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四章

 見上げる先に月は()く。広がるのは、星のように白い大地。空白の地で、ただ世界を眺め見る。世界の果てを、この世界の終わりを。

 誰もいない。

 自分だけがいる。

 だからここは、孤独(こどく)の丘。

 孤独であって、孤高(ここう)ではない。周りは()れを孤高と呼ぶ。けれど、其れはいままで自分を孤高だと思ったことはない。

 手にもつ凶器。だがその凶器を目にしたものは、誰もいない。誰も、自分という存在を理解できない。

 ()っているのは、これが恐怖という存在であるということ。あるいは死という存在であるということ。――あるいは、破滅という象徴であるということ。

 もたらすものは、ただ破滅。

 生きた証も、生きている現実も、そして生きていく運命も。

 (ことごと)く、悉く。与えるのは、破滅。

 その唯一の恐怖に、ゆえに誰もが畏怖(いふ)崇高(すうこう)を込める。

 ――それが、孤高という意味(こと)

 なら。

 きっとそれは、自分が抱くものではない。

 それは、他者の(なか)にしかない。

 どれほどの名があろうと、どれほどの意味があろうと、広がるのはこの無限の空白だけ。白い天下(てんげ)と漆黒の天上。怨嗟(えんさ)もなく、ここにあるのは無の境地。

 孤高と呼ばれた、それは孤独――。

 白い大地に、独り(たたず)む。佇み見上げる先は、虚無(きょむ)の闇。それを、悲しむでもなく、(いつく)しむわけでもなく、ただ眺める。ひとときの休息、それしかこの場所ですることもない。

 誰もいない。

 いるのは、ただ一つの身。

 唯一の、存在。

 それ以外に、ここには何もない。それ以上も、それ以下も、ここでは等しく意味を持たない。それこそが、無ということ。

 どんな想いも、どんな願いも、ここには届かず。

 そして、叶わない。

 されどこのひとときのみが、其の安寧(あんねい)

 誰もいなければ、誰も恐怖させることはない。誰もいなければ、誰も死を()ることもない。――誰もいなければ、誰も破滅しない。

 ――其がいなければ、誰も殺さない。

 そんな、ひとときの夢。

 ただ、このときだけ。

 このときだけ、凶器を捨てよう。

 いまだけで良い、凶器を忘れよう。

 この(からだ)に満ちる毒を、ただひとときだけでも、眠らせよう。

 全てを忘れる。そんなひととき――。

 孤独の丘で、ただ空を見上げる。そこに月はなく、広がるのは星のように白い大地。それはまるで、墓標のように白い骨を埋める。どこまでも、どこまでも、その地は広がる。

 広がる、そこは虚無の闇。永遠に永遠に、なにも届かぬが(ゆえ)の闇。なにも叶わぬ故の漆黒。なにも得られぬ、故の空虚(くうきょ)

 そこに悲しみもなく。そこに(あわれ)みもなく。

 (なげ)きもなく。懺悔(ざんげ)もなく。

 ただ、この世の果てばかりを夢見る。

 この束の間のときだけ、夢を見ている。

 この刹那(せつな)だけ、夢に生きる。

 ――孤高の其れは、次に訪れる孤独まで、我を忘れよう。


 耳に届くその音があまりにも特徴的だから、(さい)はテレビでも()けっぱなしにしたのかと妙な想像をしてしまった。だが自分の部屋にテレビなどないと理解した瞬間、寝惚(ねぼ)け気味の頭を無理矢理覚醒させた。

 妙に体がだるい。この感じは知っている、筋肉痛ってやつだ。この感じは、小学生の頃のまだ喧嘩慣れしていないときの、一方的に(なぐ)られた次の日の朝の調子に似ている。こんなに体が疲労しているのは、随分久しぶりのような気がした。

 こんなときは、まず目を開けて状況を確認する。辺りは暗く、真夜中のような天気だが、彩の体に染みついた時間感覚はそうではないと告げている。砂嵐のような音と、ひび割れた窓ガラスが()れているのを見て、彩はようやく雨が降っているのだと理解できた。

