五章
目覚めの刻は、いつも唐突に訪れる。
この場所は、どんなときでも変わらない。永遠の夜、無限の闇、そこに星はなく、月もない。天下を埋めるは白い大地。空白のそこは、まるで墓場。
目覚めを知らせる存在は、どこもいない。ただ、その瞬間を本能で理解する。あるいは、それが躯に染みついた性質なのか。さも、この身はそのためだけにあるかのように。
漏らす吐息は、この世の空白に溶ける。繰り返される行為に、しかし意味など考えたこともない。
常に変わらず。
いつも同じ。
それでも、飽きもせずに、繰り返す。
同じことを繰り返すなんて、なんて陳腐。
しかし、それさえ気づかず、其はただ役目を果たすだけ。
――この身は永遠。
――この名は永久に。
意思などなく、ただその命に忠実に。それが、其が存在している意味。目覚めて上げる声もない。
――産声を上げるのは。
狩られるほう――。
永久の闇で、其は瞳を閉じる。
瞼の裏に視るのは、三千の世界。
全てを見通し、見通す世界は、常に同じ。
――その身に宿る血が、其に悠久の歴史を語る。
万物はこの世に存在すべく、その存在を主張する。その闘争に敗れたものは、全ての世界からその存在を消失する。
世界そのものもそう。
ゆえに世界は存在している。
その生存競争は、いつの頃から始まった紅い宣誓。
駆ける血潮は、その絶対たる審判の杯。
――闇の先に、世界が反転する。
そこは、もう一つの現実。
目覚めた其は、ここで新たな生を受ける。
――しかし、それは産声を上げない。
ただ、摘み取る花の名を捜そう――。
繰り返される、それが現実。
永遠に続く、それが世界。
意思はなく。
感情もなく。
――命満ちる闇の中で、死した命が花開く。
勢いに任せて、彩は目を見開いた。寝起きだというのに、彩の体はいますぐにでも活動を欲している。それだけ、彩の意識はクリアだ。
「ちょうどいいところで起きてくれた」
起きたと同時に、アレクシアの声を聞く。
彩が目を覚ましたのを見て、アレクシアは立ち上がって汚れを払う。
「朝ご飯、食べに行かない?」
アレクシアの声を聞きながら、彩は目だけ動かして周囲を確認する。古びた倉庫の窓から陽光が差し込んでいる。昨日の雨が嘘のように、今日は晴天のようだ。
「大丈夫なのか?」
うん、とアレクシアは頷く。
「陽が出ているうちなら、シドも襲ってこない。それに、シドは一週間先まであたしたちには手を出さないわ、きっと。見た目は偏屈っぽいけど、律儀なんだよ、シドって」
まるで友達でも紹介するみたいに、アレクシアは話す。初対面に殺されかけた彩には理解できないが、アレクシアが言うのだから、信じることにした。
「わかった。レス……」
トランにでも行こう、と言いかけて言葉を切る。お金がないわけではない。アレクシアの恰好を見て、自分たちがボロボロだということを思い出した。
「いや、コンビニで何か買ってくる」
すぐに切り替えて、彩は立ち上がる。アレクシアの真似をして、彩も服を払う。そんなに良くなった感じはしないが、さっきよりはマシだろうと、自分を納得させる。
倉庫から出ようとしたところで、元気のいい声が背後から投げられた。
「あたしも一緒に行くよ」
彩は、なにを言い出すんだこの女は、と目の下を潰して振り返る。なんの悪気もない笑顔で、彩に睨まれてしょ気たように顎を下げるアレクシア。
「いいでしょ?」
なんて、泣きそうな声で言われて、彩も無下にはできなくなった。しばらく迷って、深く溜め息を吐いた。
「……わかった」
ぱあ、と明るくなるアレクシア。
自分でも、どうかしていると思う。
いつもなら「勝手にしろ」とでも言うはずなのに。
素直に頷いている自分が、少し信じられなかった。
彩はアレクシアと一緒に空き地の外に出た。向かった先は、彩の通う東波高校を越えたところにあるコンビニエンスストア。彩は十年近く三樹谷家で暮らしていたから、まだ響家側の地理に詳しくない。
時計を持っていないので正確な時間はわからないが、十時くらいだろう。この時間では学校へ向かう生徒の姿も、会社へ向かうサラリーマンの姿もない。車くらいは通るが、人の姿は疎らだ。
「いらっしゃいませ」
店員の声を素通りして、彩とアレクシアはコンビニへ入る。コンビニの中には、わりと学生服姿の人間が雑誌周りにたむろしている。
いるのは、西波高校の生徒がほとんど。西波高校は、三樹谷の家から彩の通う東波高校へ向かうのとは反対のところにある。このコンビニは西波高校よりだから、不真面目な生徒が学校にも行かずたむろしていることは不思議ではない。東波高校の連中に会いたくないからここを選んだせいではあるが。
「…………」
向けられた視線に、彩は振り返りもせず素通りする。
感覚を遮断している彩でも、そういう類の気配は人並みより感じる。小さい頃の喧嘩慣れした経験の賜物だ。
ここ明風市の中での一般的な評判として、西波高校はガラの悪い奴らが多い。万引きや無免許運転などの反社会的な暴動ではなく、周りの高校に喧嘩を売って周っているタイプだから、学生レベルの視点でも評価は最悪。佐久間の知り合いには巻き込まれた者もいるらしい。彩には風の噂ていどでしかないから、あからさまな視線も相手にはしない。
そんな空気を知らず、隣のアレクシアは呑気なものだ。
「うわぁ。これ、美味しそう」
サンドイッチ、おにぎり、お弁当、見るものどれもほしいとばかりに、目をきょろきょろさせて忙しない。
ホテルでのアレクシアの食いっぷりを知っているから、彩は彼女が本気で全部買おうと言いだすのではないかと心配になった。
彩はサンドイッチとお茶のペットボトルを選んで、それで終了。その彩の選択に、アレクシアは不思議そうな目を彩に向ける。
「それでいいの?」
さも、それだけでいいの、というアレクシア。
「いい。これで十分だ」
ふーん、とまだ納得しかねるようなアレクシア。
アレクシアは弁当二つと水のペットボトル一つ。もう一つ弁当を取ろうとしたから、彩はそれだけは止めた。レストランに連れて行かなくて良かったと、珍しくそう思った。
「――おい」
コンビニを出てしばらくして、背後から声をかけられた。
相手が誰だか想像がついたから、彩は振り返らず歩き続けようとした。しかし、こういう状況に疎いアレクシアは律儀にも振り返ってしまった。「かまうな」なんて小声で忠告しても、もう遅い。また声をかけられたから、彩は正直、うんざりした。
「こら。シカトしてんじゃねーよ」
溜め息を隠して、彩は立ち止り、振り返る。
さっきコンビニで立ち読みしていた西波高校の生徒三人が彩たちの後を追ってきていた。すぐにでも殴りかかってくる、とまではいかないが、あまりいい雰囲気ではない。前より少ないな、と彩はそんなことしか頭に浮かばない。
三人のうち先頭の一人が初対面の彩に慣れ慣れしく話しかけてきた。
「学校サボってデートかよ」
途端、周囲の二人が下卑た声を上げる。
ぱっと見ただけで、三人の構成が理解できる。真ん中の他の奴らより前に出ているのがリーダー格で、後の二人は同レベルの下っ端。三人とも細身だが、それなりに経験はあるだろうから力はあるだろう。中心の男子以外の二人はあまり大差なさそうだ。
隣にいるアレクシアは緊張感のない声で彩に訊ねる。
「彩の知り合い?」
なんて答えようか一瞬迷って、彩は頷いた。
「ああ、そうだな。用事済ませてからすぐ行くから、お前は先行ってろ」
アレクシアは交互に彩と目の前の三人に目を向けてから、彩の言うことに素直に頷いて奥の角を曲がって消えた。
「おいおい」
