10.走馬灯のバラク ②
「父上は、ナオミの養子登録をするために王都に行かれたよ」
ナオミがシャロン領主家の養女になって数週間が経った。
僕たち三人は、深夜、秘密の地下室で落ち合って話し合いをしていた。
秘密の地下室で夜な夜な話をしたり、時にはカードで遊んで夜更かしをする。まるで、禁じられた遊びをしているみたいだ。
僕とナオミとナッシュ。
僕たち三人が知り合い……友達であること、そして、僕とナオミが本当は義兄弟なんかじゃなくて恋人であることを他の人間には知られてはならない。
だから、この地下室に集合する秘密のサインを僕たちは決めている。
僕とナオミの間の秘密のサインは、食事の時だ。朝食でも、夕食でも、食べ終わった皿をさり気なく半回転させることだ。
そしてそのサインがあった時には、深夜に秘密の通路を抜けて地下室へと行くのだ。
貴族の屋敷には必ず秘密の通路があり、限られた者しかしらない。父上と母上の部屋、アムノン兄様の部屋、僕の部屋、ナオミの部屋は、秘密の通路へと繋がる隠し扉が備えられている。万が一のときの脱出経路となるのだ。
今は、領地が安定しているし、反乱など起こらないだろうけど、昔はそうじゃなかったらしい。
あまり今はその隠し通路が使われるようなことは想定されていない。だからこそ、僕たちが秘密の会合を持つには好都合だった。
それに、秘密の通路の出口の一つが、馬小屋の近くの涸れ井戸であることも好都合だった。馬に乗って脱出しやすいために造られた通路ということだろう。
御者のジークは使用人に割り当てられた部屋で寝泊まりしているが、ナッシュは、家畜や馬を盗む盗賊対策として、見張りを兼ねて馬小屋の片隅の部屋で干し藁をベッド代わりに生活をしている。
ナッシュと僕のサインは、僕が自分の愛馬の様子を見に行ったとき、馬を撫でる前に、自分の襟首を触るというものだ。
母上が言うには、庭園の薔薇は、足音を聞かせた分だけ美しく咲く。
父上が言うには、馬は主人がブラッシングをした分だけ従順になる。
愛馬を愛でるために頻繁に馬小屋に行くのは、貴族に推奨されているから不自然なことではない。
ナオミからのナッシュへのサインは、ナオミの部屋の一つの窓。カーテンを片方だけ開けてタッセルで縛る、というものだ。
「これでひとまず、安心だね」と僕は言う。
だが、『ひとまず』は、あっという間に過ぎ去るものだ。ナオミと過ごす時間はあっという間に過ぎてしまう。
ナオミが養女となって、一年が過ぎた。ナオミは優秀だった。貴族としての所作を学び、ダンスも申し分なく踊れるようになった。
それゆえに、その時が早く来てしまった。
十月の中旬の出来事だった。
秘密の地下室で僕たち三人は暗い顔をしていた。地下室の天井からぶら下げられたランプは風もないのに揺れていた。
「お義父様が、今年、私も王都に行ってお見合いをしなさいって……」
「それは本当?」
ナッシュが言った。ナッシュも屋敷で多くの事を学び、今ではすっかり御者のジークの右腕として信頼をされていた。ナッシュの右腕が不自由でなかったら、将来僕の御者として雇うこともできた。それが残念だった。
ナオミと僕が結婚をして、ナッシュが屋敷で仕える。そうすればずっと三人で一緒にいられるのに……。
「食事の席に僕もいた。どうもナオミの肖像画を見て気に入った貴族がいるらしいんだ。それで実際に会って、気に入られたらそのまま結婚ということになる」
「とても……遠いところよ……」
すり切れた声でナオミが言った。
「僕がなんとかするよ。要は、王都に行くことができないようにすればいいんだ。ナオミを他の男になんて渡さない」
「バラク……ありがとう。愛しているわ」
ナオミが僕に抱きついてきた。淡い香水の匂いがナオミの髪から漂い、僕の鼻腔をくすぐる。薔薇の香りだった。
「でも、どうするんだい? 覆すのは難しいと思う」
「簡単さ。僕が病気になればいいんだよ」
「バラク、あなたが病気になるなんて嫌よ」