 目だけで辺りを確認していたら、彼女と視線が合った。

「やっと起きた」

 アレクシアは彩の前で腰を下ろして微笑(ほほえ)んでいる。微笑(わら)っているけれど、服はボロボロで、あまり大丈夫そうには見えなかった。

 声をかけようとして、彩はよろける。

「ちょっと、大丈夫?」

 アレクシアの心配そうな声が聞こえる。

 ……しくじった。

 彼女を心配させるつもりじゃなかったのに。安心させるつもりが、逆効果なんて、シャレにならない。

 アレクシアの声が非難がましく響く。

「無理に動かなくていいよ。しばらく休んだほうがいいんじゃない」

 無理に動かそうとすれば、動かせないこともない。でも、それをすればアレクシアに心配される。なら、と彩は体を地につける。

「……おまえに心配されてるんじゃ、世話ないな」

「そうかも」

 ()れる、二人の微笑。

 情けないけど、いまはその笑顔が安心する。

 ……ここがどこか、彩はよく知っている。彩が(ひびき)家に戻ることになった日の夕方、田板(たいた)間宮(まみや)に初めてあった、空き地。そこには、倉庫や車や、あるいは元々がなんだったのかわからないくらい劣化したモノが捨てられている。その一つ、わりとしっかりしてそうな倉庫に、彩はアレクシアとともに入った。

 どうやら、彩は途中で眠ってしまったらしい。時間は、二時間ていどだろう。そろそろ学校が始まるか、もう始まっている頃。こんな恰好(なり)じゃ学校にもいけないな、と汚れきった制服に目を落とす。

 打ちつける雨の音を聞きながら、彩は周囲に目を向ける。

「あいつは……?」

 あの男、の意味で言ったのを、アレクシアはすぐに了解する。

「追って来ない。見失っていると思う、結界張ってるから。それに、昼間のうちはまだ大丈夫。……雨が降ってなきゃ、絶対って言えるのに」

 (くや)しそうに、アレクシアは歯噛(はが)みする。

 そんな彼女から、彩は目を()らす。

 ――見失っている、なんて、それは嘘だ。

 あの男が、彩やアレクシアを見失ったとは、到底思えない。

 つまり、見逃されたんだ。

 その事実は、驚くに値しない。けれど、その事実だけで、彩自身はこんなに苛立っている。あれだけのことをされて、彩はなにもできなかったっていうのに、男は彩とアレクシアを見逃した。あの険しい表情は、さも彩なんて相手にしていない。

 そして、見捨てられた自分たちは、こんなボロ倉庫の中で身を隠している。――隠さないと、いけない。

 ――ああ。

 なんて。

 情けない――。

 ――それが。

 無性に。

 気に入らない――――。

 なにもできなかった自分が。

 逃げることしかできなかった自分が。

 こんなところに隠れているしかない自分が。

「――――ああ、ムカつく」

 自分に、腹が立つ。

 情けない、そんなままの自分が、許せない。

 ――そうとも。

 一番許せないのは、この矮小(わいしょう)な自分。

 なにもできなかった、自分。

「はは……」

 乾いた、笑い。

 ああ、いいだろう。

 いまは笑われても、いいさ。

 でも、次はこんなの、許さない。

 ――あの男。

 二メートル近い大男。突き出された右腕。大木のような、その右腕。険しい表情、顔中の深い(しわ)。苦悩と、怒り。揺るぎない、その意思。それだけで、圧倒されそうな圧迫感、威圧感。

 ああ。そうさ。

 いまでも、恐い。

「けどな」

 いつまでも、恐れてちゃいけない。

 あの男がいまの、響彩の恐怖で、それがまだこの町にいるなら、遅かれ早かれ、彩はあの男と対峙(たいじ)する。

 だったら――。

 ――――いつまでも、逃げているわけには、いかない。

 大きく、息を吐く。

 よし。これで少しはマシだ。

「アレクシア」

 彩は顔を上げて、彼女を呼ぶ。

「あいつのこと、教えてくれ。あいつはなんだ?」

 逃げ続けるわけにはいかない。そんなこと、彩が、彩自身が認めない。

 あの男について、知る必要がある。もしもアレクシアがあの男のことを知っているなら、それを彩も共有したい。

「…………」

 アレクシアの表情が、一瞬で暗くなる。言い(づら)そうにしているが、やがて諦めたように、その重い口を開いた。

「そうだね。もう会っちゃったし。彩にも、話しておくね」

 そう、アレクシアは長い話を始めた。


「シドは元々人間で、魔術師だった。人間のときの名前は、ガラキア・グノーサス。彼の生きていた時代は、魔術が世界を動かしていた時代。科学が生まれる(はる)か昔の頃。彼は魔術の家系に生まれた、生粋(きっすい)の魔術師だった」

 アレクシアはあの男――シド――について語り出す。

 雨は弱まるどころか、次第に勢いを増していく。壁の薄い倉庫は、その圧力に(きし)む。雨音が倉庫を揺らしている。

 だが、そんなことも気にならないくらい、彩はアレクシアの話に集中する。彼女は薄い壁に背を預けて、続ける。

「十人近くもいる兄弟の一番の末っ子。もう立派に成長したお兄さんたちが大勢いたから、生まれたばかりの彼が両親に期待されるようなことはなかった。けれど、彼の魔術師の才能は、他の兄弟とは比べ物にならなかった。家の基礎となる魔術を習得し、さらに兄弟たちが先に得た魔術さえ自分のものとしていく。七歳になるまでに、彼は兄弟の中で一番優秀な魔術師になっていた」