中心の男子が不快そうに彩を睨む。
「誰がテメーなんかに用があるかよ。男の相手してなにが楽しいんだ」
それはこっちのセリフだ、と彩は心中で呟く。
後ろで控えていた男子二人が真ん中の男子に合わせるように口を開く。
「財布置いてとっとと失せな。彼女の相手は、俺たちがしてやっからよ」
「ついでに、その昼飯もな」
品のない笑い声が、三人分。
コンビニから離れた細い道だから、他に人の姿はない。もちろん、彼らもそれを狙って彩に声をかけてきたのは明白だ。
彼らの狙いは、だから響彩にとっても好都合。
彩は三人を完全に無視して弁当の入ったビニール袋を道の隅に置いた。
「失せろとは言わない」
三人の前に戻り、彩は正面から西波高校の生徒たちを見据える。
「欲しけりゃ、テメーらで持ってけ」
小さい頃から喧嘩の中で生きてきた彩には、経験としてこういう連中の扱い方を知っている。話し合いなんて、最初から無意味。相手のほうから好んで暴力を行使してくるのだから、彩は嫌でも相手をしないといけない。
リーダー格の男子が二人に合図を送る。ゆっくりと、二人の男子が彩を脇から囲む。
彩は動かない。あっちから近づいてくるなら、十分近づけたほうがいい。相手も、たった一人相手に警戒を忘れている。
二人が彩の間合に入った瞬間、彩は片方の男子の顔面を殴る。狙いは、鼻。鼻は簡単に折れるし、不意打ちには最適。
怯んだもう一人に、間髪入れず顎の下から蹴りあげる。衝撃で、まずこの男子は落ちた。
リーダー格の男子が、二人がやられたのを見て、彩に突っ込んでくる。今度の相手は十分彩の反撃を警戒しているだろう。だから彩は一瞬で屈んで、男の視界から消える。武術でもやっているならともかく、人間は相手の上半身より上に意識がいく。接近戦になればなおさらだ。彩は突っ込んでくる相手を十分近づけた上で、男の視界から消える。もちろん、相手が攻撃してくるタイミングに合わせたから、気づいたとしても相手の対応は遅れる。
屈んで、勢いを殺せない相手の足を払う。転んだ相手に、さらに頭上から手を添えて地面に叩きつける。壊れないていどに、相手の意識を飛ばす。これで二人目。
立ち上がり、彩は周囲の状況を確認する。最初に彩が殴った相手は、ダメージは負ったものの気絶はしていない。そのことに、彩は驚かない。最初から、そのつもりだ。
最後の一人の呻き声を無視して、彩は男の足を払って再度顔面を殴りつける。それで、男が気絶するには十分。
「…………」
彩は倒れた三人を確認する。三人とも、呻き声も上げない。
これで十分と、彩はビニール袋を回収して、アレクシアの向かった角を曲がる。先に行っていたかと思ったら、彼女はすぐそこにいた。
「もう用事は済んだの?」
「ああ」
呆然と、彩は漏らした。
彩はアレクシアを先に行かせた。だから、彼女が自分を待っていたことに、驚きを感じている。
しばらく歩いて、彩は口を開く。
「なんで待ってた?」
アレクシアは笑って、なんでもないとばかりに答えた。
「だって、彩を置いて行きたくなかったんだもん」
なんて。
しれっとアレクシアは返した。
……ばかだな、こいつ。
そう、本心から、彩は思った。
そんなばかに付き合っている自分は、心底お人よしのような気がした。
それに、とアレクシアは付け足す。
「彩がいなきゃ、道がわからないし」
なるほど、と彩は納得する。
同時に、自然と口元から笑みがこぼれる。
――本当に。
お互い、どうしようもなくばかだ。
空き地に戻って、彩とアレクシアは遅めの朝食を食べる。サンドイッチ一セットの彩とお弁当二つのアレクシアでは量にかなり差があったが、食べ終わったのはほぼ同時だった。
ペットボトルのお茶を飲みながら、彩はアレクシアに声をかける。
「これから、どうするんだ?」
現状を整理すると、彩とアレクシアは一昨日シドという男にアレクシアが住処にしていたホテルを襲撃されて、逃げ伸びた果てに、仮屋としているボロボロの倉庫の中に身を隠している。シドは魔術師からカニバルになった魔人だから、昼間は活動できない。陽の出ているうちはいいが、夜になったらなにかしらの手を打っておかなければならない。アレクシアの話では一週間は大丈夫とのことだが、彩はそんな呑気にかまえている気はない。
アクレシアは空になったペットボトルをくわえたまま新聞紙を眺めている。新聞は、さっきコンビニで朝食を買うときに一緒に買った。うーん、と唸って、アレクシアはペットボトルを口から外した。
「今夜から、人捜しをしようと思うの」
「やっとか」
反射的に、そんな言葉が漏れた。
「最初に人を捜す、って言われてから、いままで全然その話が出てなかったから、忘れられてるのかと思ったよ」
「忘れてないよ」
むす、とアレクシアは頬を膨らませる。
「ただ、優先順位がごちゃごちゃになって、どうしようもなかったの」
少し困ったように眉を下げるアレクシア。
彼女の弁明の意味を彩は理解できなかったが、ともかくも彩にとって引っかかっていた部分がようやく動き始めるようで、彩は壁に背を預けて軽く息を吐いた。
「でも、もう見つかっちまったろ。それに、いまのアレクシアの状態であいつに会って、どうするんだ?」
彩はシドのことを言っていた。それが自然の流れのように感じていた。
だが、次のアレクシアの言葉に、彩は思考がついていけなかった。
「――まだあたしの捜している人とは、会ってないよ」
「は――?」
つい、そんな声が漏れる。
理解が追いつくのに、五秒くらいかかった。そしてその言葉の内容を理解しても、その真意に納得するのに、彩にはまだ情報が足りない。
「ちょっと待て。アレクシアが捜してたやつって、あのシドってやつじゃないのか?」
「うん。違う」
しれっと、アレクシアは断言した。
おいおい、と彩は頭を抱えたくなった。いつもの癖で、頭に触れるのはやめておいた。
「じゃあ、本当にお前が捜しているやつって、どんなやつだ」
てっきり、アレクシアが捜しているのは、あのシドというカニバルのことだと思っていた。あれだけお互いのことを良く知っているふうだったから、彩はそれ以外の存在がいるなど思いもしなかった。
アレクシアは冷静に話を続ける。
「たぶん、向こうも捜していると思う。この近く、っていうのは知ってる。でも、先にシドに見つかっちゃったから、相手もあたしに気づいたと思う」
「なんでそうなる?」
アレクシアは持っていた新聞紙を彩に差し出す。
「さっき彩に買ってもらった新聞。その中に、あたしたちがいたホテルの事件と行方不明の事件が載ってる」
示された記事に目を通すと、確かに一昨日のホテルの事件が載っている。さらに、別の欄には明風市での行方不明が載っている。明確な死亡者が出ているホテルの事件に比べ、行方不明者の記事は小さく見える。しかし、アレクシアは行方不明の事件のほうが重要と話を続ける。
「行方不明のほうは、きっとあたしが捜している人が起こしたものね」
彩はわずかに緊張する。
新聞ではただの行方不明として載っているが、週刊誌やワイドショーの類では『神隠し』の名で呼ばれている。その一連の神隠しの犯人が、カニバルと呼ばれる人喰種だとアレクシアは言っている。なら、行方不明者はもうこの世にいない。衣類やバッグが残っているのは、人がカニの殻を食べないのと同じだ。
そう理解して、彩は言葉が出ない。
アレクシアはページを戻して、ホテルの事件の欄を開く。
「そして、ホテルのほう。ここで、あたしの名前が行方不明者として残ってしまった」
