三章
――ざざざざざざざざ…………。
夜の闇を、一人彷徨う。
歩んだ道になにも無く、この先の道にもなにも無い。
それでも、其は歩みを止めない。進むことでしか、達成し得なくて。進むことでしか、近づくこともできない。
だから、進む。
ゆえに、進む。
この体は、ただ前に進む。
――ざざざざざざざざ…………。
其の道には、なにもない。
通れば消えて。消えては通る。
なにもないその道に、其の体だけが歩みを止めない。
夜に死んで、闇に埋もれる。
埋葬の丘に、しかし棺桶はない。
そんなもの、必要ないから。
それは死でなく、ただの破壊。
意味も、意義も。――存在も。
破壊し尽くされて――。
この世界から消滅する――。
消えて、無くなる。
――ざざざざざざざざ…………。
悼みも無く。
手向けも無く。
誰にも残らないから。
なにも遺さない。
その存在に、なんの意味がある?
破壊し、破壊し尽くして。
破壊され、破壊し尽くされて。
その意味は、同等。
破壊するとは、破壊されているということ。
消滅するとは、消滅しているということ。
壊すことしかできないこの手は――。
自分さえも、壊していくだろう――。
……ああ。
痛み。
傷み。
悼み。
――ざざざざざざざざ…………。
音が聞こえる。
――ざざざざざざざざ…………。
酷く、耳触り。
――ざざざざざざざざ…………。
それは、其の外から。
それは、其の内から。
――ざざざざざざざざ…………。
引き裂き。
切り刻み。
打ち割り。
突き破り。
――ざざざざざざざざ…………。
壊れて。
壊れて……。
壊れて…………。
壊れて……………………。
――ざざざざざざざざ…………。
個の手は、世界を壊し。
其の体は、世界に壊される。
……嫌な夢を見た。
まっくら闇の中で、自分が消えていく夢。
体中に亀裂が走って、ガラス細工みたいに粉々に散っていく。
「…………」
彩は手を持ち上げようとして、途中で止めた。頭が重い気がするのは、きっと気のせい。だから、触れたって仕方ない。
――二日連続で、嫌な夢を見る。
彩は揺れるカーテンへと視線を向ける。また、昨日も窓を閉めなかったらしい。昨日の記録は、はっきりしている。いつもより早めに散歩を終えて、彩は屋敷の壁を登って窓から自分の部屋へと入った。彩の部屋は二階で、この屋敷の大きさからすると相当な高さになる。それでも、レンガの隙間を見つけて登ったことは、ちゃんと覚えている。
彩は着替えようと椅子に手を伸ばして、まだ新しい制服が用意されていないことに気がついて手を戻す。時計を見れば、まだ四時だ。
「…………」
寝る気も起きない。そもそも、彩には二度寝の習慣がない。だから、彩はタンスにしまってあった部屋着に袖を通す。部屋にいるのも退屈だと、彩は一階のリビングへと向かう。
朝早い時間のせいか、誰もいない。しかしカーテンは開いているから、使用人の連や再あたりは起きているはずだと予想した。だから、彩はキッチンへと向かってみることにした。
キッチンは、食堂のすぐ隣の奥のほうにある。この屋敷に相応しく、それなりの広さがあるが、そこに一人しかいないと閑散として見える。
「やっぱりいたか」
黙々と料理をしている連の後ろ姿は普段の様子とかけ離れて見える。隣で鍋を火にかけながら野菜を切っているところを見ると、とても慣れているようだ。本当に、連が料理を担当しているのだと改めて理解した。
彩の声で気づいて、連は手を止めてお辞儀する。
「彩様。おはようございます」
連は驚いて、すこし困っているようにも見える。
「まだゆっくりしていてください。皆様も、まだ眠っていらっしゃいます」
「いい。早起きしたほうが、調子がいい」
素っ気ない彩の返答に、連は困った顔のまま鍋の火を止める。
「すぐにお茶のご用意を致します」
手を洗い始める連に、彩はすぐに目を逸らす。
「いい。勝手にしているから、連も朝食の準備をしていろ」
それだけ残して、彩はキッチンを出ようとした。
「…………あの、彩様」
連に呼び止められて、彩は足を止める。
「なんだ」
「彩様は、昨晩はお早い御戻りでしたね」
その言葉に、彩は引っかかるものを感じた。
「起きてたのか?」
「いえ。なんといいますか、その…………」
言い淀む連。
彩は毎晩、零時から丑三つ刻まで散歩する。昨晩は零時に屋敷を出てすぐに戻って来たから、かなり珍しいほうだ。
「物音がして、つい起きてしまいまして……」
彩はまだ納得いかなかったが、それ以上詮索はしなかった。連にこれ以上のことをきいても仕方がない。彩はすぐに話題を変えた。
「鮮は、まだ寝てるか?」
連はすぐに答える。
「はい。鮮様はいつも五時に起きられます」
いろいろと規律にうるさそうな鮮のことだから、きっときっかり五時に部屋を出てくるのだろう。それまではリビングにでもいよう。
「彩様。わたし、彩様のことは誰にも…………」
連の声が聞こえたが、それを無視する。きっと夜、就寝時間を破って屋敷を抜け出していることを言っているのだろう。そんなことは、もう聞きたくない。
「…………」
彩は返事もせずに、リビングへと向かった。再も起きているはずだが、彼には会わなかった。
連が教えてくれたとおり、鮮はおおよそ五時になってリビングに現れた。正確には五時五分といったところで、要するに五時に部屋を出て移動に五分かかったことになる。
「兄さんは、朝がお早いんですね」
最初、彩がリビングにいることに驚いた様子を一瞬だけ見せたが、流石お嬢様というか、すぐに優美なそうで彩の前に座る。鮮はもう着替えていたが、彩のほうも四時二十分頃に連に渡された制服を身につけている。早朝五時という時間を除けば、きっと爽やかな朝のひと時といった感じだ。
鮮がやって来るのとほぼ同じく、連は紅茶を持ってきた。気を利かして、カップは二人分。鮮は優雅に紅茶を一口、彩はカップを取りもせず外方を向いている。
「昨日はお早いお休みのようでしたけど、お体の調子でも悪いのですか?」
含むような言い方に、彩はいつも通りに返す。
「いや、いつも通りだ」
「そうですか」
じっと、探るような視線を向けられる。が、彩はいつも通りの態度を崩さない。夜の散歩は、まだバレていないだろう。連には気づかれたが、屋敷の出入りにはそれなりに気を遣っている。鮮は東側だし、彩がボロさえ出さなければいいだけだ。
「昨日、兄さんの学校から連絡がありました」