 アレクシアは目の前にかかった髪を払う。

「近くの町々でも、彼ほどの魔術師はいなかった。大人たちでさえ、彼を超えられなかった。天才、(とき)の門、神託者(しんたくしゃ)…………。様々な名が、彼に与えられた。それだけ彼は有名で、彼の名は町中どころか、国中にまで広く知れ渡った。名前の数だけ、彼の有能さが表れていたみたいね。――彼が十六のとき、彼は国家同士の戦争のために、軍に徴集(ちょうしゅう)された。その当時は科学兵器よりも魔術師たちが兵士として闘争を繰り広げていたから、魔術師の家に徴集がかかるのは普通のことだった。人々の中にも、戦争で手柄を立てることは家の誉れとしていたから、誰も躊躇いなく、むしろ進んで我が子を兵として送り出していた。徴集、とは言ったけど、戦争に参加することは彼の希望だった。彼も、自身の有能を過信し、それを証明しようとしてたみたい。そのために軍に入って、自分の魔術を彼は試した。もちろん、そんな世論があったから、彼の親や兄弟たちは彼の出兵を喜んだ。一族中、町中、国中で、彼の門出をお祝いした。その戦争で、彼は大きな功績を上げた。当然ね、彼はその国一の魔術師なのだから。でも同時に彼自身、自分が無知であることをはっきりと知ってしまった。彼の知らない術式、彼の知らない流派、それらを目にして、彼は自分がまだまだ世界に辿りつくには遥か及ばない存在であるということを、事実として知ってしまった。彼は、己の(おご)りと才能と、無知と自信を傷つけられた」

 そこまでアレクシアの話を聞いていて、彩にはわからない単語があった。

 魔術師――。

 他にも、彼女の話には彩の理解の及ばない点が多いが、根本となるであろうその単語がぴんとこなかった。

 アレクシアは一度話を逸れて、彩に説明した。

「魔術師というのは、いまこの世界で影響を及ぼしている科学が生まれるよりも遥か以前に存在していた人間の種。彼らは魔術を行使することで、この世界の支配階級にまで進出していた。政治も、文化も、宗教も、学問も、人々の生活の中にも、魔術は入り込んでいた。魔術師というだけで、その家は一目置かれた。魔術師は家の名を重視するから、魔術師であるということは同時に、その家が代々から続く魔術師の家系であるということ。だからこそ、魔術師は一部の特権階級みたいな存在だった。世界の支配者ではあったけど、魔術師たちの目的は人間たちを牛耳(ぎゅうじ)ることじゃない。――世界への到達。真理の追究。――それこそが、魔術師という存在の起源。自分たちはどこから生まれ、どこへ向かおうとしているのか、なんて哲学じみた思想を本気で満たそうとした、そういう人種。いまは彼らの隠匿行為(いんとくこうい)によって目立たなくなっているけど、魔術師はいまでも存在している」

 彩みたいに無関係な人間なら関わることはないかもしれないけど、とだけ付け足して、アレクシアは話を戻す。

「戦争が終わると同時に、彼は行方をくらませた。彼は戦争が終わっても祖国には戻らず、そのまま各国を点々と旅した。様々な国、色々な町、たくさんの人々、あらゆる知識。学び、習得し、実行する。彼は多くの魔術を得て、もはやその時代、彼を超えられる魔術師はいなくなった。それでも、彼は自分がまだまだ世界に遠く及ばないことを理解していた。そして、彼が二十歳になったとき、彼は人間の寿命では世界に到達できないと(さと)った」

 アクレシアの()が、悲しそうに細くなる。それでも、彼女は続ける。

「そして同時に、彼は生命の研究を始めた。研究と言っても、誰かを(おそ)って、解剖(かいぼう)して、人体をくまなく調べ上げて、ということはしなかった。あくまで知識のみ。学術書が主で、医者や大学に行って話を聞く、なんてこともやっていたようね。彼は生命の知識を得ようと、また各国を旅する。――その中で、彼は人喰種(カニバル)の名を耳にする」

 アレクシアの()の意味を、彩は理解できなかった。彩が知っているあの男――シド――は、ホテルを襲い、ホテルで眠っていた人々を虐殺(ぎゃくさつ)し、彩自身を虫けらのように殺そうとし、アレクシアを殺そうとした、ただの殺人鬼だ。それ以上のことを彩は知らないから、アレクシアのなにかに()えるような表情は、彩には遠かった。

