の衝撃と共にエルマが恐る恐る目を見開けば、どうやら大きな屋敷の前に降り立ったようだった。
タルコーザ一家が住んでいるあの幽霊屋敷などとは比べものにならない、大きく立派だが隅々まで手入れが行き届いており、一目で身分の高い人間が住んでいるとわかる場所だ。
唖然とするエルマと対照的に、ユーグリークは落ち着いている。
天馬の背からひらりと飛び下り、エルマのことも背から下ろして――と、思ったら、横抱きのまま地面に足をつけてくれない。
「あの、ユーグリークさまっ……!?」
「フォルトラ、ご苦労。もう大丈夫だ。先に厩舎に戻っておいで」
声をかけられた白馬は、元気よく返事するようにいなないた。
首を返し、軽やかな足取りでどこかへ走って行ってしまう。
混乱するエルマをよそに、ユーグリークは彼女を抱えたまま、屋敷の中に入っていく。
開かれた扉の向こう側から光があふれ出して、エルマは思わず目をつむった。
「これは坊ちゃま。フォルトラの声は気のせいかと思いましたが……」
誰かが出迎えたようだが、途中で言葉がぶつっと切れる。ユーグリークが足を止めた。
「ちょうどいい、ジョルジー。ニーサを呼んでくれ。それと風呂の準備を」
エルマがまぶしさをこらえて薄目を開けてみれば、あんぐり口を開けた初老の男が目に入った。
スーツを着ている見た目からして……この家の執事だろうか。
それにしても、なんてまぶしい家なのだろう。
照明が明るい上に、壁も床も天井も、どこもかしこもぴかぴかのつるつるだ。そこに柔らかな絨毯が敷かれ、足下を快適にしている。
「閣下。拙めがもうろくしているのでなければ、ゆゆしき事態のように思われます。これはいよいよ寄る年波に逆らえず――」
「茶番はいいから、早くニーサを連れてきてくれ。この人の世話を頼みたいんだ。それにお前の目はまだ充分黒い」
「現実逃避すら許していただけないとは、なるほど……」
こめかみを押さえた男は、けれど一度大きなため息を落とすとピシリと背をただし、手を打って大きな音を鳴らす。
「皆、ここに! 坊ちゃまのお戻りだ!」
エルマは目を丸くしているばかりだったが、そこからはさらに目が回りそうになった。
こぎれいなお仕着せを身にまとい、いかにもきちんとしつけられましたといった様子の使用人達が、あちこちから姿を見せると一斉に並び、そろって頭を下げた。
「お帰りなさいませ、閣下!」
(坊ちゃま……閣下……)
なんとなく。
いいところの出身なんだろうなという予感は、それこそ最初に出会った瞬間からあった。
きっと自分とは違う世界の人間なんだろうなと、わかってはいた。
普通の人間は、かごいっぱいのラティーを持ってこいと言われても不可能なのだから。
が、まさか出会って三度目(数え方によっては四度目)にして、いきなり天馬の上に乗せられたと思ったら豪邸まで連行される日が来るとは、想像できるわけがないではないか。
ようやく地面に立たせてもらっていたことに全く気がつけないほど、エルマは完全に自失していた。
この男と一緒にいると実に日々が刺激的だ。いつか卒倒してもおかしくないと思う。というか今ちゃんと二本足で立っていられることの方が信じがたい。
居並ぶ人の中、ぽっちゃりとした中年の女性が出てきてユーグリークに色々言われているのも、意識の外である。
「――かしこまりました、坊ちゃま。それでは誠心誠意、おもてなしさせていただきます」
女性がうやうやしく頭を下げるのが見えて、エルマははっと顔を上げた。
傍らのユーグリークが、なんと離れていこうとするではないか。
こんなどう見てもエルマがいるべきではない場所に、連れてきた本人が置いていくなんてあまりにも無情ではなかろうか。
「ユーグリークさま……!」
反射的に手を伸ばし、なんとか彼の服の裾をつかんだエルマだが、「あらあらまあまあ!」と横からのんきな声が飛んでくる。
「坊ちゃま、いかがなされます?」
「……私が同席するわけにいかないだろう」
「けれどこのままでは、お客様も納得しないのではないでしょうか」
ユーグリークは困ったようにエルマを見下ろしているらしいが、こちらもこちらで必死だ。
「皆、一度外してくれないか。用が済んだらまた呼ぶから」
大方はかしこまりました、と大人しく引き下がったが、執事と中年女性ははっと息をのみ、鋭い目でユーグリークを見つめた。
しかしそれはほんの一瞬のこと、彼らもまたすぐに礼をして立ち去っていく。
完全に二人きりになったことを確認してから、ユーグリークが顔の布を上げた。
エルマがうるんだ目で見上げると、銀色の目が居心地悪そうに揺れる。