写真はないが、確かに彼女の名前が載っている。ご丁寧に、スイートルームの壁が吹き飛ばされているところまで記されている。警察のほうでも、アレクシアを重要参考人として捜しているらしい。
人間側の問題などどうでもいいように、アレクシアは口を開く。
「シドはカニバルの中でも有名だから、やり口からこの事件がシドの手によるものだって、相手にもわかるはず。そして、シドに狙われて生き残るなんて、かなり限られる。相手の勘が良ければ、すぐあたしに辿りつく」
記事には、シドの殺人の手口が載っている。みな、心臓を刳り抜くように風穴が開いている。凶器は特定できていないらしいが、彩にはすぐにぴんときた。
シドの右腕。
全身漆黒の彼は、しかし右腕だけ朱に染まっていた。
シドは淡々と、心臓のみを潰していった。
その機械的な作業を想像して、彩は咄嗟にその感覚を殺した。
アレクシアの言葉は、なおも続く。
「だから、相手はこのあたしを捜していると思う。そこで、あたしのほうも動こうと思うの。相手のほうから捜してくれるから、待ち伏せがいいかな。時間は夜、陽が落ちてから。どこかに隠れていたら、シドのときのように他の人を巻き込むかもしれないから、人気のないところにしましょう。彩と初めてお話した公園がいいわ。そこで、夜から待ち伏せ」
彩が黙っている間に、話は勝手に進んでいた。アレクシアが今日の予定を作っていく。
「昼間は町を散策して、相手が出てきそうなところを捜しましょう。夜になったら待ち伏せしなきゃいけないから、三時くらいにまたここに戻って、彩は寝ておいて。夜に備えないといけないから」
勝手に話が進んでいくものだから、ようやく彩は口を挟めた。
「大丈夫だ。眠らなくても、なんとかなる」
とてもじゃないが、呑気に眠っていられる気分じゃない。カニバルの能力を目の当たりにしているのだ、眠っている間に殺されてたんじゃ、シャレにならない。どんなにアレクシアから陽の出ている間は大丈夫だと念押しされても、目にした現実は消えてくれない。
ダメ、とアレクシアは唇を尖らせる。
「ホテルのときみたいに、彩にも戦ってもらうから、万全じゃないと困る。……お願いだから、あたしのお願いをきいて」
懇願するように、アレクシアが彩を見る。
眠らなくても大丈夫、というのは、別に無理をしているわけではない。本当に、一晩くらいはなんとかなるのだが、彼女にお願いされると何故か拒むことができなかった。
「……わかった」
アレクシアの安堵の表情に、彩は目を逸らす。居心地が良くなくて、彩はすぐに話を変えた。
「でも待てよ。あの男が出てくるかもしれないだろ。そうしたら、どうするんだ?」
「シドは、たぶん出てこない。話したでしょ?シドは一週間待ってくれる。それは概ね守られる。シドって律儀だから」
何度目かのやり取りだが、彩は何度確認しても安心できない。だが、本当にアレクシアは心配ないと主張するから、それ以上は彩の杞憂だろうと、自身に言い聞かせる。
「…………わかった。お前の言うことを信じよう。でも、それじゃお前の本当に捜している相手って、どんなやつだ?」
最低でも、捜す相手のことを知っておかないと捜しようがない。
それに、相手はカニバルだ。シドのときのように戦うことになったら、それなりの覚悟がいる。人間の喧嘩じゃない、人間以上の化物だ。どんな能力を持っているのか、アレクシアが知っているなら教えてもらいたい。
「――――会えば、わかる」
なのに、アレクシアはそれ以上のことを語らなかった。
理由は、彩にもわからない。だが、それ以上は本当に話したくなさそうだったから、彩もそれ以上のことは聞けなかった。彩はペットボトルを飲み干して、いつでも外に出られるよう準備するだけだ。
陽の出ている間は町の散策。なんていうアレクシアの提案では緊張感がないが、彩にしてみては怪しいところがないか町を監視しているようなもの。そう、彩は真剣にやっているつもりなのだが、提案したほうのアレクシアはその言葉通り、ただぶらぶらと歩いて、珍しいもの――彩からすればなんでもないもの――を見つけては立ち止まって目を輝かせている。
なんだか、自分だけ真面目にやっているのが馬鹿みたいだ。
十分くらい歩いて、彩はアレクシアに声をかける。
「なあ、アレクシア」
なに、と先を歩いていたアレクシアが振り返る。
「服、買ったほうがいいだろ」
お互い、ホテルを出てから服を替えていない。汚れた倉庫の中に一日いたから、服だってボロボロだ。コンビニの店員にだって奇異の目で見られていた。こんな恰好で町中をうろついていたら、それこそ変人以外の何者でもない。
「買ってくれるの?」
ぱあ、と。
嬉しそうにアレクシアが顔を輝かせるものだから、彩は反射的に身を引いた。高校生の夏弥の財布の中は、そんなに豊かなものではない。
しかし、カードと呼ばれる切り札を使えば、話は別だ。その切り札を使うのはここなのか、と彩は躊躇う。
「そういやおまえって、金持ってるのか?」
夏弥の質問に、アレクシアはないよと素直に返した。
「じゃあ、どうやってホテルに泊まってたんだ?」
そんなの、とアレクシアはなんでもないとばかりに答える。
「必要になったら、必要なモノを必要なだけ創るんだよ。昔だったら物々交換とかもあったけど、ここまでくるとお金さえあればなんでもできるでしょ。だからポンと創るの」
お金なんて所詮は紙切れだから創るのは簡単だよ、なんてアレクシアはとんでもないことを口にした。
「ば、ばかっ」
反射的に、彩はアレクシアを路地裏に引っ張り込んだ。ホテル代もそうだが、ルームサービスや果てはこの服とか、アレクシアは一体いくらくらい『創った』のか、彩は恐ろしくなった。
「ちょっと、痛いよ、彩」
アレクシアの声に、彩はようやく手を離した。だが、なりふりかまっている場合ではない。辺りに他に人がいないことは重々承知だから、彩は遠慮なくアレクシアの肩を掴む。
「いいか。アレクシア。今後、絶対に金は創るな」
アレクシアはきょとんとしたように彩を見上げるだけ。
イラつきながら、彩は真剣に繰り返す。
「絶対だ。約束しろ」
アレクシアの目が驚きに広がる。彩はただ彼女の両肩を掴んで、目を逸らさない。十秒くらいして、彼女は怖ず怖ずと頷いた。
「……うん。わかった」
小さな声で、彼女は言う。
「これからは、お金を創ったりしない。約束する」
その言葉に、彩はようやく安堵の息を漏らす。
――同時に、自分のやったことにようやく気づいて、慌ててアレクシアの肩から手を離す。
近すぎる距離に、彩は逃げるように間を開ける。
「…………」
彼女に声をかけようとして、しかしなにも出てこない。
自然、彩は自分の手を見下ろしていた。白い手袋に覆われた、自分の両手。
……なにやってんだ、俺。
自分でも、どうしてこんなことをしたのかわからない。
やってしまったことがありありと思い出せて、彩はその記録を抹消したかった。しかし、彩の記録は記録として、永遠に彩の脳髄に留まり続けるだろう。彩はそれなりに良い自分の記録力を知っている。
この沈黙自体が、永遠のような気がした。その間、真実、彩の意識は現実を認識していなかった。どれくらいそうしていたのか、彩はようやく目の前のモノに気がついた。
「………………なんだ、それ?」
努めて冷静に、彩は口を開く。
律儀に、アレクシアは応えた。
「約束」
彼女は右手を突き出していた。その右手が、小指だけ立っていたから、彩は嫌な予感がして逃げ出そうとした。
「それはしなくていい」
「ダーメ」