「カニバルの持つ、人間を遥かに超える身体能力、際限のない再生能力。彼はそこに目をつけた。当時はカニバルについて知る人は、まだまだ少なかった。まあ、いまでもあたしたちのことを知っている人は限られているけど、当時はその存在自体があやふやだった。お伽話(とぎばなし)や人々の噂話に上るような怪奇(かいき)でしかなく、誰もその存在を真実として知らなかった。当然、知識として本になっているわけでもない。でも、彼は独学でカニバルについて研究し、わずか五年でカニバルに到達した。彼は一体のカニバルを捕獲(ほかく)して、その中身をくまなく調べ上げ、そしてその構造を把握した。――そして彼が三十歳のとき、彼は人間を捨てた」

 脇に逸れるように、アレクシアは言い足した。

「人間からカニバルになるとき、その構造の違いから拒絶反応みたいなものが起こるのが普通なの。けど、彼はその拒絶反応をわずか数時間で押さえつけた。同時に、肉体の劣化も最低限に抑えることに成功している。人間からカニバルになった魔人(まじん)は、本来はその肉体の損傷から人喰行為に及ぶものだけど、彼は食事として人を襲ったことはない。まあ、魔術的な手段として、人間に手を出したことはあるけど、でも、肉体の劣化に耐えるなんて、魔人としては異例よ。……彼は人間を捨て、カニバルとして生を受ける。そのときから、彼はシドと名乗るようになった」

 その後、アレクシアは『彼』を『シド』と呼んで、話を続けた。

「あたしがシドと会ったのは、それから数十世紀後の話。もう時代も、大分様変わりして、科学が社会に広がり始めた、そんな時代。それでも、シドは魔術の絶対性を捨てなかった。シドなりに、当時の科学技術を学習したようだけど、シドが出した結論は『科学(これ)では世界に到達し得ない』というものだった。いまでも、きっとそれは変わっていない。だから、シドは世界に到達するために、魔術の研究を続けていた。カニバルの研究は、シドがシドになったときに、もうほとんど終わっていた。シドにとってカニバルとは、シドが研究するための時間を得るための手段にすぎなかったようね。だから、シドはカニバルそのものについての研究をあまりしなかった。――そんな折、あたしはシドと会った」

 途端、アレクシアの()がそのときを思い出すように、細くなる。遠い、遥か昔、全ての始まりを(なつ)かしむような、そして(うら)むような、(はかな)さと激しさを混ぜ合わしたような()で、彼女は口を開く。

「いまでも覚えている。満月の夜、時計塔の上で、あたしとシドは初めてお互いを認識した。そのときシドは、きっとあたしのこと、自分の研究を妨害(ぼうがい)する邪魔者くらいにしか思ってなかったんでしょうね。シドは魔術師だったから、魔術をもってあたしを攻撃した。当時から、魔術の存在は世界から隠匿されていた。もはや魔術は(すた)れ、科学が表舞台に上がっていた時代。古い時代の魔術師たちは、次々と社会の歴史から消えていった。社会や人々の前では魔術を使わず、使う際には決して人に見られないように、その場を社会の目から隠す。その閉鎖(へいさ)された空間の中で、シドはあたしを始末しようとした。確かにシドの実力なら、大抵の魔術師は破れていたでしょうね。ううん、魔人の中でも長老の域なんだから、カニバルだってただではすまない」

 その決着が、着かなかったと彩でも理解できる。もしも勝負がそれで終わっていたなら、アレクシアもあの男も、こうして再会することはなかったのだから。

 アレクシアはやや自嘲(じちょう)じみて続けた。

「そのときの戦いの結論だけ話すとね、シドは戦いを途中で放棄(ほうき)したの。ちょうど()が上ろうとしていたときだったから。魔人は陽の光に(さら)されると体が急激に劣化する。皮膚が()けるような痛みに襲われて、それこそ火傷のように皮膚が崩れる。長時間陽のあたるところに居続けたら、弱い魔人は干乾びて消滅する。シドほどの実力があれば、それほど大したことにはならなかったかもしれないでしょうけど。でも、長時間の戦闘は不利だと判断したのね。魔人は陽の光が大敵だけど、生まれながらカニバルである神人(しんじん)は何の影響も受けない。それに、朝になれば人々が目を覚ます。魔術を見られることを禁忌(きんき)としていた当時の魔術師に従い、シドも魔術を見られることを嫌っていた。それで、初めての夜は終わった」