顔には出さなかったが、鮮の言葉に彩は心の内で反応する。
「学校、お休みになったそうですね」
外方を向いていた彩は、鮮のほうへと視線を戻す。鮮はカップをテーブルに置いて彩を直視している。その鋭い視線に、鮮の機嫌は簡単に想像できた。
「お体の調子はよろしいのに学校を休むなんて、どういうことでしょう」
言葉は優しいのに、口調や顔つきは少しも穏やかではない。彩は溜め息を吐いて、テーブルの上に放置されていたティーカップを取る。なにか別のことをしていたほうが、まだ楽な気がしたが、こういうときに飲むお茶ってものはどうしてこんなに不味いものなのだろうか。
カップを置いて正面に向き直ろうとしたが、結局止めた。きっと、鮮の顔つきは一向に変わっていないだろうから。
しばらくの無言。
最初に口を開いたのは、鮮のほうだった。
「兄さん。無断欠席はよくありませんよ。理由があるなら、仰ってください」
鮮の言い分は、もっともだった。もっともではあったが、彩は正直に言うつもりはなかった。一昨日殺したはずの女が実は人間ではなくて、その少女に付き合わされて学校に行けなかった、なんて。――――なんて、言えるはずもない。
「ちょっと、急用ができた。今日は、ちゃんと行く」
こんな返答に鮮が納得してくれるとは思っていなかったが、鮮はすんなりと了承してくれた。
「ええ、是非そのようにしてください」
当然、口調は少しも優しくない。
「理由もなく、学校を休むのはよくありません。急用ができたにしても、ちゃんと連絡していただけないと困ります。次からは、このようなことがありませんように」
それで終わりとばかりに、鮮は優雅に紅茶を飲む。そこには、薔薇どころか拳銃でも突きつけられているような品の良さがある。
「……わかった」
仕方なく、彩は鮮のお茶の時間に付き合った。紅茶の良さはわからないし、こんなぴりぴりしたところでじっとしていないといけないのはあまり快くないが、非があるのは自分のほうだと彩も認めている。少なくとも、今日は学校を休まないから、それはいいだろう。アレクシアとは夜から会うと、そう約束しているのだから。
朝食までの時間が、果てしなく長く感じる。こんなときまで、連は気を利かしているんじゃないだろうな。……そう、疑いたい気分だ。
屋敷を出たのは、それでもいつも通りの時間だった。昨日と同じように、田板が勝手にした約束の場所に田板はいなくて、無理矢理付き合わされているはずの間宮のほうは律儀に彩を待っていた。
彩の姿を認めると、間宮のほうから朝の挨拶をしてきたが、彩は返事をすることなく、一瞥のみで彼女の脇を通り過ぎる。
慌てて間宮も彩のあとに従ったが、それからはろくな会話もなく、二人、黙々と登校への道を消化する。何度か、間宮は話しかけようか思案していたようだが、彩は完全に無視を決め込んでいたから、たとえ話しかけられたとしても応じるつもりはなかった。
学校に着き、同じ教室に入る。朝も早い時間だから、他に生徒の姿は見かけない。二人きり、だが会話はなく、その氷のような沈黙のまま、彩はさっさと教室の扉を開け、中へ入っていく。
「あたし、部活あるから」
自分の教室に着いて、間宮はすぐに出て行った。律儀にも、彩にその理由を告げた。だが彩はそんなこと、当然のように気にしない。鞄の中から文庫本を取り出して朝の読書を満喫する。手袋をしたその白い指がページをめくり、静寂しきった教室の中ではその音くらいしか聞こえない。
この静寂がいつまでも続けばいいと、願ったって叶うわけはないと、彩はよくよく理解している。だからいつもの隣人が無遠慮に話しかけてこようと、顔を上げる必要もない。
「よ。響。昨日はどうした?」
「ちょっと、用事」
佐久間は他人の席に座って彩の机に肘をおく。自分の鞄を人の机の上に堂々とおくあたり、この男の身勝手ぶりは高校に上がっても治らないらしい。
「だよな。おまえが体壊すなんて、ありえねーよな」
彩の読んでいる本を覗き込んで、佐久間はあからさまに身を引いた。
「うえ。またその本かよ」
彩は無反応で返す。あまりにもわかりきったことなので、応じる気にもならない。当然、読んでいる本は一昨日のと同じだ。
佐久間は他人の机に寄りかかる。
「ったく。響が学校来て、良かったんだが悪かったんだか」
「佐久間が気にすることじゃない。あくまで、俺の都合だ」
視線を本に向けたまま、彩は返す。
ややあって、佐久間は机に寄りかかったまま口を開く。
「で、どうよ。実家に帰った感想は?」
代わって振られた話題。
別に大した話題でもない。いつものように軽く流せばいいだけ。そう思って返答を頭の中で構築していって、
「…………」
危うく開きそうになった口をそのままに留めて、冷静なふうを装う。
家に帰る途中の道で田板がかつあげされている現場を見つけた。そこにいた他校の不良たちを全員気絶させて、田板と、一緒にいた間宮と途中まで同行する。
家に着き、妹の鮮と、昔からの使用人である連と再に会う。自分の弟だという、薫とも会う。
そして。
――そして。
日課にしている、夜の散歩。
そこで。
――女を殺した。
その翌日。
殺したはずの女と、また会う――――。
なにもない、と口にするには、あまりにも異常すぎる。
自分が人殺しをしたというのもどうかしているが、その殺した相手が人間ではなく、蘇って自分の目の前に現れるなんて、非現実もいいところだ。そもそも、昨日彩が学校を休んだ理由だって、その女――アレクシア――にある。
「おい、どうした響。あんまよくないのか?」
数秒の間。
他の生徒なら無視されたと思うだろうが、中学からの付き合いのある佐久間には、例え表情は偽れても、その内心までは完璧とはいかない。彩は冷静を装ってページをめくり、静かに応える。
「なにもないさ。前と特に変わらない」
そう。
なにも、変わらない。
佐久間に。
普通の人間に話して通じるような、そんな些細な変化は、なにも無い。
またか、と佐久間は溜め息を吐く。
「おまえなー……」
これで、いい。
これは響彩の問題で、他の連中が関わる類のものではない。中学の頃のような、子ども同士の喧嘩とは、わけが違う。
彩はそれ以降の佐久間との話を全て無視することにした。
放課後、彩は彼女の眠るホテルへと向かった。授業のことなど、全く頭に入ってこなかった。ただ、彼女のことばかり考えていた。
……自分でも、どうかしていると思う。