強引に、アレクシアは彩の右の小指を彼女の小指と絡めた。アレクシアは笑顔で、彩も幼い頃に聴いたその唄を唄う。
解放されたとき、彩は急いで右手を引っ込めた。小指に残った感覚を無視しようと、それだけを考える。
アレクシアは急に機嫌を良くして、今度は彼女が彩の腕を掴んだ。
「じゃあ、服買いに行こう」
大通りに戻って、しかし彩はアレクシアの手を振り払うことができない。もちろん、彩は彼女と手を繋ぐ気なんて、ない。なのに、アレクシアの手は彩の手を強引に引っ張るから、彩でも振り解けない。
「おい。その金は誰が出すんだ?」
自分でも、愚かな質問だと思いながら、でも彩は念のため訊いた。
にっこり、アレクシアは振り向く。
「もちろん、彩が出してくれるんでしょ?」
その返答は、有無を言わさない。完全に、立場が逆転した気がした。結局こうなるかと、彩は肩の力が抜ける。
「…………はいはい」
空に向かって、彩は溜め息を吐いた。
アレクシアの足取りは軽い。町の中、しかしそんなことはおかまいなく、アレクシアは彩を引っ張る。彩の足取りは重い。なぜこうも気分まで重いのか、彩は考えることを放棄する。
十一月のこの時期、陽が沈むのはあっという間だ。屋内に籠っても暖房器具が必要になるのに、外にいたら凍えてしまいそう。
吐く息は白い。その寒々しい色に、しかし彩は震えもせず、ただ退屈しのぎにその配色を眺める。漆黒の中を白い空気が浮かぶ、一カ月近く先の雪の景色を思い出す。
アレクシアも、彩を真似するように闇の中に自分の息を吐きかける。アレクシアも彩と同じく、寒そうには見えない。白い息を見て、まるで初めて見たように喜んでいる。
「やっぱり、ここって人がいないね」
ブランコに座って、アレクシアはまた息を吐く。彼女が足の屈伸を繰り返すたびに、揺れるブランコは規則的に鳴く。
「もう夜だからな」
言ってから、自分でも馬鹿げている気がする。
この公園は元々、昼も夜も関係なく、人がいない。
昔から交通事故が多く、注意が呼びかけられている公園なのに、街灯は少ない。もう誰も近寄らないから、忘れられているのかもしれない。子どもも、誰も来ないのに憩いの場なんて、なんて軽薄。
「……ここに、お前が捜している相手が来るのか?」
彩は立ったままアレクシアに訊く。
どうかな、とアレクシアはブランコに揺られながら答える。
「結構、人見知りする子だから。もしかしたら、大人の人にお遣いさせてくるかも」
相変わらず、アレクシアの返答は要領を得ない。アレクシアは自分だけ納得したまま、彩の理解できないことを話す。
「もしかしたら、誰も来ないかもしれない。それでも、来たときの場合もあるから、ここにいたほうがいいよね」
なんてお気楽。
白い息がよほど気に入ったのか、彼女なりに長くはっきりと白い模様を描こうと頑張っている。そのたび、ブランコの揺れる音が聞こえる。
そんなことを、かれこれ一時間。一時間も経ってようやく飽きたのか、アレクシアは強めに地面を蹴った。ブランコに乗った彼女が、行ったり来たりを繰り返す。
「退屈だから、お話でもしよう」
本当に退屈そうに言うから、彩は一人立っているのが馬鹿らしくなった。
「…………アレクシアって、緊張感ないな」
それでも、彩は立ち続ける。自分までブランコに座ったら、それこそなにをしにきているのかわからない。
揺れながら、アレクシアは声を張り上げる。
「そうかなー」
「これから自分を殺そうとするやつが来るっていうのに、随分呑気だ」
うーん、と唸りながら、アレクシアは揺れる。
ぴたりと止まって、アレクシアは彩を見上げる。
「そういう彩は、意外と恐がり屋さんね」
意地悪く笑うアレクシア。
そんなセリフ、今まで誰にも言われたことがなかったから、彩は低めの声で返した。
「なんだと」
「彩って、死ぬことを恐がりすぎてるよ。一時間後に死ぬかもしれない、一分後に死ぬかもしれない、あるいは、一秒後に死ぬかもしれない、って。ずっと死ぬことばっかり考えている気がする。いま彩は生きているんだから、もっと楽しんだほうがいいよ」
やっぱり笑うアレクシア。
彩は苦いものを噛んだように、視線を落とす。
「……別に、死ぬことを恐れているわけじゃ、ない」
視線の先に、手袋で覆われた自分の手が見える。
真実、自分が死ぬことを、響彩は恐れていない。小さい頃は、自分がいなくなってもかまわないとさえ思った。
――その理由が、この手。
――全てを壊す、感覚。
自分という存在がいることで、世界が壊れてしまうというなら、自分なんて消滅してもいい。そうすれば、誰も壊れない。彩自身、なにも壊さなくてすむ。
でも、もうそれもできない。
遠い昔、響彩は約束した。
だから、彩は自分の存在理由を識るまで、簡単に死ぬことはできない。
アレクシアは傾げていた首を戻して、彩を見上げる。
「まあ、いっか。じゃあ、あたしからお話するね。まずはお礼。彩、この服ありがとう」
昼間の散策は、結局ショッピングになった。
あんなボロボロの恰好で駅前なんていけなかったから、近くの服屋を何軒か巡った。彩自身、服屋になんて入ったこともないから、いまいち感じがわからない。高校生のうちは学生服でなんとかなるから、服にこだわる必要もない。中にはファッションに時間を割いている連中もいるらしいが、生憎彩はそんな努力をしてこなかった。
アレクシアの好みと彩の所持金から相談して、一応それなりのものを選んだつもりだ。ブルーのスカートに白のブラウス、シンプルだが反ってそのほうが彼女自身惹き立つ。最初は当初のアレクシアのイメージで赤を選ぼうとしたら、アレクシアのほうから拒否された。なので、いまは青と白でおさまっている。
アレクシアだけ着替えて、彩がボロボロのままでは不釣り合いなので、彩も服を新しくした。いまさらだが、学生服のままでは反って周囲の目を引くので、目についた黒の上下を購入。
二人分の服を購入するだけの札を財布に入れているわけがないので、止む無くカードの力を借りた。日頃から食事代ぐらいしか使うことがないからいいが、かなりの出費だ。そのうち、響の家に請求書が届くのだろうが、鮮の目につかないようにしたい。
あまり安い出費ではないが、彩は一応気丈に、アレクシアに返す。
「お礼なんて、さっきも言っただろ」
服を渡した時点で、真っ先にアレクシアからお礼を言われた。人から感謝されるなんて初めてのことだから、なんてリアクションしていいのか、正直わからなかったし、いまでもわからない。
「だって、嬉しいんだもん。人から何かを貰うなんて、あたし初めてだから」
なんて笑顔を向けられると、彩も対応に困る。彼女の笑顔から目を逸らすように、彩は外方を向く。
「…………俺も、な」
「ん。なに?」
小声で言ったつもりなのに、アレクシアは耳聡く彩の言葉を聞いていた。彩はまだ彼女と目を合わせないまま、少し大きな声で返した。
「俺も。人になにかをあげるなんて、初めてだよ」
人に感謝されるのが初めてなら、人に何かをあげることも初めて。
自分が、彩が、他人に『なにか』を与えるなんて、それこそ信じられない。
ふーん、とアレクシアがまたブランコを揺らす。
「じゃあ、お互い、初めて同士だね」
「なんだよ、それ」
ばかばかしくて、笑うしかない。
えへへ、と笑いながら、アレクシアは夜空を見上げる。
「町って、いろんなものがあるんだね」
まるで遊園地にでも行ったかのように、アレクシアは楽しそうに話す。
「コンビニっていうところも初めて入ったし。服屋さんに入ったのも、あたし初めて」