「追わなかったのか?」

 つい、彩は口を開いた。

 もしも、もしもそのときに全てが終わっていれば、そんな考えが彩の中に浮かぶ。

 自分でも、馬鹿げたことを考えていると思う。それに、どうしてこんなことを思ったのか、彩にもわからない。

 追ったわ、でも、とアレクシアは自然体で答える。

「すぐ見失った。あのときはいまみたいな状態じゃなかったから、シドを見失わなければこんなことにならなかっただろうな」

 彼女の()に、確かに後悔の色が見えた。

 逃がしてしまったこと。

 おそらく、シドはアレクシアのことなど、知らなかった。だから、その瞬間こそ、シドがもっとも油断していたとき。ただの障害と、それだけの存在と信じていたときなら、きっと十分終わらせられた。

 しかし、それは叶わない。

 彩も、その事実を現実として知っているから、彼女になにも言えない。

 彩は黙ったまま、アレクシアの言葉を聞いた。

「シドを見失った。でも、それからひと月もせず、シドと再び会った。あたしは最初にシドと会った国から離れて、別の町にいた。でも、再びシドと会った、夜の教会で――――――――――――シドは、そこにいた神父とシスターを殺害していた」

 最後の言葉に、アレクシアの()苛烈(かれつ)に光る。その()を、なんと表現すればいいかわからない。怒りとも憎しみとも、悔しさとも(あわ)れみともとれる、難解な眼差し。

 アレクシアは震える声で続けた。

「その夜から、シドは一週間おきにあたしに(いど)んできた。決まって、夜。シドは常に(しかばね)(まと)い、あたしとの戦いを望んだ」

 その一言一言、口にするアレクシアは、辛そうだった。

 一週間に一度の決闘。

 それは決闘というよりは、死闘と呼ぶにふさわしい。

 相手は常に死を覚悟し、死を装って戦場に挑む。

 それを目にした彼女は、いったいなにを思っただろうか。

 彩は昨日のホテル襲撃時の男――シド――の姿を思い出した。その眼に映るのは、ただ強い意志だ。なにものにも支配されず、なにものにも揺るがない、断固とした自身の意志。その眼に、いったいどんな感情が宿っていただろうか。

 それを表す言葉がないことを、彩は改めて知った。

 あれには、純粋な意志しか存在しない。ただ目的のため、あるいは信念のために、男はそこにいる。そして男が身に纏う死臭さえ、男の意志の前では儀礼(ぎれい)ていどのお飾りにすぎない。

「それが、あたしとシドとの繋がり。シドとは、あたしが眠りにつくまで死闘を繰り返した。そして昨日が、あたしの永い眠りが明けてからの、再会――」

 そう、遠い昔のお伽話でも思い出すように、アクレシアは語る。

 それが終わりの言葉だと、彩はすぐに気付けなかった。

 久しぶりの再会が、彼女の物語にどれほど影響しているのか、彩には(はか)れない。それでも、この話が彼女にとって忘れられない、彼女の一部になりつつあるのだと、彩は理解した。


 雨は、一向にやむ気配がない。

 倉庫に打ちつける雨音は絶えることなく、だが彩は気にしなかった。いつものように感覚を遮断していたから、だけではない。感覚遮断も必要ないくらい、彩は物思いに(ふけ)っていた。

 ――アレクシアの語った話。

 あの男、シドとの物語――。

 シドの目的がアレクシアにあることを、彩はなんとなく知った。しかし、アレクシアの話だけでは、何故シドがアレクシアを狙うのか、わからない。

 シドは元々人間で、魔術師だった。魔術師がどういうものなのか、言葉で説明されても彩にはまだぴんとこなかった。理解できたことは、魔術師という人種はこの世界の真理を追究する存在であるということだけ。

 なら、魔術師は科学者と同じではないか。科学も等しく、この世界、自然秩序、物理法則を解明しようと日々研究を進めている。それが社会の経済と(から)まって、この世界では人間の欲望を(はら)んだ科学がいまも膨らみ続けている。

 当時の魔術、いまの魔術がどんなものか、彩は知らない。いまの科学と同じように、(おのれ)の利益を追究し発展し続けるものなのか。あるいは、世界の真理を追究しようという、最初の目的に忠実な代物なのか。

 ――そして。

 シドという男は、いまでも魔術師なのか――。

 シドが人間を捨てた理由は、人間の寿命では世界の真理に到達できないから。そのために人間を捨て、魔人となった。そして魔人となっても人喰(カニバル)にはならず、ただひたすら魔術を極め、世界に到達しようとしている。