ナオミは抱きついたまま僕を上目遣いで心配そうに言った。
「大丈夫さ。仮病を使うのさ。頭が痛いとかお腹が痛いとか適当に演技をすればいいんだよ。そうしたら馬車での旅なんて無理だってことになる」
「まぁ……バラクったら」
ナオミは納得したようで少し笑みをこぼした。
「でも、バラクを領地に残して、ナオミだけでも連れていくってことにならないかな?」
ナッシュは相変わらず難しい顔をしていた。
「そ……そんなことはないと思うけど……。たしかに……そうなってしまうかもしれない」
「だけど、王都へ行けないようにする、という方向性は良いと思う。僕のほうでも考えてみるよ。馬たちをなんとかする方法があるんだ」
「さすがはナッシュだ」
ナッシュは僕とナオミより二歳年上だ。頼りがいがある。
「それでもダメだったらナオミが家出をするというのはどうだろう?」
「家出って……でも……どこに?」
「孤児院なら安心だろう。きっと受け入れてくれる。まぁ……ナオミが行く場所なんて限られているから、直ぐに連れ戻されるだろうけどね。だから、そうなってしまったら、バラク、その間にエリアム様の説得を頼むよ」
「あぁ。分かった」
「根本的な解決にはならないけれど、まずは王都へ行けないように、協力して頑張ろう」
「バラク、ナッシュ……ありがとう」とナオミはハンカチで涙を拭った。
・
結局は、僕の仮病作戦も、ナッシュの作戦も上手く行かず、ナオミが孤児院へと家出をした。連れ戻されて、王都の行くしかないのかと思ったが、幸運だったのは、母上も兄上も、ナオミの結婚を遅らせてもよいのでは? と言ってくれたことだ。母上にとってもナオミはもう可愛い娘だし、アムノン兄上にとってもナオミは可愛い妹なのだろう。
母上はナオミを着飾ることが好きだし、一緒に街で買い物をしたりお茶をしたりするのことが大好きだ。
アムノン兄様も時々、ナオミに勉強を教えたりしている。
本心ではまだ、このまま屋敷にいて欲しいのだろう。
ナオミはもうシャロン領主家に欠かすことのできない家族なんだ。そして僕の恋人なんだ。
十一月十五日。
父上が今日、王都へ出発するということを決めた。ナオミは王都へは行かず、屋敷に滞在し、見合いは一年先延ばしにするということを決断したようだ。
もっと一緒にいて、娘の成長を見守りたい。父上も本当は同じ気持ちだったのだろう。娘を嫁に出す、というのは父親としては苦しい決断らしい。領地の発展のための貴族としても責務と、家族への情。そのせめぎ合いの末、嫁ぐのを一年先延ばしにしたのだ。
「バラクお兄様、どうかお気を付けて」
僕は早々に出発の準備をして、屋敷の前でナオミと談笑をしていた。ナッシュは、ジークと共に馬車の整備や馬の手入れをしている。
お母様は今日出発すると思っていなかったらしく、着ていく衣装などの準備に手間取っているようだ。
「ジーク、馬の調子は?」
「快調です。これなら速度を上げて王都へ急いだとしても大丈夫でしょう」
玄関の前でジークはブラッシングをしていた。ナッシュは水桶に水を入れて馬に飲ませている。
出発前に馬たちに食事を与えるのだ。
「そうだわ、ジーク。私の馬が様子がおかしいの。一緒に見に行ってくれないかしら? あなたも王都へ行ってしまうのだし、今のうちに見て欲しいの」
「ですが……馬のエサを今のうちに」
「それなら僕がやっておきますよ」と車輪の点検をしていたナッシュが名乗りを上げた。
「そうか、では頼むよ、アルス」
「忙しいのにごめんなさいね」
ジークとナオミはそのまま馬小屋へと歩いて行く。
僕は、ジークが十分に離れ、周りに人がいないことを確認してからナッシュに話しかける。
「本当に、なんとかなってよかったよ。ありがとうナッシュ」
「お礼なんていいさ。僕たちのためじゃないか」とナッシュは馬たちの前に藁を積みながら言った。
「あとは来年どうするか……だな。また王都から帰ったら相談をしよう」
「そうだね……」