「コンビニなんて、いまどきどこにだってある。一つコンビニがあったと思ったら、何軒目かにはまた別のコンビニがあったり。服屋だって、今日行ったのは小さいところだ。駅前に行けば、もっと大きな店や珍しいものがいっぱいある」
「本当?」
子どもみたいに、アレクシアは目を大きくして首を傾げる。
「ああ、本当だ」
頷く彩。
昼間、アレクシアと町を歩いていたときのことを思い出す。彩にとって、おそらくほとんどの人間にとってなんでもない、ありふれたいつもの光景が、彼女にとっては珍しいものなのだろう。本当に、アレクシアは見るモノ全てが珍しく、面白いようだった。そんな楽しそうな彼女の隣にいたから、彩もこの町がそれなりにまともなもののように思えた。
アレクシアが浮いた足を揺らす。
「いいなぁ。あたし、行ってみたい」
自然、彩の口は彼女の要望に応えていた。
「じゃあ、明後日行くか?」
アレクシアが勢いよく振り返る。
「本当!」
自分でも、らしくないことを口にしていると思う。けれど、彼女の笑顔を見ていると、そんなこと、ちっとも気にならなかった。
「明後日は日曜だし。駅前くらいなら、案内してやるよ」
いろいろ、片付けないといけないことは山積みだけれど、いまはそういうことは、考えないことにする。なにがあったって、明後日は彼女と一緒にいると、決めた。
その日のことを想像して、アレクシアはぽつりと呟く。
「明後日か……。楽しみだなぁ」
少しだけ、彩はアレクシアのことが羨ましかった。
彩は小さい頃から感覚を殺し、感情を殺してきたから、彼女みたいに素直に感情を口にする方法を持たない。気持ちを口にするどころか、自分がいまどんな気持ちなのか、それすら曖昧で薄い。
だから、響彩にとって、彼女は尊いもののように思える。
明後日――。
彩も、人のことは言えなかった。
自分だって、いまこの瞬間、なにをしにここに来たのか、忘れている。
――ぴたり。
アレクシアが揺らしていたブランコを止める。
「アレクシア……?」
「来た――――」
不審に思って訊ねた彩に、アレクシアは短く応える。
彼女の雰囲気が変わり、彩も周囲を警戒する。自然、右手の手袋を外す。いつ、どこから敵が来ても彼女を守れるように。
周囲のざわめきが、いやに耳につく。空気の揺れを、肌ではなく、木の葉の揺れる音で彩は知る。
彩は喧嘩のときの感覚に無理矢理切り替える。普段は感覚を意識から外している彩も、他人と殴り合うときはその気配を察知する必要がある。感覚しない状態と感覚を強める状態の、瀬戸際の均衡に、いまの彩はいる。
十一月の空気は、ただ立っているだけでも皮膚を刺すようだ。普通の人間なら寒さに震えているだろうが、感覚を殺し慣れた彩はなにも感じず、アレクシアも外気の冷たさに無頓着だ。
乾いた風が、公園の空気を巻き上げるように空へと飛ぶ。どこまでも透き通った空は、漆黒の闇に遥か彼方の星を抱いている。公園の周りの街灯は弱く、ここでは星の灯かりのほうが強いくらいだ。
その影は、闇の中から現れた。
まるでずっとこの場にいたかのように、影は出現の気配がない。風景の一部から切り出したように、影は二人の前へと伸びてくる。
足音はない。ただ影だけが伸びてくる。足音を殺しているのに、その影は隠れる様子もなく、まっすぐ二人のほうへと向かってくる。気配を消そうとしていて正面から来るなんて、矛盾している気がした。それでも、影は接近を止めない。
星明かりに照らされて、その影が何者なのか、彩は視認する。
背は彩より五センチほど小さく、インテリ系のレンズの細い眼鏡をかけている、彩と同い年くらいの高校生だ。見た目で高校生とわかるのは、彼が西波高校の制服を着ているからだ。
「…………」
正直、彩は拍子抜けした。
アレクシアが警告するくらいだからどんなやつかと思えば、どう見たってただの人間で、しかも戦いができるどころか、喧嘩なんてしたら速攻で負けそうな優男だ。
その男子は二人から五メートルの距離を開けて止まる。
「秋も深まりしこの期に、ここはなんと淋しい処か」
両手を広げて、その男子は劇場のスポットライトでも浴びているかのように、声高らかに叫ぶ。次に出てきた言葉もまたなにかの舞台の台詞のように流暢だ。
「この寒空の下に、これほどまでに美しき華を拝見できるとは、感激の極み」
男子は深々と頭を下げて、彩たちのほうへと片手を挙げる。おそらく、ブランコに座っているアレクシアに向けているのだろう。
数間おいてから、男子は顔の前に両手を掲げ、熱っぽく吐息を漏らす。
「この世界のどんなものだって、貴女の美しさの前では霞んでしまう。しかし、貴女のような美人がこんな淋しい場所で一人でいるなんて。どうか、わたくしめと御一緒に」
一礼するように自分の胸前に手を当てて、男子は再度アレクシアに向かって手を差し伸べる。
演劇は、舞台の上だからこそその一つ一つの台詞、挙動が栄えるというものだ。それを日常の中で同じ感覚で使ったら狂人にしか見えない。
「なんだ、このサブいヤツ……」
彩は正直に漏らした。
身構えていたのがバカバカしいくらい、現れたのは普通の人間で、その正体は頭のネジが何本か抜け落ちてそうな変人だった。
君、とその男子は不快そうに目と唇を細める。
「君。わたしは彼女とお話しているのだよ。それに、君に喋る許可を出した覚えはない。さっさと立ち退きたまえ」
蠅でも払うようにその男子が手を振るものだから、彩も快くは思わない。
「んだと」
吐いた言葉に、その男子は「ああ」なんてわざとらしく声を上げる。
「なんて野蛮な。これだから野蛮人とは空気が合わない。ああ、こうして同じ空気を吸っていると思うだけで胸焼けがする」
明確な悪意。
隠しもしない敵意。
それら、負の感情が、肌の上を這いずり周る。それは、見えない絲が血管を縛り、心臓を絡めて、首を締めつけようとしているかのように、不快。
男子は気取った仕草のままに片手を空に突き出した。
「高貴な者は高貴な者同士で――」
ぱちん、と指を鳴らす。
それが、合図。
「――野蛮人は野蛮人同士で」
そのほうが自然というものです、最後まで気取って、それは告げる。
影から、さらに人の姿が伸びてきた。その気配に、彩は全く気付かなかった。驚いて、彩は反射的に声を上げていた。
「おまえら……!」
それ、だけではない。
周囲には四つの影がある。
彩を取り囲むように、それはゆっくりと近づいてくる。
星の明かりの中で、彩はその影が何者なのか、完全に把握できていた。形状、身にまとっている大まかな形、近づく影の大きさ、その一つ一つの動作。
彩を取り囲んでいるのは、最初に現れた男子と同じ、西波高校の生徒たちだった。彼ら四人は以前、響家の坂を上がる途中の空き地で出会った不良四人組だ。
「なんで……」
声を出しながら、彩は四人の前に躍り出た。アレクシアに近づかせないように。
――得体の知れない奇妙な感覚に、彩は囚われている。
――しかし、その感覚の正体がわからないから、彩は〝それ〟を破壊できない。
なにかが、おかしかった。
第一におかしいのは、新たに現れた四人の存在。
この四人は最初に現れた優男の指示で登場した。西波高校はガラの悪い連中が多いことで有名だ。彼らの間では力だけに権力がある。力の強いものがトップに立ち、弱者はその足元で靴を舐める。その本来の構図が、この場では逆転している。
第二におかしいのは、この四人の雰囲気。
動きにおかしいところはない。以前相手をしたときの、彼らの動きとなにも変わらない。
だが、なにかが欠けている。
そのなにかがわからない。
欠けている。それはなにか?