 それが。

 ――いま、シドが狙っているのは、たった一人の少女。

 アレクシアという名の、カニバル――。

 それが、その理由が、彩にはわからない。

 シドがカニバルのことを研究した理由は、人間の寿命から解放されるため。

 それ以上のことを、シドはカニバルに望まなかった。

 それが、アレクシアと出会い、シドはアレクシアに固執(こしつ)している。さも生け贄のように人間を(ほうむ)り、何度もアレクシアに挑んだ。

 その必要が、彩にはわからない。

 一体、シドはなにを目的としているのか。

 アレクシアには、なにかあるのか。

 世界へと到達するという、魔術師の目的、彼の最初の目的を満たすなにかが、アレクシアにはあるというのか。

 そこまで考えに至って、彩は(つぶや)いた。

「でも、なんであいつは…………」

 視線の先で、アレクシアは目を閉じていた。肩と胸が規則的に上下している。彩はその平和な寝顔に溜め息が出た。

「……ったく」

 不平を漏らしつつ、そこまで表情を険しくしなかった自分が、意外に思えた。この束の間の安らぎが、どこか(とうと)く、手放しがたいものに思えた。

 それを、笑って許せそうになっている自分が、彩には意外だ。

 彩のこれまでの人生は、どんなときでも影が落ちていたような、気の許せないものだった。

 親戚の家に長いこと世話になっていた。彼らと打ち解けて会話ができたことなんて、一度もない。お互いがお互いに目を逸らすように、無視し合った。まるで空気のように、あるいは一つの儀式のように。差し出された食卓は、仏壇(ぶつだん)のお供え物のように、どこか遠い。

 学校に行っても、彼が気を許せる瞬間は、なかった。それは、彩自身が彼らを無視していたせいもあったが、彼らは仲間に入らない彩に目を背け、ときに攻撃してきた。大勢の人間に袋叩きに()おうと、彩は一人で立ち向かわなければならなかった。一瞬でも気を許せば、いつ死んでもおかしくないような毎日。生き残るために強くなり、気を許さないことを覚えた。

 事故に遭って目を覚ましたときから、彩は周囲のものを破壊する存在となった。彩の意思とは関係なく、ただ感覚だけで破壊してしまう。だから、彩は感覚を(けず)り、摩耗(まもう)させ、()り減らした。何も破壊しないために、己の感覚を殺した。殺し続けて、だから誰かと関わることを拒否した。感覚が破壊するなら、誰とも繋がりたくなかった。それでも、災厄(さいやく)(かたまり)である自分が生きていることは、罪な気がした。

 それでも、それが罪でないと信じたいと、遠い約束を()く。

 いま、彩は社会に生きている。

 学校に行けば、お節介な知り合いがいる。

 新たな家では、彩を迎えてくれる人がいる。

 そして、彼女とともに、ボロボロの倉庫の中で時を過ごしている。

 その全てが、いつまでも続いたら、それは平和なこと。

 その全てが、彩の手で壊れずに続いてくれたら、それは幸せなこと。

 彩がいてもそれがあり続けるなら、それこそ彩が罪ではないという証。

 遠い約束を、守れる自分がいればいい。

「らしくないな」

 呟いた声が、雨音に()き消されてしまえと、そんな風に思った。でも、自分の耳で聞いてしまったから、彩は静かに笑った。

 彩には、まだわからないことが多い。

 知らないことが、山ほどある。

 ――それでも。

 彼女(アレクシア)を守ってやりたいと、らしくないことを思った――。

 ボロボロの倉庫の中、ボロボロの自分たち。ボロボロの彼女の前で、彩は静かに見守った。彩が眠っていた間、アレクシアは起きていてくれた。だから今度は、自分が見守る番だ。

 雨は、まだやまない。やむ気配もなく、いつまでも降り続く。彩は打ちつける雨音をビー・ジー・エム代わりに、少女の寝顔を眺めていた。



 ザーーーーーーーーーーァ


 雨が降る。

 暗い雨。

 十一月という時期に、雨は針のように冷たい。暗い水面(みなも)に、薄汚い街灯が安っぽい光を当てる。暗い町の中で、そこだけ(こお)ったように弱い光を返す。

 ちかちか、と街灯が(またた)く。もう切れかけているのか、ほどなくしてジジジとその寿命を終える。辺りは暗く、そこは闇に近い。

 いまは何時なのか。雨音が眠りの時間を掻き乱す。それでも、外を歩く人の姿は見えない。この雨の中、外など歩いていたら凍えてしまう。


 ザーーーーーーーーーーァ


 雨が降る。

 暗い路地裏で、少女は(ひざ)を抱えていた。

 小学生と中学生の中間ほどで、ほっそりとした体つきに、(こし)まで届く銀の髪を伸ばしている。雨の中で、少女は(かさ)もささず、それどころか服すら身につけていない。彼女は段差の上に座りこんで、ただ目の前だけを眺めている。