こんなにも、誰かのことを考えるなんて、彩にはないことだった。
今まで、全ての感覚を殺してきた。
自分が感じる痛み、他人が感じる痛み、自分が感じる喜び、他人が感じる喜び、自分が感じる苦しみ、他人が感じる苦しみ、自分が感じる楽しみ、他人が感じる楽しみ、自分が感じる悲しみ、他人が感じる悲しみ、自分が感じる怒り、他人が感じる怒り。
その全てを、殺してきた。
だから、響彩はなにも感じない。
なにも感覚しない。
感覚というものが、彩の意識に存在しない。
他人の感覚に躊躇しない。
自分の感覚に躊躇しない。
他人のことを顧みない。
自分のことを省みない。
――それが。
どうして。
こんなにも、彼女のことが気になるのか――。
夕陽の道に、自分の足音が嫌に響く。彼女のいるホテルは入り組んだ細い道の奥にあるので、車もなければ、人気もない。一人くらい誰かとすれ違ってもいいだろうに、いまのところ誰にも会っていない。
「…………」
なにも、感じる必要なんてない。
この世界は脆く、そして、この体は脆い。
他人を壊すように、この自分もすぐに壊れる。
――いつか、報いはくる。
破壊しかできない自分は、なにも得られない。
得ようとするその先から、この手は全てを壊す。
だから、せめて、なにも感じないことが、響彩の最後の抵抗。
それだけが、彩にできること。
だから、なにも感じる必要なんてない。
――彼女を心配する必要も。
――彼女を心配する権利も。
響彩という人間は、持ち合わせていないのだから。
ホテルの最上階、彼女の部屋の前に立って、彩は扉をノックする。こんこん、とリズミカルな音が聞こえて、それ以外の反応がない。
「…………」
もう一度、戸を叩く。最初は軽く。次は強く。最後には扉を蹴飛ばした。
『あっ。はいはいはい…………!』
なんて、慌てた声。
がちゃがちゃと扉が開いて、中から昨日と同じ恰好のアレクシアがひょっこり現れた。寝癖が酷い。いま、起きたらしい。
「やあっ。彩。早いねェ!」
なんて笑顔を向けられても、彩の表情はちっとも変わらない。揺れる寝癖に溜め息が出そうになったが、無理矢理飲み込む。
「なにが、早い、だ。約束の時間だろ」
開いた扉から強引に中へと入る。アレクシアも部屋の中の時計に目を向けてようやく時間を知った。
「あれ。本当だ。おかしいな。あたしが時間に遅れるなんて」
惚けたような言葉に、彩は嫌になって椅子に腰かけた。許可をもらっていないが、別にいいだろう。アレクシアのほうはまだ半分上の空でベッドに座る。
「やっぱり、まだ調子が悪いのかな……」
ぽつりと呟いたその言葉に、彩はびくりと反応する。
「おい。大丈夫なのか?」
彩はわずかに心配の色で訊ねる。
――それというのも、彩は彼女に対して少なからず罪悪感を持っているからだ。
響彩は、彼女を殺した。それこそ、これ以上ないくらいバラバラにして、どうあったって治せないくらいに。
けれど、アレクシアは生きている。アレクシアは人間ではなくカニバルで、彼女が言うには自分の体を創ったらしい。信じがたいことだが、現にこうして彼女は生きているわけだから、そうなのだろう。しかし自分の体を創ったために、相当な体力を消耗したことも事実のようで、だからアレクシアは普段の調子を取り戻せていないようだ。
彼女を破壊した彩としては、無視することができない。
ううん、とアレクシアは唸る。
「ちょっとダメみたい」
さらっと、アレクシアは答える。
こればかりは、彩も軽く流せない。
「……どうするんだ?」
この後どうするか、それがいま一番重要なことだ。
元々はアレクシアの人捜しに彩が付き合うはずだったが、アレクシアはまだ本調子ではない。アレクシアがまだ外に出られないのであれば、ではどうするか。人捜しをしないのならもう彩は帰ってもいいわけだが、約束をした以上、さっさと帰るのもどうだろう。
彩の問いに、アレクシアはしばらくして、うんと頷く。
「じゃあ、お話しよう」
「へ?」
なんて、間の抜けた声を上げる彩。
いま、こいつはなんて言った――?
お話しよう――――?
「あのぉ。アレクシア?」
「昨日よりは調子いいし。ずっと寝てて退屈だったんだ。朝までお話しようよ」
ね、と笑顔を向けてくるアレクシア。
普段の彩ならここで溜め息を我慢するところだが、いまは真剣に悩んでいるという珍しい状況にいる。それは、彼女に対する負い目があるからだということを、彩も理解している。
ただ話をするなんて、なんて無駄な行為。
そうは思っても仕方がないかと割り切ろう。今夜だけ、彼女のわがままに付き合ってやろうと、らしくないことを彩も考えていた。
承諾すると、アレクシアは子どもみたいに喜んだ。それが本当に、純粋に嬉しそうだったから、彩はつい視線を外した。自分にはないその素直さや感情の表情が、妙にくすぐったいからだ。
日付が変わる前まではまだ話を楽しめた彩も、零時を過ぎ始めた頃から次第に時間が気になり始めて、だんだんと投げやりな返事ばかりしていたが、その頃から、いやそれ以前からもそうだったのかもしれないが、アレクシアのほうから彩に訊いてくるようになったから、彩も仕方なく会話に参加させられている形になって、眠いわけではないが、そろそろ飽きてきたというのが彩の本音である。
彩が驚いたことに、アレクシアの話は本当に些細な、ともすればどうでもいいような、ひどく普通で日常的な話だった。町の中にたくさんのビルがあるだとか、車がたくさん走っているだとか、道路が舗装されているだとか、町の中の人たちが面白い恰好をしているだとか、要約してしまえばどうってことはない、いまでは当たり前の光景ばかりがやけに目立つ。
それから彩が訊かれたことは、おおよそ彩の日常生活についてだ。彩は高校生だから学校に行く、では学校とはどういうところなのか、なにをしているのか、それに一つ一つ答えるたびに、アレクシアは興味を持ったように目を大きくしたり、感心したように声を上げたり、楽しそうに笑ったり。正直、彩からすればなにがそんなに楽しいのかわからないくらい、アレクシアは楽しそうだった。
「彩はさあ――」
何度目かの質問の中、アレクシアはにこにこしたままこんなことを訊いてきた。
「なんで学校に行くの?」
その質問は、なんというか。非常に答えにくい質問だ。
「なんで、って言われてもなー……」
案の定、彩はまとまらないまま口を開く。