――間合が迫る。
戦闘が開始する――。
動きが、視える。
足の運び。速度。上半身の揺れ。拳を振り上げる、その距離感。いつここまで到達するのか、どこに命中するのか、全ての動きから、その先の結末まで一連に。
体の動きが連結するように、一人の動きから四人全ての行動が予測める。一人の動きが二人目の行動を導き、さらに三人目、四人目、と。
その全ての流れに、響彩の肉体の動きも決定している。体を動かすたびに、ピースがハマるように心地いい。
まるで――。
「あのときと、同じ――――」
呆気なく、決着はついた。四人の西波高校の生徒たちは彩の手によって倒された。
彼らの動きは、手に取るどころか、目を瞑っていても理解できた。なぜなら、彼らの攻撃は以前、彩が彼らから受けたものと全く同じだったからだ。
「どうなってる」
戦いに勝利して、しかし彩に高揚感はない。代わりに、得体の知れない寒気が彩の背筋を走る。
――あのときと、同じ。
その異常さに、彩の体は意図せず強張った。
遠くから耳障りな感嘆が聞こえた。
「これは素晴らしい」
あの優男が初めて響彩を観た。
「その肉体はこの時代で入手した中では良好な個体でしたが、それをこうもあっさりと。観たところ、君の肉体はそれらとあまり変わらないようだが、それを超える特別な素質でもあるのでしょうか」
男子は眼鏡の奥に気色の悪い笑みを浮かべる。
「――じっくり解剖したいところ」
――パン。
一つ、男子は手を打つ。
それを合図に、倒れていた四人がすっと立ち上がる。
「なっ……!」
信じられない。
彩は的確に相手の急所を突いた。
前回と同じ動きだったから、彩が外しているはずがない。それなのに、最初から意識などなかったように四人は平然と立っている。
――周囲から、さらに影が伸びる。
唐突に膨れ上がった気配に、彩は反射的に辺りを見回す。周囲を警戒しているはずなのに、彩の耳には優男の粘つく声がまとわりつく。
「さあ、これだけの数に、君はどう対応する?」
その声に応える余裕などない、影たちは瞬く間に彩を取り囲んで逃げ場を奪う。彩は硬直したまま、影の動きに集中する。
「彩!」
アレクシアは立ち上がり、叫んだ。
彩はアレクシアから離れて、十メートル近く先にいる。敵の数は、カニバルであるアレクシアにはなんてことない数だが、人間の彩はそうはいかない。
駆け寄ろうとしたアレクシアの前に、優男が立ち塞がる。
「おっと――――」
男子は手を広げてアレクシアを止めて、緩やかに一礼する。
「――――貴女の相手は、このわたくしです。『神魔の王』アレクシア・ヴェテリス」
自分の名を呼ばれて、アレクシアは目の前の男を見る。
名乗ってもいないのにアレクシアの名前がわかるということは、相手はそれなりに自分のことを知っている。初めて、アレクシアは人の形をしたそれを意識した。
アレクシアの鋭い視線に、男は極上の笑みを浮かべて嬉しそうに頭を下げる。
「名乗るのが遅れて申し訳ありません。わたくし、ゾイル・バックヤードと申します。以後、お見知りおきを」
帽子を被っていたら下げていそうなくらい、芝居がかった礼をする男子は、そう名乗った。
アレクシアは鋭い目のままに呟く。
「聞かない名ね」
男子は顔色も変えず、さらに頭を下げる。
「それは当然でしょう、ヴェテリス嬢。貴女ほどの著名な方からすれば、わたくしめなど識る必要もない存在ですから」
ですが、と。人の形を着た人喰種はその歪な唇をさらに歪めて笑みを浮かべる。
「今後は、ぜひとも覚えていただきたい。このゾイル、今後、貴女にとって重要な意味になることをお約束しましょう」
嫌になるくらい芝居がかった男の仕草に、アレクシアは険しい目つきのまま、短く問う。
「それで、あたしになんの用かしら?」
鋭い視線に刺されたまま、しかし男はやんわりとした物腰を崩さない。
「――貴女は何故、この時代に目覚めたのか?」
やはり芝居がかったまま、優男は高らかに叫ぶ。
「付け加えるのなら、この場所も、ですか。カニバルの調律者たる貴女が、この時代、この場所に存在しているということは、それだけで重要な意味を帯びている。それはわたくしのような一介の魔人でも理解できるというもの」
十分に間を空けて、その魔人は彼女に問う。
「――――最強の名を、貴女はお捜しではありませんか?」
険しい目のまま、アレクシアはぴくりと反応する。その微かな動揺に気づいて、魔人はいっそう喜色を浮かべる。
「そう。貴女はすでに御存じのはず。けれど、いまの貴女はその名を捜すどころか追うこともできない。――それほどまでに、貴女は力を失っている」
悲愴を表すように、カニバルは身を捩る。
「ああ。なんと御労しい御姿か。人の踏み込めぬ丘の上で、ただ一輪咲く薔薇よ。その美しさが風に煽られて、いまにも倒れてしまいそうになっているとは、わたくしは悲しくてなりません」
続けざまに、それは身を折る。
「わたくしならば、貴女の身を支えて差し上げましょう。貴女の歩む道の標となりましょう。貴女のためならば、この身を捧げても惜しくはありません」
その男の申し出に、アレクシアは応えない。
……男は気づいていないのだ。すでに、彼女は彼など見ていない、と。
男が口にした、アレクシアが捜している相手。その意味も知らず、男は彼女の返事を期待して、さらに唇を吊り上げる。
響彩の耳には、二人の会話など聞こえなかった。アレクシアのほうに意識を向けたくても、そんな余裕はない。ただ、アレクシアのほうへこいつらを近付かせないようにするだけで、手一杯。
――そう。
膨れ上がった影は、二十人近く――。
多くは西波高校の生徒たちで、残りは私服かスーツを着た大人だ。人の波が、彩に向かって押し寄せる。
これだけ人が多いと、一人一人に意識を向けていられない。近くにいる数名と、大雑把な全体の流れ。後は、その場でなんとかする。
まず、先頭の一人を一撃で倒す。最初はフェイントなんてまどろっこしいことはしていられない。そんな余裕かましてたら、後ろの勢力に押し切られるから。
先頭の塊を、まず潰す。そうすると、後続でなにかしらの反応を見せるのが普通だ。先頭がやられて怖気づくのか、逆に殺気立つのか。怖気づく連中なら、足場を固めることを優先する。近場にいる奴らを退かして、来ない相手にこっちから行くようなことはしない。殺気立って突っ込んでくるようなら、フェイントを入れるのもいい。そういう相手は、視野が狭くなるから、単純な引っかけにもかかりやすい。
――なのに……。
彩に近い相手を先攻で倒す。後方の連中の表情を窺う。
向かってくる相手の顔は、変わらない。目の前で仲間がやられているというのに、怯えも怒りもない。殺気はなく、およそ闘志もない。
軍隊の行進のようだ。自分たちの足音だけが、進軍の合図。そのリズムに正確に、精密機械のように向かってくるだけ。そして目的地に到達すれば、指示されたように攻撃してくる。
――なんなんだ、こいつら…………!