 ――冷たい雨の中、水溜りのような鮮血。

 雨に流されて、その色は次第に薄く消えていく。それを惜しむかのように、少女はその流れる色を眺めている。

 十分ほどで、そこには血痕(けっこん)さえも残らない。辺りには雨の音が響くばかり。少女は一人、闇の向こうを見つめるだけ。


 ザーーーーーーーーーーァ


 雨音に(まぎ)れて、足音が聞こえる。

 水の跳ねる音。

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぺちゃ、ぴちゃ。

 まるで、人間ではないような。

 死を迎えるかのような、不吉な足音。

 少女は顔も上げない。

 きっと、それは少女になんの希望も与えてはくれない。

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぺちゃ、ぴちゃ。

 だから、少女は顔を上げない。

 遠く、遠くからやって来た足音は、もう少女のすぐそばまで近づいている。

 足音は彼女の前で立ち止まり、持っていた傘をかざした。

「そんなところにいては濡れてしまいますよ。お嬢さん(レディ)?」

 ネイビーの傘を差し出す貴公子。この寒々しい雨の中、びしりとスーツを着ている。染み一つないシャツにダークレッドのネクタイが妙に()える。夜の営業マンらしいテカテカに固めた髪の下から、極上の笑みを浮かべている。

「さあ、どうぞこ――」

 ちらへ、と言いかけて、貴公子は愕然(がくぜん)とする。

 この雨の中、裸身の少女は濡れていなかった。

 長く伸びた髪は、晴天の下のような滑らかさを保っている。少女の肌には、水滴一つ浮かばない。それどころか、彼女の周囲で雨粒はまるで(むし)()われたように消失している。

 愕然とし、貴公子はそれ以上の言葉を失う。

 これ以上近づいてはいけないと、彼の中に眠るなにかが告げる。そして同時に、これほどの至近距離ではどうあっても逃げられないと、理解してしまった。

 少女の(あか)い瞳が、すっと貴公子を見上げる。

 不純物を含まない(きぬ)のような白い肌の中に、その紅は不思議な魔を放っている。

 血、そのものであるかのような瞳は、ガラス玉のように無機質に、ただ貴公子を見上げている。しかし、その瞳には貴公子の姿など映らない。さも、目の前の存在には興味がないとばかりに。

「わたしに、なにか御用かしら?」

 少女の薄紅(うすべに)(くちびる)が、かすかに動く。

 バイオリンのような、()んだ声。

 余分なものを削ぎ落としたような、それは純粋な音。

 ――精神にまで踏み込む、その振動。

 ――(たましい)を絡め取り、逃れることを許さない。

 貴公子は笑みを崩さず、品格と優美を揃えて少女に(こた)える。

「貴女には、探し物がおありでしょう」

 貴公子は、小さな少女の前で膝を折った。

 貴公子は笑みを貼りつけたまま、(こうべ)を垂れる。

 じっと、少女は貴公子を見下ろす。その視線を受けて、貴公子はただ耐える。もしも彼女の許可なく自分が勝手なことをすれば、どんな仕打ちが待っているかわからない。


 ザーーーーーーーーーーァ


 雨が降る。

 その雨が、いまだけは耳触り。

 さも、頭を下げた自分自身を(あざわら)うようで、貴公子は我慢ならなかった。

 しかし、耐えなければいけないと、身に()みて理解している。笑顔だけは、どうしても崩せない。

 ――ぴちゃ。

 少女の足が、水溜りを踏む。

 裸身の少女は素足のまま、暗い水溜りを躊躇(ためら)いなく、踏む。その水溜りが、少女の足を中心に貴公子の見ている前で消えてなくなる。

(たの)しみにしているわ」

 耳元で、そっと少女は告げる。

 少女の小さな足音が、次第に遠ざかっている。その音が完全に消えて、貴公子はようやく立ち上がり、振り返った。路地裏には、もう少女の姿はなかった。

「…………」

 貴公子は一人、その顔に愉悦(ゆえつ)を浮かべる。

 口元を、その極上の笑みにさらに喜色(きしょく)を乗せて、貴公子の笑顔は最高に(いびつ)

 声に出さず、貴公子は(わら)った。漏れ出るのは、昂奮を抑えられない吐息だけ。貴公子はきっと、身を(よじ)って声を上げたかったが、貴公子である自分にはそれができないと理解していた。だから、闇夜で一人、その悦びを噛み締める。

「……」

 どれほどそうしていたか。ようやく気が静まって、貴公子は元来た道を引き返す。ここにはもう用はないと、貴公子は迷いなく背を向けた。


 ザーーーー


 雨音が、やんだ。

 雨が、やんだわけではない。

 宙空(ちゅうくう)には、無数の雨粒が浮いている。

 落ちる直前。

 重力に引かれ、空気抵抗に()されて、水滴は楕円(だえん)(つぶ)れている。

「…………」

 貴公子の背後に、男がいた。

 二メートル近い巨躯(きょく)(おお)うほどの漆黒のマントを身につけてなお、男の存在は闇夜から浮いている。さも、大木から掘り出したような硬質の(からだ)、その存在を隠すように漆黒を身につけているが、その存在は黒にすら馴染まず、この世界から浮き出ている。