「高校は義務教育じゃないから、行く必要はないけど。だから行かない奴だっているだろうけど、けど、ほとんどが高校行くし、きっと大学まで行くんだろうな」
なんて、言ってはみたものの。
我ながら答えになっていないと思う。
そして改めて自分なりの答えを考えようとして、しかし結局、浮かんでくるのは世間一般的というか、ありきたりな返答だった。
「周りが行っているから、ってのが理由か」
にこにこしていたアレクシアは途端にむむむと眉を寄せる。
「他の人が学校に行っているから、だから彩も学校に行くの?」
そういうこと、と彩は頷く。
むむむ、とさらに首を傾げるアレクシア。
「彩は学校、楽しくないの?」
と問われ。
「楽しい、っていう感情が、そもそも俺にはない」
と応える彩。
小さい頃から、あらゆる感覚を殺し続けてきた彩。
そんな彩に、人並みの感情なんてものは、備わっていない。
痛み、苦しみ。辛さ、悲しみ。温かさ、優しさ。冷たさ、酷薄さ。嬉しいとか、楽しいとか。どんな痛みも感じない彩は、どんな幸せも感じない。
肉体があっても、そんなものは空気のように透明で、蛹のように形骸。
「えー、でも」
ぐるん、と上下反転するアレクシア。
「学校って、すごく楽しそうじゃん。自分以外の人とお話ができて、自分の知らない知識が得られて、それに、休み時間ってものもあるんでしょ。なんにもしなくていい時間。その間、ただ遊んでいられるんなら、それはすごく楽しそうじゃん」
自分の知らない知識を得ること、それは幸福なのか。
確かに、人間は知識を欲する。自分の知りえないこと、他人の知りえないこと。それらを獲得することで、人間は全知全能にでもなったような気分を得られるのだろう。
しかし、果たして。その知識の累積が、その個人を幸福にしてくれるのか。
「知識だけ身につけたって、そんなの分厚い辞書を持っているようなものだ。ただ識っているだけ。その知識がなんの役に立つのかわからなきゃ、ただ重いだけじゃないか」
学校で得られる知識なんて、そんなもの。
目的が、無い――――。
その知識が、何の役に立つのかわからない。大人たちは頻りに将来のためとまるで呪文のように呟くけれど、果たして何の役に立つのだろうか。
二次曲線が綺麗に描けたって、何の役に立つ?
滅多にお目にかからない漢字が書けたって、何の役に立つ?
関係代名詞なんて言葉を暗記して、なんの役に立つ?
塩酸とか水酸化ナトリウムとか、そんなのどこで使うんだ?
年号を唱えて、何の意味があるんだ?
覚えろ、勉強しろと言われても、結局何に使われるのか、いや、使えるのか全くわからない。そんな知識は、手に入れたって意味なんかないんじゃないか。
「それに、休み時間なんて、他にすることがないから遊んでたりするだけで、それだって、必要のないものだ」
休み時間。そんな時間があったって、学校から出られるわけじゃない。だから、その時間を潰すために、遊んだり、誰かと話をしたりするけど、そんなものだって、必要ない。
だから、彩は読書をする。自分の時間。自分の時間として、それを消費し、浪費する。ただ、次の拘束の時間を待つために。
ぽん、とアレクシアは手を打つ。
「あー、なるほど」
納得したのか、でもすぐに。
「でも――――」
目を閉じて、しばらくしてから目を開く。
「目的が無い、ってのは、意味が無くて、理由が無くて、必要が無い、ってことでしょ。それって、自由、ってことじゃないかな。それって、素敵なことじゃないかな」
そう、笑う。
――目的が無いから、それは素敵なこと。
そんなものかと、彩は外方を向く。
彩には、その考え方がぴんとこない。目的もなく生きているなんて、そんなのは無意味で、無駄じゃないか。
存在している以上は、なにか理由がほしい。生きている以上、なにか目的がほしい。
――それは。
響彩という人間に。
なにか理由がほしいから――。
時刻は深夜三時。丑三つ刻も過ぎて、いつもなら意識を手放している時間だ。
アレクシアと色々なことを話したが、しかし人捜しのことは一つも話に上がらない。ずっと雑談ばかりしている。
そろそろそのことも訊いておいたほうがいいかと彩が思ったときに、それより先にアレクシアが口を開いた。
「彩ってさ、どうやってあたしを殺したの?」
びく、と彩の背筋が伸びる。
ごろん、とアレクシアはガラスのように清んだ瞳で問う。
「ねえ、どうやって殺した?」
いままでの質問と同じように、まるでなんでもないように訊ねるアレクシア。
「なんだよ。急に」
精一杯の強がりで、彩は問い返す。
響彩からすれば、その質問は致命的だ。そもそもなんでこんなことになっているのか、その元凶。一度は認めたものの、あまり掘り返したくない傷。だから、その傷を見せつけられると、つい目を背けたくなる。
対して、アレクシアは「だって不思議じゃない?」なんて上半身を上げる。
「あたしは人喰種よ。話したからある程度はわかっていると思うけど、人間とは構造が違う。姿形は人間そのものだけど、中身は世界に近いわ。運動能力は標準で人間を超える、エネルギーは直接世界から引き出せるから無尽蔵で、不死身。貴方たちの知識を借りるなら、剣で心臓を貫いても、銃で頭を撃ち抜いても、炎で体を焼き払おうとも、そう簡単には死なない。もっとも、完全な不老不死なんてものはあり得ないから、殺す方法が無いわけじゃないけど。再生が追いつかないほどのダメージを与えるか、あるいは再生能力を封じるような術の類を使うかすれば、殺し切ることもできる。でも、あたしの再生をまるっきり無効にするなんて、そんなの貴方が初めてよ。だから創造を使う破目になったんだから。一体どんな魔術――いいえ、法術――を使ったの?」
後半の質問は、全く意味がわからない。
なにか、人喰種たちに通じる隠語なのかも、と思ったが、生憎彩にはそれに対する答えを持たない。
「最初に言ったと思うが、俺はただの高校生で、そんなおかしな力なんてない」
あまり話したくないので、彩はそんなふうに投げやりに返した。
ふーん、とアレクシアは冷めた調子で彩を見据える。
「最近の高校生って、人一人簡単に殺せちゃうんだ」
それはすごいな、とあてつけるようなアレクシア。
流石に彩もかちんときた。
「ああ、嘘だよ。俺は普通じゃない」
自棄になって、彩は言い返す。
「――――俺は、小さい頃から、モノを壊しやすいんだ」
そう、正直に話す。