ナッシュはそう言いながらポケットから緑色の人参のようなものを取り出し、藁に包んで馬たちに与えている。馬たちはそれをゆっくりと咀嚼している。
「ん? それは? 初めてみるエサだね」
「これを食べさせると馬たちは元気になるんだ。王都への旅は馬たちにとっても大変な旅だからね」
「僕にとっても大変な旅さ。今回はギルガル山経由で王都に行くから凸凹道さ。きっと王都に着く頃には、僕のお尻は猿のように真っ赤になっているだろうね」
「だから座席のクッションは厚めのものにしておいたよ」とナッシュが言う。
ほどなくして、父上にエスコートされて母上がやってきた。ドレスを着ているところを見ると、衣装が最後まで決まらなかったようだ。しびれを切らした父上が母上を強引に連れ出してきたのだろう。
馬車に荷台に荷物が詰め込まれていく。
そうしているうちに、ナオミとジークも屋敷の玄関へと戻ってきた。どうやら馬の体調が悪いというのはナオミの取り越し苦労であったようだ。
「お父様、お母様、お兄様たち、お気を付けて。出来るだけ早く帰って来てくださいね」とナオミが僕たちを見送ってくれる。
「セバス、領地のことは任せたぞ」
「畏まりました」
「うむ。さて、ナオミ、おいで」
父上がナオミを抱き上げた。
「今回のことはお父さんが悪かった。お前の気持ちを考えずに強引に話を進めてしまって。お父さんを許してくれるかい?」
「もちろんです。私の方こそ我が儘を言って申し訳ありませんでした。私のことを赦してくださいますか?」
「もちろんさ」
「ありがとうございます。お義父様。王都からできるだけ早く戻ってきてくださいね」
「もちろんだ。それに、私たちがダラダラと王都にいたんじゃ、ジークとレイナの蜜月を引き裂く悪い領主になってしまうだろう?」
父上が冗談交じりに言った。
ジークは恥ずかしいのか、軽く咳払いをした。
「レイナもごめんなさいね。新郎を連れ回すようなことになってしまって。私たちが王都から帰ったら、私が責任を持って、二人にはたっぷりと休暇を与えますから」
「お心遣い、ありがとうございます、奥様」
「ほら。ジークも。準備は出来ているのだろう? 私たちに遠慮することはないぞ」
「は、はい」
ジークとレイナは遠慮していたようだ。だが、父上に促され、ジークとレイナは抱きしめ合い、しばしの別れを惜しんだ。その様子をみんなが温かく見守っている。
そして、馬車は出発した。
突然、馬車に衝撃があった。
いつの間にか、馬車の揺れが心地よく、僕は居眠りしていたようだ。
「痛いなぁ」
アムノン兄さんは衝撃で頭を馬車の壁にぶつけてしまったようだ。お母様も今のはお尻が痛かったわね、と笑っている。
「申し訳ありません、お怪我はありませんでしたでしょうか?」
馬車と御者台の間の小窓が開いた。その中からジークが顔を覗かせていた。
「みんな大丈夫だよな?」とお父様が家族を見渡す。
「えぇ」と母上がアムノン兄様と僕の様子を見たあとに答えた。
「ジーク、王都へと急がせている中ですまないが、少し安全運転で頼むよ」と父上が冗談交じりに言う。
「はい、申し訳ありません……」
——ヒ、ヒヒーーーーーーん——
突然、馬が叫んだ。また、衝撃で馬車が大きく揺れた。
「おい、どうした?」
ジークが叫び、また、鞭の音が馬車の中まで聞こえてきた。
そして……馬車は突然速度を上げて走り出した。
「お、おおい、大丈夫か?」
父上が御者台の窓からジークに話しかける。
馬車の窓の左側から見えるのは、土の壁。右側に見えるのは渓谷。
「う、馬が言うことを聞きません! このままでは危険です。飛び降りてくだ……うわぁーー」
ジークの声が遠ざかっていくと同時に、馬車が傾く。まるで天地が逆さまになったみたいだ。
落ちている。馬車ごと……。崖の上から。
フワッと身体が軽くなる。落ちているのだろう。
思い出すのは最愛の人、ナオミのことだ。
あぁ……ナオミ。僕の愛しの人……。
馬車は谷底へと転落した。
バラクの意識は永遠に閉じた。