さっきも感じた、欠落。
それは、これだ。
感情の欠落。
人間性の欠如。
自分の痛みも、他人の痛みも、感じていない。倒れても、ゾンビみたいに起き上がる。目の前で仲間がやられても、機械みたいに止まらない。こいつらには、彩に対する怒りや憎しみもないのだろう。命令されたから、攻撃している。言われたことを、その通り実現する。
そう認識して、彩は焦りを感じる。
いままで、そんな感情、彩は持ったこともない。それが恐怖というものだと、彩はうっすら意識する。
相手の動きは予測える。動きの軌道は、見た目通りの動きをする。自分と同じ、男子高校生としての動き、西波高校の男子らしい動き、喧嘩慣れした連中の動き。その動きに異常性はなく、しかし異常なくらい彩の予測通りに、彼らは動く。
そして。
急所を叩いたはずなのに、数秒後には起き上がって、再び彩を襲う。
――キリがない。
自分の呼吸音を聞く。次第に息が上がってきている。
二十人近くいても、このていどのレベルなら、彩は倒し切れる。しかし、倒した傍から復活してくるのでは、彩の体力がもたない。彩は体力に限界があるのに、目の前の連中はまるで疲れを感じさせない。常に同じ軌道、同じ力、速さで向かってくる。どんなに彩が急所を狙って最低限の力で動いていても、いつか限界にぶつかる。
「はぁ……」
堪え切れず、荒い息を漏らす。
彩は完全に、二十人近い敵に囲まれている。西波高校の生徒だけでなく、おそらくは体育教師もこの中には混じっている。いくら彩が喧嘩慣れしていても、本格的に鍛えている相手とでは力に差がある。
強烈な蹴りが、彩の脇腹を押し上げる。
「かは――」
重量感のある衝撃に、彩の体は持ち上げられる。
見えてはいた。しかし、これだけの人数の攻撃に、流石の彩も処理能力を超えていた。受け身を取ったつもりだったが、予想以上の衝撃に彩はすぐに立ち上がることができない。
敵の進軍は止まらない。倒れた彩に、彼らは容赦しない。蹴られ、踏み潰され、無理矢理身体を持ち上げられ、サンドバッグのように振り回される。
――ヤバイな。
呆、と。
他人事のように思った。
このまま殴られ続ければ、響彩という人間は、簡単に死んでしまう。どんなに防いだって、これだけの数だ、体がもたない。せいぜい、左手で頭を守るのが精一杯。
手袋を外した右手は、意識的に使わない。素手の右手で感覚してしまったら、きっと相手を壊してしまう。それだけは、できない。
だから、左手一本で、頭を守る。それ以上は、無理だ。腹を殴られても、足を蹴られても、それはかまわない。頭を殴られてバランスを崩すのは、まずい。
体がだるくなっていく。
けれど意識は失わない。
囲まれてしまったら、もう相手を意識するなんて意味がない。だから、いつもの感覚しない状態に切り替える。
知覚する全てから現実性が削げ落ちる。
体がだるい。
次に目が覚めたら、きっと筋肉痛になっているんだろうな、なんて冷静に考えている。
その前に、目を覚ませるか、なんてことも他人事。
久しぶりに体中痣だらけだ。
――ああ。それでも。
これだけの人数に囲まれて、彩は左手の隙間から彼女を捜した。
――約束、したからな。
彼女にお願いされた、人捜し。
響彩は、彼女のお願いを承諾した。
なら……。
――最後まで、果たさなきゃな。
体はボロボロなのに、視線は勝手に彼女を捜している。
人垣の隙間から一瞬でも見えないかと求めたが、目に映るのは感情を失った人の形の群ればかり。その無機質な瞳が自分のほうに向いているから、きっと彼女は無事なのだとそう願う。
「どうかしてるな…………」
自然、声は自嘲じみている。
誰かのために、いま響彩は死に向かっている。
それも悪くないと思ってしまうなんて、どうかしている。
ああ。そうだろう。
小さい頃なら、良かったんだ。生まれたての、新しく自分という存在を識ったばかりの、あのときなら、まだ良かったんだ。
――でも。
もう、ダメだ。
もう、生きると決めてしまった。
自分という存在に意味が見出せるまで自分を手放さないと、響彩は決心したんだ。
――なら、果たさないと。
死んで、彼女を守れたらいいなんて、そんな理由では、まだ響彩は死ねない。
最後まで。
最後まで、彼女との約束を守って、人捜しを終えるまで、響彩は終われない。
――ああ、だから。
「まだ、死ねない」
口にして、周囲の状況を良く視る。
そのせいか、次の攻撃が予測えた。右から顔めがけて拳が飛んでくる。距離的に、右手で防いだほうが早い。
――響彩は身体を捻って手袋をはめた左手でその腕を払う。
途端。
『■■■テ』
「え――――?」
意識に、直接響く、音。
ノイズ雑じりで、良く聴き取れない。
再度、顔面めがけて拳が向かってきたから、彩は反射的に左腕を盾にした。
『■■■テ■■■テ』
また、聴こえる。
相手と触れている時間が長かったせいか、さっきよりも長く。
『■■ケ■タ■■テ』
殴られるたび、その感覚が響く。
左腕を邪魔に思ったのか、隣の体育教師らしい男が彩の左腕を掴んだ。
『■■■■タスケテ』
その聲が、はっきりと聴こえる。
掴まれた左手から流れるように、その感覚が響彩に向かって押し寄せる。
『タスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテ…………!』
頭が割れそうだった。
その意識は、悲鳴に近い。
それが響彩の感覚に触れて、求めるように這い上ってくる。
彩は悲鳴を上げる間もなく――――。
――感覚は暗転する。
その光景は漆黒。闇以上に闇の、塗り潰された黒。押し込まれた暗闇の中には光もなく、自分という視点だけが浮かんでいる。
どこかで音がする……。
――ジクジクジクジク。
さざ波に似ている、近づくようで遠ざかるようで。でもそれがどこから聞こえてくるのかわからない。
同時に、猛烈な痒みを覚える。感覚を遮断しようとしても、上手くいかない。それが実体験ではなく、誰かの記録によるものだと、響彩は理解する。
痒みは首筋から始まり、腕、腹、脚、背中、顔、頭、ありとあらゆる部位に拡散していく。掻いても掻いても、余計に酷くなる一方。
――ジクジクジクジクジクジクジクジク。
音は、さらに酷くなる。
毛穴から膿みたいな汁が出て、掻くと赤く腫れ上がってさらに化膿する。掻いても掻いても痒みは引かず、腕二本では掻き切れない。
掻きすぎたせいか、体中が痛む。水を飲むと錆びた鉄の味がする。吐き出すと、赤いものが混じっている。
肌が黄色く変色して、水疱瘡のように体中が腫れ上がる。爪も変色し、硬くなり、割れていく。小指が最初に剥がれて落ちた。
目も痒い。涙が乾いて、充血してモノが見えなくなる。吐き気も酷くなる。体中が痒くて痒くて。
――ジクジクジクジクジクジクジクジクジクジクジクジクジクジクジクジク。
痒みの正体が、ようやくわかった。
割れた爪の間から、それが出てきた。
蟲――。
赤黒いその蟲が、指の肉の隙間から這い出してくる。
指先、太もも、へそ、耳、鼻、口、あらゆる箇所から大量の蟲が肉を食い破り、内側から喰われていく。
止められない。
蟲に自分が喰われていくのを、止められない。
体は瞬く間に黒に染まり、闇の中に消えていく。
――それが、彼らの記録。
最期の断末魔――。
知らない間に、内側から喰われていく。
喰われると同時に、造り替えられていく。
意識を保ちながら、喰われ続け、最後には自分の体すら自分の意思では動かなくなる。
体は喰い尽されても、死んだわけではない。意識は、いまでも鮮明。でも、もう自分の意思では指を動かすことも、口を動かすこともできない。
視て、聴いて、匂いも、味もわかる、触った感触も、痛みまでも自分のモノ。けれど、体はすでに自分のモノではない。
蟲に喰われて、造り替えられた肉体は、もう自分のモノではない。
意識だけはある。
助けて、助けて、と。
反転するように、景色が現実に戻る。
目に映るのは、感情の失せた人の形の群れ。
けれど、響彩はその正体を理解した。
これは、決して感情を失ったわけではない。彼らは、意思のない人形になっても、意識はまだある。ただ、それを表現する術がないだけ。肉体はすでに自分のモノではなく、でもこの現実は理解している。
『タスケテ』
感覚に直接流れ込むその聲は、悲鳴だ。
自分では、もうどうすることもできない。この腕を止めることはできない。この足を止めることはできない。――この痛みを止めることはできない。
身体が痛い。
精神が痛い。
だが、彼らにはそれを口にすることもできない。
その悲鳴は、だから響彩の感覚に縋りつく。
『タスケテタスケテコロシテタスケテコロシテタスケテタスケテタスケテコロシテタスケテコロシテタスケテタスケテタスケテタスケテコロシテコロシテタスケテコロシテタスケテタスケテコロシテタスケテコロシテコロシテタスケテタスケテタスケテタスケテコロシテコロシテコロシテコロシテ……………………!』
その聲を感覚して、しかし響彩は応えない。〝タスケテ〟にも〝コロシテ〟にも、響彩はなにもできない。
〝タスケテ〟って、なにをすればいい?元の人間らしい身体に戻してほしいのか?
〝コロシテ〟って、なにをすればいい?人間らしく終わらせてくれってことか?