「子どもの頃の事故がきっかけで、そのときから大分酷くなった。触ってるだけで、服とかベッドとか、このくらいの椅子だって簡単に壊しちまう。俺の意思とは関係ない。ある人が言うには、俺の破壊は感覚と繋がっているらしい」
言って、自分でもバカバカしいと思う。
こんな話、他人にするのは、これが初めてだ。
だって、そうだろう。こんな空想話、誰が信じるっていうんだ。だからずっと、自分の中にしまいこんでいた。モノだって壊さないように、感覚だって殺し続けてきた。それで、誰にも迷惑がかからないなら、それでいいじゃないか。
そんな彩の思いとは裏腹に、アレクシアはわりと真剣に彩の様子を眺め見る。
「でも、あたしが見る限り、彩は無闇やたらにモノを壊しているようには見えない。いまはコントロールできている、ってこと?」
訊かれて、アクレシアはばかか、と咄嗟に思う彩。
……でも、そうか。
アレクシアだって、普通じゃないんだっけ。
そう思い至って、彩も気楽に話すことができる。
「できてる、んじゃないか。感覚とリンクしているらしいから、普段は感覚を殺してる。そのせいか、つい最近までなにかを壊すようなことはなかったけど」
ぴ、とアレクシアは彩の手袋を指差す。
「彩がそれしているのも、そのせい?」
「ああ。実を言うと、これくれたのって、俺の破壊の性質に気づいた人なんだ。もうこれがなくても大丈夫な気がするけど、一応お守りみたいなものか」
じっと、彩の手袋を凝視するアレクシア。
別に隠しているものでもないからかまわないが、あまり見られていいものでもない。反応に困っていると、アレクシアはぽつりと口を開く。
「――それ、もっと良く見せてもらっていい?」
どうしようか迷ったが、別に見せるだけならと彩は手を差し出す。
「見るだけだぞ。外すのは無し」
アレクシアはベッドから下りて、よくよく彩の手袋を観察する。
……彩の手袋に興味を示す奴なんて、アレクシアが初めてだ。
まあ、珍しいだろうとは思うけど。それでもいままで彩の手袋を気にしたやつはいない。彩との付き合いの長い佐久間だって、手袋には一言も触れたことがない。そもそも彩に関わるやつが少ないからか、とそう納得する。
「…………」
しばらくじっとして、不意にアレクシアは手袋から視線を外す。
「――――それ、外さないほうがいい」
ぼそ、と。
それだけ呟いて、アレクシアはベッドの上に戻る。
「アレクシア……?」
「うん、ありがとう。………………もう、いい」
それでおしまい、とばかりに、アレクシアは向こうをむいたままなにも言わない。急にどうしたんだろうと思ったが、彼女がこれ以上追及してこないなら、彩も深入りするのは止めておいた。
時刻は深夜四時。かれこれ二十四時間起きていることになるが、響彩という人間は眠気を感じない。感覚を殺し続けてきた彩には、眠気というものも感じない。
お互い、話疲れたのか急に静かになった。
カチカチカチカチ…………。時計の音が暗い部屋の中に響く。
アレクシアはベッドの上に寝転がっている。彼女がまだ眠っていないことを、彩は知っている。彩は椅子に座って、テーブルのほうを向いている。呼ばれれば彼女のほうへ振り向きもするだろうが、いまは彼女のことは視界から外している。それでも、アレクシアがまだ起きていることを、彩は知っている。
カチカチカチカチ…………。時計の音。
十一月では、四時になってもまだ暗い。明るくなるのは、まだ一時間近く先のこと。部屋の暖房は切っているから、部屋は凍えるように寒いはずだ。それすら、彩は感じない。
沈黙は、重く苦しいわけではないが、心地いいわけでもない。
妙な、わだかまり。
なにか口にしようとして、でもその先がなにもでてこない。
必要ないとも思うし、しかし必要だとも思う。
矛盾している。らしくないと、けれどいまは笑えない。
重いのではなく。絡みつくような。そんな違和感、不快感。
感じるはずもないのに。
カチカチカチカチ…………。それだけが響く。
時間はまだ、一分も経っていない。
こんなにも、時間の歩みが遅く感じる。
カチカチカチカチ…………。
朝まで、まだ遠い。
ああ、こんなにも時間が――。
『――――見つけた』
不意に低い音が流れる。
暗く、重く。
空気を伝搬するのではなく、脳に直接刻みこまれるように、それは響く。
彩は戦慄し、椅子から立ち上がる。
アレクシアも、ぴくりと反応して上半身を起こす。
「…………久しぶりね。まさか貴方のほうから見つけてくるなんて」
見えぬ相手に、アレクシアは応える。
その言葉が通じたのか、再び脳に音が響く。
『いまそちらへ行く。待っているがいい』
しん、と。頭蓋を掴んでいた音が落ちる。
もう、音は聴こえない。
それでも、彩はすぐに動けなかった。あまりにも不意打ちな不吉な気配。こちらからは見えず、しかし相手からはこちらが丸見えであるかのような、監視されているような錯覚。脳に直接響く声は、いますぐにでも自分自身を握りつぶせるという脅しのようで――――。
「ついてない」
アレクシアの溜め息で、彩はようやく見えない呪縛から解放される。そんな間抜けな自分を叱咤するように、彩は一度頭を振る。
「おい。今のはなんだ」
吐き出した声は、自分でも驚くくらい弱々しい。……こんなにも足が竦んでいるなんて、初めてだ。
響彩は小さい頃から喧嘩ばかりしてきた。正確には巻き込まれたというべきだが、どちらにせよ変わらない。そのおかげで、彩は強い。それは体力面だけでなく、技術や感覚の面でも言える。相手を見るだけでその能力や特性を把握して、そのうえで相手を倒すまでの自分の体の動きとそれに伴う相手の動きをイメージして、その思い通りに相手を倒す。十人くらいを相手にしても、雑魚相手なら彩は十分勝つ自信がある。
――それなのに。
あれは、ヤバい。
正体不明だから、というわけではない。
もちろん、見えない相手ではその能力とか特性というものは全く見えないという不利はあるが、そこが不安なのではなく――。
脳に響いた『あの声』が、十分イってる。
あんな声を出す奴なんて、彩は知らない。
とても、まともな人間が吐き出す音じゃない。
だが、彩にはまだその声の正体がわからない。わからないだけで、こんなにも自分が震えている。
この震えを止めたくて、でも彩は奥歯を噛まない。感覚を遮断することも、いまの彩は忘れている。
「――敵が来るわ」
彩の問いに、応えたアレクシアの声。