彼はエルマの手を握って、少ししゃがみ込み、目の高さを合わせた。
「エルマ……その……そうだな、説明が少なすぎた。急に連れてきて悪かった。ここは俺の家だ。誰も君を傷つけないから、安心してほしい」
低くかすれた声は、耳に心地良い。
だがそれですぐに不安が収まるわけではない。
「君は私の大切な友達だ。困っているなら、君の力になりたい。……今の君に必要なのは、まずその冷えすぎた体をなんとかすること。違うか?」
エルマは彼の手をぎゅっと握った。銀色の瞳に、不安げに目をさまよわせるみすぼらしい小娘が映り込んでいる。
「でも……なにを……これから何が、起こるのですか……?」
「そんな不安になることは何もない。少しだけお別れになるが、すぐにまた会える」
「でも、ユーグリークさま、わたし……」
「いや、だが、しかし……そんな目で見つめられても、その。……私が君の風呂場についていくわけにいかないだろう……?」
心底困ったように、彼は言った。
エルマは何度か瞬きしてから、ぱっと手を離す。
そうか、自分は今から身を清めなければならないのか。
つぎはぎだらけの薄汚れたスカートを見下ろす。なるほど、こんな豪華できれいな屋敷の中に、場違いすぎる身だ。
まずは汚れを落としてから話をしろというのもうなずける。
気がついてしまってからは、こんな体で光り輝く玄関に立っている事が申し訳なく思えてきた。
「も、申し訳ございません、わたし……気がつかなくて……!」
「うん……何かこう、違う気がするが……前向きになってくれたのなら、よしとしようか」
ユーグリークは苦笑してから、エルマに向かって手を差し出した。
「エルマ、おいで。入り口まで案内しよう。大丈夫、怖いことは何もない」
彼は時に強引だが、大きな声を出さないし、痛いこともしない。不思議な人だが――敵ではない。
エルマは大きく息を吸って吐く。
(そうだ、落ち着いて。わたしが今するべきことは……?)
ここはもう彼の家だ。ならば彼の流儀に従うのが、礼を尽くすということではあるまいか。
おずおずと手を取ると、彼は最後に柔らかな微笑みを残し、布を下げた。
「ニーサ」
「はい、閣下。お側に」
短く呼べば、姿は見えずとも側に控えていたらしいお仕着せの中年女性が姿を見せた。
「近くまでエスコートするから、その後を頼む」
「まあ……」
エルマははっとした。
心細かったのは確かだが、一人で歩けないだなんて、まるで子どものようではないか。
かっと顔を赤くした彼女だが、見守る女性のまなざしはあくまで温かく優しかった。
「それがようございましょ。連れてきたのに置いていくだなんて、デリカシーがございませんことよ、坊ちゃま」
「……そういうものなのか。気をつける」
エルマがまごついている間に、女性と話を終えたユーグリークは歩き出してしまった。
最初は大股――というか、足が長い彼が普通に歩いていると自然とそうなるのだが、エルマが小走りになっていることに気がつくとすぐ歩幅を合わせてくれる。
階段を上り、廊下を歩き、いくつもの扉の前を通って、すっかりもうどこがどうなのかわからない。
(家の中なのに迷路みたい……)
「ついたぞ」
最初こそ道順を覚えようとしていたエルマだが、途中から諦めた。
と、ユーグリークが目的地への到着を告げ、手を離す。
「ではまた、後ほど」
こそばゆさが消えた反面、なんだか寂しくなった気もした。
思わず去って行く彼の背を目で追ってしまっていると、入れ替わりで中年女性が近づいてきて、エルマに深く頭を下げる。
「改めまして、本日お客様――お嬢様のお世話をさせていただきます、ニーサ=ハルニアと申します。どうぞ気軽にニーサとお呼びくださいまし」
「……! わたしは、エルマ=タルコーザです。よろしくお願いいたします……!」
そういえばまだ挨拶すらろくにできていなかった。
慌てて自分も深々頭を下げたエルマだが、顔を上げた先には満面の笑みがあった。
「さあ、腕が鳴りますこと! 磨きますわよ、お嬢様!」
おまけ~友達がいないわけじゃないんだからね(本人自称)~
「事情は後で説明していただけるのでしょうね」
「まあ、一応」
「旦那様と奥方様にはなんと申し上げたら……」
「俺の親は息子の友達が増えたらむしろ、一番年代物のワインで祝杯を挙げると思う。伊達に独り身を嘆かれていない」
「胸を張らないでいただきたい」
「諦めているんだ。いや、いたんだ、だな」
「大体友達とはなんです友達とは。友達にすることですかこれは」
「…………。違うのか?」
(頭を押さえる)