 全てを覆い隠し、手すら黒い手袋で覆って、(さら)け出されているのはその(いわお)のような顔。皺は深く、だが決して老いた印象はない。むしろ、そこには強い意思が溢れている。年月を感じさせる大樹は威厳を感じさせ、その圧倒的な存在の前に小人たちを見下ろす。

 苦悩――。

 怒り――。

 拒絶――。

 その全てが、すでに男の躯の一部であるかのように、()け込み、染み込んでいる。なにものも、闇でさえ、男とわかり合うことはない。この男はただ一人、その存在だけで、すでに完成している。

 だが、男の苦悩も、怒りも、そして拒絶も、まだ終わらない。

 ――男は、一歩、足を踏み出す。

 水溜りが、男の重厚感ある足に踏み潰されて、大きく(へこ)む。

 だが、次の一歩、男が足を退()けると、水溜りはその身を(たわ)めたまま、静止している。

 前方を行く貴公子は、その男の存在に気づいていない。漆黒の男がいたのは、先ほどまで少女がいた、そのすぐ後ろ。誰も気づかなかったのに、その存在感は最初からその場に()たように、強い。

 宙に浮く雨粒が男に触れると、水滴は男のマントに沿()って流れ、男が通り過ぎるとなにごともなかったように(くう)に留まる。

 その、全てが止まった世界の中で、漆黒の男は貴公子に向かって歩を進める。

 ――この男(コレ)では、役不足だ。

 口にはせず、男は胸の内で呟く。

 男は眼光鋭く、正面の貴公子を(にら)む。いや、睨んでいるのは彼ではない。この世界、存在するあらゆる存在を、男は嫌悪している。まるで、憎むことだけがこの黒衣の男に許された感情であるかのように。

「…………」

 男は、右腕を上げる。

 その重々しい所作は、さも、大蛇が鎌首を持ち上げるよう。

 その太い指は、一本一本が毒と破壊力を備えた、強靭(きょうじん)な牙。

 男が放つ、圧倒的な死の気配。

 だが、それを誰も、すぐ目の前にいる貴公子でさえ、感じ取ってはいない。

 誰も、この男が突きつける死を、理解できない。理解するより先に、誰もが命を落としている。

 それは、死。

 それは、消滅。

 命を失い、残るのはただ屍。

 (むくろ)はただ、夢の中に居るよう。

「……」

 一歩、男は足を突き出す。

 ――なにより、『あれ』では意味がない。

 細い路地裏。暗い路地裏。

 ここに、世界の目は届かない。

 雨でさえ、貴公子に危機を告げるには、か弱い。

 後、数歩。

 腕を突き出せば届く、その手前。

「――――――」

 漆黒の男は足を止めた。

 あと少し。

 あと少しで、目の前の貴公子を殺せるというのに、男は足を止めた。

 足を止め、目の前の男を睨む。

 ――道化(どうけ)か……。

 睨む、その鋭い眼光は相も変わらず。

 苦悩と怒りと拒絶を(たた)え、その腕がもたらすものは、死――。

 世界は、停止している。

 水滴は宙に止まり、水溜りは飛沫(しぶき)を上げず、貴公子は足も動かさずその場に留まる。

 この世界で動いているのは、ただ、黒衣の闇だけ。

 ――ここで手を下せば、それも道化。

 死の化身(けしん)は腕を下ろす。

 それだけで、全ての緊張が(ほつ)れて千切れる。

「――――」

 (きょう)()がれたか、男は貴公子に背を向ける。漆黒の夜、再び男が現れた闇へと戻る。


      ーーーーーーァ


 雨が降る。

 足元で、水滴が跳ねる。

「…………」

 ぴたり、と貴公子は足を止める。

 雨はやむことを知らず、冷たい夜を切り裂く。

 貴公子は傘を手にしたまま、振り返る。

 そこには、闇が広がるばかり。銀髪の少女は貴公子よりも先にこの場を去り、いまは彼しかこの忘れられた路地裏にいない。

 少女が座っていたさらに奥は、すでに行き止まり。それより先に、なにものも存在できるはずがない。

「………………」

 気のせいですか、と貴公子は心の内に声を漏らす。

 貴公子は再度笑顔を作り、その場を去った。雨で折角のスーツが台無しになるのを恐れたのだ。この季節に降る冷たい雨に、貴公子は興味がない。夜に、数刻前の漆黒が戻る。辺りは、雨の音しか聴こえない。


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