それが、さも他人事のように聞こえる。
数秒の後、それが自分に対しての言葉だと気づいて、そしてその言葉の意味を理解するのに再び十秒くらいかかって。
口を開きかけたとき。
ずん、
と重い気配。
まるで地獄の底から伸びる亡者の腕のようなものが、ずるずると天上に向けて這い上がって来るみたいな。
あるいは、その亡者どもをなんの躊躇も憐みも悲しみもなく、無慈悲に喰らう鬼が追い立てるような。
あまりにも不吉なイメージしか湧きあがってこない。
それが、向かってくる。
――そして。
殺戮が始まる――――――。
――ふつ、と灯が消える。
この足元の下に、いったいどれほどの人間が眠っているのかわからない。この時期だから、観光でいるわけではないだろう。
それでも、この下には人がいる。
なにも知らず、ただ朝が来るのをベッドの上で待つ。
――――ふつ。
人間の灯。
生命の灯。
それが。
――――ふつ。
それは一方的に。
それは静かに。
単純作業。反復運動。
ただ繰り返される。
行われていく。
――――――――ふつ、ふつ、と。
彩の足元で、いま『殺人』が行われている。
それは、人間を人間として殺すという行為。
足元に広がるいくつもの灯が、一つ、一つ…………。
消える。
悲鳴もなく。
苦痛もなく。
あるいは、穏やかな夢のように。
――このホテルで眠るたくさんの人たちが、安らかに、穏やかに、永久の眠りに導かれていく。
『それ』は着実に殺人を行っている。
一人、一人……………………。
まるで、看取るように。
人工呼吸器がなくては生きられない人間の、その機材を外すように。
――――ふつ。
足元に広がる、圧倒的な死の香り。
近づいてくる気配。
『それ』は、確実に近付いている。
死を積みながら、上ってきている。
――――ふつ。
花を摘み取るような気軽さで。
――灯を摘んでいる。
個人の生きた証。
いまも輝く、命の灯。
殺人は、その行為だけで人に一生消えない傷を残す。
燃え盛る炎をその手で消せば、その火傷に生涯煩わされる。
――――ふつ。
しかし、『それ』は躊躇しない。
決して命を蔑ろにしているわけではない。
――むしろ。
人の灯を最期に看取るように。
人を、それが正しく人間の死であると理解したうえで、『それ』は摘んでいく。
なんて静かな、殺人。
あまりに美しい、殺戮。
獰猛さも、野蛮さもなく。
それは、なんて穏やかな死――。
眠っている間に死ねるのなら、それはとても安らかで。
苦しみもなく逝けるのなら、それは例えようもなく幸せで――――――。
「…………!」
吐き気がして、彩はその場に蹲る。
吐き気はほんの一瞬で、すぐに消えた。
……こんなに気持ち悪いのは、初めてだ。
彩はすぐに立ちあがって、足元に広がる死を凝視する。
確かに、これは殺人だ。
人間を、人間のままに殺している。人間を人間として殺している。
――それは、彩とは違う。
彩ができるのは、破壊だけ。
人間であろうと、モノであろうと、そこに区別はない。
彩ならきっと、人間としてではなく、ただのモノとして破壊するだろう。
――なら、あれは人を殺しているのか。
人を人として殺している。
大勢の人間を一人ずつ、着実に殺しているそれは、人を人間として扱っている。
だけど、あれにとっての人間はおそらく、彩にとっての人とは違っている。あれにとって、人間はおそらく障害、あるいは無価値。だから、なんの躊躇いもなくその灯を摘む。自分の腕を灼くその痛みさえも、あれは顧みない。
――だから、こんなにも相容れない。
破壊と殺人は違う。
けれど、彩はあれを認められない。
――だって、あれは。
人類そのものを見放しているから――。
彩は意識的に手を握る。
「…………」
見えるのは白い手。
己の手を覆う、白い手袋。
――あなたを守ってくれる。
遠い昔の約束。
必要だと。必要なときだけだと言われた、その言葉。
「……」
彩は視線を上げて扉を見る。足元からは死の気配が近づいている。自分はただの高校生で、できることはただ破壊だけ。彩は扉に向かって歩き始める。
「彩?」
不意に動き出した彩に気づいて、アレクシアは声をかける。
「俺が様子を見てくる」
振り向いて、そう告げる。
「…………」
不安そうな、アレクシアの顔。
止めようとして、でも止められない自分がいる。いまのアレクシアには、彩を止められない。それほどまでに、アレクシアはまだ完全ではない。
安心させようと、彩は笑う。
「大丈夫。様子見だけだから」
笑う。
笑っているつもり。
その声が、まるで他人みたいだったから、自分でも驚く。
彩はそれだけ残して、扉を開ける。
「……無茶は、しないで」
背後に残る、彼女の言葉。
――ばたん。
部屋と廊下をわける扉が閉じる。
こちらとあちらが隔てられる。
いま、彩は死の岸の前にいる――――。
「……………………」
気分を落ち着かせようと、一度大きく深呼吸。吸った空気は氷のように冷たくて、吐いた息は溶けた鉄のように熱い。
ふっと視線を手元に落として、すぐに正面を見据える。まだ手袋を外すときではない。敵がこの階に到達したら、そのときに外そう。
感覚だけが、ぴりぴりと肌の上を這う。
こんなに感覚に意識を向けるなんて、中学の始めの頃以来だ。中学になると他校の生徒とも喧嘩することが多くなって、一人で何人も相手にしなければいけなかった。いつ、どこから襲われるのかわからない状況で、完全に感覚を遮断していては対処しきれない。だからといって感覚を意識しすぎると壊してしまうかもしれない。壊さない程度に、けれど相手のことは感覚する。その中間の姿勢。
感じる。
迫って来る敵が、上へ上へと上って来ている。
目を閉じれば、一つ、また一つと、着実に人が消えていく様がわかる。
数秒ほど閉じて、すぐに彩は目を開ける。
……あまり視ていると、気が変になりそうだ。
あちら側に呑まれそうで、彩はすぐに正面へと切り替える。
敵がこの階に入るためには、エレベータを使う必要がある。エレベータからアレクシアの部屋に向かうには、エレベータを出てすぐ正面のT字を右に曲がらなければいけない。
彩はいま、長廊下の中でエレベータとアレクシアの部屋を結ぶ範囲の中央から部屋側に寄った位置で構えている。アレクシアのいる部屋のすぐ前で守っていたのでは、彩がしくじった場合、大した時間稼ぎにはならない気がしたからだ。