どっちも、響彩にはできない。
だから――。
『■■■■――――――――』
その〝コエ〟に、響彩は応えた。
右手で相手の拳を受け止め、左肩で掴んだ奴の顎を打ち抜く。緩んだ腕から左腕を抜いて、相手の腕に引っかかったままの左の手袋を外す。
――そして。
目の前の相手の頬を、素手の左で殴った――。
「――――悪いな」
殴られた相手が後ろに飛ぶ。
ぐしゃり、と鈍い感覚が左手に伝う。
いままで、感覚を殺してきたから、その生々しい感触に彩は顔をしかめる。
「俺には、〝壊す〟ことしかできない――――」
殴られた相手は、もう動かない。
何秒待っても、もう動きだすことはない。
何度でも立ち上がり、いつまでも攻撃を止めなかったそれは、ようやくその機能を停止した。
得体の知れない奇妙な感覚に、そのカニバルは気づいた。
カニバル――ゾイルと名乗った男――が相手をしなくてはならないのは目の前の少女なのだが、その気配に、カニバルはつい目を逸らしてしまった。
そして見てしまった光景に、驚きに目を広げる。
なんだコレは、なんて声を漏らす。
人が七人倒れている。それは、ゾイルが向かわせた二十二人のうちの七人だ。彼らはすでに人ではない。ゾイルが彼らの肉体を喰い、見た目や動きは人間の頃のままだが、基本組織は自分よりになっている。だから、どれほどのダメージを負おうと何度でも立ち上がり、敵に向かって行く。
「そんなばかな…………」
それが、どうだ。
倒れた七人は、どれだけ待っても起き上がる気配がない。ゾイルが心のうちで命じても、少しも動こうとしない。
――彼ら七人との関係が、もうない。
残り、十五人の中に、あの少年が立っている。あれだけの人数に殴られたのだ、遠目でわかるくらい、少年はボロボロだ。
少年を取り囲む十五の肉体が、何度も繰り返してきたように、少年に向かって突っ込んでいく。そのうちの一人を、少年は殴り飛ばした。
少年が殴ったのは、たった一人。
なのに――――。
――――周囲にいた十一の肉体が、絲が切れたようにぷつりと倒れる。
ゾイルは目を疑った。
「ありえない…………!」
意図せず、そんな言葉が漏れる。
……手が震えている。
自身が震えていることすら、このカニバルは気づいていない。
――それが〝恐怖〟というものなどと、この人喰種が気づくはずもない。
一歩、傷だらけの少年が進み出る。その動きに気づいて、カニバルは反射的に声を上げる。
「なにをしているんだ。早く……!」
最後まで言い切ることは許されなかった。
残り三人のうち、少年は一つの肉体の腹部を強打した。その衝撃に、周囲二つの肉体が崩れ、――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――カニバルの胸にまでその衝撃が伝わってきた。
「――――――」
吐き出した息は、すでに言葉にすらならない。
強烈な痛みと、体がごっそり抉られたような消失感に襲われる。
血は出ない。代わりに、開いた口からは透明な雫の糸が垂れる。あまりの無様な姿に、自分で自身を叱咤する。しかし、体の自由が全く効かない。
思考すら停止した中で、男の頭上から優しい声がかけられる。
「――貴方、知らなかったの?」
苦悶に身を捩りながら、倒れたカニバルは彼女を見上げた。
男が求めた美しい少女。
丘の上で咲く一輪の薔薇。
アレクシアは優しく微笑みながら、地を這うカニバルを見下ろしている。
「彼、あたしを殺したのよ――――」
その言葉の意味を、ゾイルはすぐに理解できなかった。
だってそうだろう?
誰が〝コレ〟を殺せようか。
魔人はおろか、神人すらも殺してしまう、神魔の王――――。
それを殺したのが、ただの人間など、誰が信じられようか。
ありえない、とそれすら言葉にならない。
近づいてくる少年に、ゾイルはただ首を振った。
相手は、ただの人間だ。人喰種である自分が、こんなモノに敗れるはずがない。ライオンがウサギに殺されるなんて、そんなことはないのだ。それは、自然の摂理に反している。
――少年が目の前に立つ。
――その姿に、カニバルは一歩後退さる。
魔人の上から、少年の声は最後の審判のように厳かに響く。
「テメーに恨みはない」
その姿に、ゾイルは初めて恐怖した。
――それが恐怖だと、カニバルはようやく理解した。
己の、カニバルとしての誇りも、人喰種としての矜持も捨てて、それは許しを乞うた。
「助、け、て…………」
それは、彼がいままで喰らった人間たちの最期の言葉。
それが、人間の救いを求める言葉だと、カニバルは知った上で使う。
その懇願に。
「――目障りだ」
鼻が潰れる鈍い音。
顔が拉げて、頭が仰け反る。
痛みと消失がゾイルの感覚を破壊して――。
――――カニバルは倒れるより前に、意識を失った。
十一月の寒さも、殴られ続けて火照った体の熱さも、彩は感じていない。直前まで響彩の肉体を支配していた感覚は急激に萎んで、彩は棒立ちになっている。
目の前に、西波高校の生徒が一人、倒れている。インテリ系の細長い眼鏡をかけていて、喧嘩には不向きな優男。そして、彩の後ろには二十人近い人の抜け殻が横たわっている。
「彩」
かけられた声に、彩はすぐに反応できなかった。
振り返りもせずに、彩は言葉を漏らす。
「俺は……」
その先が、すぐに出てこない。詰まった喉を無理矢理こじ開けるように、彩はその先を口にする。
「俺は、助けられない。俺にできるのは、破壊だけだから」
視線の先に、自分の手はない。手袋を外し、外気に露出した、異常なくらい白い手。
彩の目に映るのは、学生服を着た生徒が一人。そして、後ろには同じような恰好をした人間と、教師らしい人間の肉体だけ。
アレクシアが彩のすぐ隣に立つ。
「あたしでも、この人たちは助けられない。もう、肉体が別のモノにすり替えられてしまっているから。それは、生物としては死んでいる。死んでいる状態で、無理矢理死なないようにしているだけなの。仮にでも生きていれば、肉体を動かせるから。――でも、彼らを彼らとして生かすことは、もうできない」
だろうな、と彩は漏らす。
アレクシアがどんなモノでも創れようと、命だけは創れない。体を元の人間のモノに戻したって、一度死を経験しているその命は、二度と正常に蘇りはしない。
だから、彩にはなにもできない。
彼らが得られるモノは、人間として死を受け入れること。彩にできるのは破壊だけだから、彩には本当に、なにもしてやれることはない。
「…………神隠し以上の騒ぎだな」
彩は、彼らのことを警察に知らせることを考えている。そうすれば、彼らは人間として火葬され、埋葬される。
いいえ、とアレクシアが静かに首を振る。
「今日のことも、神隠しの一つになるわ」
彩はアレクシアの横顔を見る。なぜ、と問う前に、アレクシアは続ける。
「カニバルに喰われた肉体は、もう人間のモノとは違うモノになってしまう。この人たちはさっきのカニバルからは解放されたけど、しばらくすれば独立したカニバルとして、動き始めるかもしれない。そうなったら、彼らは自分という意識すらも失って、ただの人喰種になってしまう」
そうなのか、と彩は自然納得していた。理解できたわけではない。あまりのことに、思考が擦り切れているだけ。
アレクシアが彩のほうを向いて笑った。
「あたしに任せて。カニバルについては、あたしが専門家なんだから」
彼女に任せるということは、彼らのことは公にならない。いま巷を騒がしている神隠しの一つとして、この事件は消える。彩ができることは、本当になにもない。
そうだな、と彩は頷く。
「任せるよ。もう、疲れた」
そう、疲れた。
肉体的な疲労感だけでなく、それ以上のなにかで、彩は疲れている。これ以上この場所に留まっても、響彩には無意味な気がした。
うん、とアレクシアは笑う。
「ゆっくり休んでね。明後日は、また頑張ってもらうから」
ああ、そうだった。
そんな約束も、したんだっけ。
彩はその場をアレクシアに任せて、とりあえず自宅に向かうことにした。眠くはないが、無性に疲れている。
「おやすみ、彩」
後ろで、アレクシアが手を振っている。
そんな別れの挨拶、彩は初めて聞いたから、彩は彼女に背中を向けて手を上げるだけにした。