それでも、エレベータの前で待っている気には、なれなかった。エレベータからT字までは距離がほとんどない。敵を認識してから相手の出方を窺うまで、十分な距離が必要だ。
「……………………」
額に珠のような汗が浮かび、こめかみから頬、首筋へと流れ落ちる。季節は冬で、廊下には暖房も利いていないというのに、体はひたすら熱い。息を乱さないようにと、細く長い呼吸を繰り返す。
感じるのは、敵の気配だけ。
それだけで、十分。
敵が一体どんな容姿をしていて、どれくらいの能力があって、どういった特性を持っているのかとか、そんな想像は無意味だ。未知のままに想像を膨らませていっても、自分の体を強張らせるだけだ。見た瞬間に、全てを理解すればいい。
だから、彩は待たなければならない。
彩は耐えかねて飛び出しそうになる身体を、なんとか押さえつける。
堪えないと、いけない。敵は、ただでさえ得体が知れない。十分に理解したうえでなければ、決して自分から動いてはいけない。
自ら攻め入って、なんとかなるような相手では、少なくともないのだから。
――気配が、近い。
あの声の主がすぐ傍まで上がってきていると、彩にはわかる。
もう、真下の階に、あれはいる。次にあれがエレベータを使ったら、ここ最上階まで辿りつく。
「……………………」
目を閉じなくても、わかる。
最後の最後まで、あれは人を殺す。誰も、誰一人として声を上げない。正確に、的確に、あれは命だけを摘んでいる。
あまりにも静かな最期。
なんて安らかな殺人。
――彩には理解できない。
理解しては、いけない。
響彩は、あれとは相容れてはいけない。
鼓動が速くなる。
落ち着こうとしても、なにもかもが無意味。
息が速くなる。呼吸音がやたらと耳につく。
自然、左手は右手に添えられる。いつでも、手袋を外せるように。
体中が、早くなっている。どんどんと加速して、すぐにでも弾け飛びそう。
落ちつけ、落ちつけ、と命じても、体はいうことをきいてくれない。
もう限界だ、と悟ったとき。
――到着を告げる不吉な鐘の音が響く。
重く、重く、エレベータの扉が開く。
溢れた光に、わずかに廊下が明るくなる。靄のような、柔らかな光。それはさも、幻か命を誘う亡霊の霧か。
ぴたり、と体が止まる。
さっきまで加速していた自分の体が、減速もなく急に停止したのを彩は感じる。自然、左手は右の手袋を剥がし取る。
ひた、とエレベータの扉が閉じる。
そこに。
かつ、
と足音。
薄い光に照らされて、それこそ消えてしまいそうなくらい透き通った影が、一回り大きくなる。
――ごく。
と、唾を飲み込む。
緊張が、一気に全身を駆け抜ける。
こんなに緊張するのは、きっと初めて。
相手がどんなやつなのか、全く未知数。
でも、それがとてつもなく恐ろしいやつで。とてつもなくヤバいやつで。――どうしようもないくらい、イッてるやつだってことくらい、わかる。
映し出された影。
それが。
すっ、と。
現れる。
「――――」
長廊下を照らす、弱く、暗い光。
その中央に、黒衣の男が立っている。
男は大柄で、二メートル近くはある。その男が立っただけで、細い廊下はもう逃げ場がない。巌のような体躯に、険しい表情、顔中に刻まれた深い皺は、男の年代を感じさせる。しかし、決して衰えているという印象は与えない。むしろ、その刻みつけられた年代は男の険しさをより一層際立てるようだ。
かつ、
一歩。
男は歩を進める。
それだけで、凄まじいほどの、圧迫感。
巨大な石像が迫って来るような、その威圧感。
その巨躯に相応しく、一歩だけで二メートル近い距離がなくなる。
一歩、一歩、と。
「――――――」
薄い光に照らされて、男の容姿が徐々に見えてくる。
黒のロングコートを身に纏い、髪は暗い銀灰色、露出しているのは顔だけで、あとは外界の汚れを嫌うように一部の隙もない。両の手には、彩とは対照的に漆黒のグローブを嵌めていて、右だけが紅色に塗れている。
身構えようとして、しかし彩の身体は動かない。
動け。と強く命じる。
男は近づいてくる。
このまま動かなければ、彩はあっけなくやられてしまうだろう。
そんなわけにはいかない。
動け、動け、あれをこれ以上近づけさせるな!
動、
――――――――――――――――、
「がはっ!」
吐き出した息が、喉を焼く。
勢いよく壁に背中からぶつかって、彩は大きく咳き込む。
そんな彩の姿を、
「――――」
じっ、と男は見下ろしている。
突き出された腕。
その右手。
心臓を鷲掴みにしようと放たれた腕。
男はその恰好のまま静止して、その険しい目つきのままに彩を見下ろす。
「――何故かわす」
吐き出された言葉に、彩の思考は焼き切れそうだった。
人間とはかけ離れた、音。
地獄の底から吹き上げるような。
躯を締めつけるような、低い音。
――ヤバい!
響彩の本能が告げる。
こいつは、ヤバい。
本当に、本物の。
化物――――。
いま、彩はなにをされた?
あれが近づいてくる動きが、全く見えなかった。
気づいたら、あれは彩の目の前に立っている。
――どうかしている。
動きが、見えない。
近づく素振りも。
近づいたことで起きる風も、無い。
あれには、接近してきた形跡が、無い。
それなのに、あれは確かに彩を殺そうとした。
その突きつけた右手で、もう何回もしてきたように。
――響彩を殺そうとした。
じっ、と。
男の視線を感じる。
――それは、彩を人として見るのではなく。
ただの障害物であるかのように――――――。
――――――――――――――――、
――ずん。
と。
壁に穴が開く。
男の、その大木のような腕は易々と、壁を突き破る。
「――――――」
不快げに、男は眉を怒らせる。
さも、羽虫が鬱陶しく、気に食わないとばかりに。
「――――――――」
壁から右腕を引き抜き、男は彩を睨みつける。
ぱらぱら、と壁の破片が散る。
やはり、気配がない。
近づいてくるという、その動きが全く見えない。
――わけが、わからない。
これは、人間じゃない。
ただの、化物。
こんなやつに、彩は勝てるのか?
だって、どうやって勝負をすればいい?
それが、わからない。
動きの見えない相手。
いままでその攻撃をかわせているのが、奇跡のようなのに。
――でも。
もう、あとがない――――。
背後に感じる、壁。
すぐ隣には、扉。
その扉を開ければ、アレクシアのいる部屋に入れる。
入って。――入って?
それで、どうする。
彼女を守ると、そう出てきたのに。彼女のもとに助けを求めるんじゃ、意味がない。それだけは、できない。
だから。
――彩は、動けない。
一歩。
男が近づく。
次に、全く気配が読めずに近づかれたら、今度こそ逃げ場はない。
この下にいたやつらのように、この男に、心臓を貫かれる。痛みもなく、躊躇もなく。これは彩に死を突きつける。
男の右手は、寸分の狂いなく、彩の心臓に向いている。それは、槍のようにも見える。心臓を突き破る、死の槍――――――。
彩のすぐ隣を、巨大な風が抜ける。
まるで大砲でもぶっ放したような轟音が突き抜けて、目の前は一瞬にして白煙に包まれた。
「……!」
風が吹き抜けると、目の前の廊下には巨大な爪で引っ掻いたような、抉れた傷痕が広がっている。
ぱらぱらぱら、と破片が散る。煙が上がって、目の前にいた男はもう彩の前にはいない。あの男がどうなったのか、彩には理解できていない。
「彩。大丈夫?」
声が聞こえて、彩はがばっと振り向いた。粉々に吹き飛ばされた扉から、アレクシアがひょっこりと顔を出してきた。
「…………」
声が、でない。
アレクシアがなにかをしたのだろうか。あの風の弾丸は、彼女がやったことなのか。混乱して、頭が上手く働かない。声を出すことさえ、彩にはできない。
そんな彩の身を案じる前に、ぴく、とアレクシアの体が止まる。
すっ、と細められた視線を、煙の向こうへと向ける。
彩もそちらを見て、理解した。
「――――」
じっ、と向けられる、険しい視線。
長廊下の向こう側まで飛ばされたというのに、男の気配はありありと感じられる。こんなにも離れているのに、押し潰されそうなこの圧迫感。相当なダメージを負ったはずなのに、男は少しも怯まず、こちらを見ている。
「久しいな、神魔の王――」
響く、低い音。
その音を耳にしただけで、彩の精神はイカれてしまいそうだ。
「本当に。何年振りになるかしら?」
くだらない、とばかりに男は吐く。
「我々に時間の概念は無意味だ。私にとっては無限、そして、――――貴様にとっては永遠だからな」
自身についた汚れを払い、男は彩など眼中にないとばかりにアレクシアのことばかりを見ている。
「いつ式神を飼うようになった?」
「式神じゃないわ。この時代の人間よ」
アレクシアの答えに、ほう、と男は初めて興味をもったように口元を綻ばせる。
「そんな、人間を何故庇う」
「…………」
男の問いに、アレクシアは答えない。
男は再び険しい表情となって、アレクシアに問う。
「神魔の王たるが所以か。魔人はおろか、神人さえも殺す権限をもつ貴様には、人間を守護する義務でもあるか?」
男の言葉は、はっきり言ってわからない。響彩という、ただの人間には、その言葉の意味するところは、全く理解できない。
「……………………」
アレクシアは、けれど答えない。
アレクシアには、その言葉が理解できるのだろうか。まるで耐えるように、その痛みを堪えるように、アレクシアは口を閉ざす。
男の言葉は呪詛のように、彼女を絡めとる。
「世界は人間の存在を疎んでいる。故に、神人という存在がある。しかし、世界という枠から独立した神人はその均衡すらも破壊しかねない。そこで必要となったのは、神人を超えるさらなる抑止力だ。それが神魔の王という、そう呼ばれる血族であろう。そうあるべきではないのか。神魔の王は神人も魔人も等しく抹消する絶対的な支配者でなければならない。それこそが、貴様の破壊者たる名ではないのか」
そう、告げる男の叫びは、もはや糾弾のよう。
矛盾を、その存在の矛盾を正そうとする、強い意思。そうでなければ、ここにいる全てが崩壊してしまいそうな――――。
「――――知ったような口を利くのね。貴方が王にでもなったつもり?」
――ぞくり。
彼女の声に、彩は耳を疑う。
――これは、彼女なのか?
吐き出された、音。
その音だけで、汗が、血が、沸騰してしまいそうなくらい、熱く、滾る。
密閉された肉体という容器に、その熱量は致命的だ。
苦しい。
息苦しい。
肺が。心臓が。血管が。頭蓋が。脳が。細胞が。全部が溶けて。砕けて。その全てが気化してしまいそうな、そんな、壮絶な、痛み。
男はさらに目を険しくして。
「無論。私の目的は神魔の王――――」
告げる。
目的は、それ、だと。
それ以外のモノなど、ただの障害物。踏み越え、踏み潰し、捨て去り、捨て行くモノ。振り返る価値すら、無い。
「……故に」
静かに。
急に声を落として。
男は背を向ける。
「いまの貴様には興味がない」
かつ。
と、男は一歩遠ざかる。
その背に。
「この状況で背を向けるの?」
と、アレクシア。
男は振り返らず、さも愚問だとばかりに、嗤う。
「そのほうが都合がよいのは、貴様のほうではないか?」
かつ。
一歩。
男は長廊下の奥へと消えていく。
「次に出会うときには、其の一撃で片腕を不能にする程度になっていることを願おう」
それが最後――。
男の姿は、さも霧に呑まれたように消失していた。
忽然と、男は消えた。
それだけで、いままで張り詰めていた空気が、その男とともに欠落してしまった。
「……………………」
それでも、彩はすぐに声を出せない。
――なんて、ばかげてる。
男は、確かに消えた。
それこそ、霧のように。
さっきまで確かに存在していたのに、いまは確かにその存在が無くなっている。……もう、このホテルにあの男はいない。そう、理解できてしまう。
それが、その事実が、あまりにも常軌を逸している。
これじゃ、本当に、あれは化物だ。
「…………なんだよ、あいつ」
ようやく出てきた言葉は、自分でも情けないくらい、弱っている。
まだ、指先が震えている。その、自分の指。手袋を剥がした、右の手。病的なまでに、白くて細い、これじゃ本当に、弱い手だ。
……なにもできなかった、ちっぽけな手。
これでなんとかなるって、守ってやるって思った自分が、なんてばからしい。
なにもできなかったじゃないか。最後の最後まで、響彩は、守るはずの少女に守られた。自分で傷つけて、傷だらけの少女に、自分は助けられた。
情けない。
こんな自分が、情けなくて。
顔を上げられない。
――どん。
と、音。
ハッとして、隣を見た。
「!おい、アレクシア」
彼女が倒れている。
息はしているが、その息はとても苦しそうで、顔中に薄ら汗が浮いている。
「ちくしょう……」
彩は手袋を嵌め直して、彼女を抱き上げる。見た目通りの、少女くらいの、軽い体重。それを意識しないように、彩は駆け出す。すぐにでも、このホテルを出たかった。
……でも、どこへ行く?
宛てのない彩。
ただ彩は、白み始めた町をがむしゃらに駆け出した。