第8話
安藤率いる西条高校は亮太郎のホームランでコールド勝ちを決めた試合の後、順調に勝ち進み準決勝を迎えていた。
この日の相手は去年の夏の大会の決勝戦で敗れている相手だ。
その時に泣きじゃくる先輩たちの姿は亮太郎は忘れてはいなかった。
他の選手も同様でいつにも増してチームの試合にかけるモチベーションはもの凄いものがあった。
西条高校野球部の選手たちは準決勝のもう一試合が先に合ったので、終わるのを待ちながら球場の周りでウォーミングアップをしていた。
独特の緊張感の中、選手それぞれが各々に準備をしていた。
開始時刻が近づいてくると、チームで束になって声を出しながらのウォーミングアップになる。
いつにも増して声のボリュームが高く、試合を見に来た人達は圧倒されていた。
その前の試合が延長戦に入ったことでチームのウォーミングアップの後に少し時間が空いた。
亮太郎がトイレに行こうとすると「お兄ちゃーん」と櫻の声が聞こえたのでそちらを見ると、亮太郎の両親と櫻、蓮と蓮の両親までもが来ていた。
「蓮の父さんと母さんまで来たんすか」
「までって何だ、までって。亮太郎があと一歩で甲子園だって時にテレビでおちおち見てられるか。ちょうど良いことに今日は土曜日で仕事は休みだし、決勝の月曜日も祝日だしな」
「蓮のお父さん、気が早いって」
「そうだ、そうだ。しかし、今日は事実上の決勝みたいなものだからすごい熱気だな。アップの声が凄かったじゃないか」
「気合満々」
と亮太郎は両腕で力こぶを見せるようなポーズをとった。
すると櫻が何かを亮太郎に差し出した。
「お兄ちゃんにお守り。これで絶対勝てるよ」
亮太郎は受け取ると満面の笑みで受け取った。
照れ隠しに「負けてたらこのお守り使い道なくなるところだったな」と冗談を言うと、櫻は言った。
「だって蓮君が不器用すぎて」
「蓮が?もしかして蓮も一緒に作ったのか?」
蓮が頭を掻きながら「まあな」と言うと櫻が付け足した。
「この前だってお守りを仕上げようとしたら、お兄ちゃんを連れてきちゃうんだもん」
「それだったらそうと言ってくれれば良かったじゃないか。遊ぼうなんて言うから亮太郎も一緒でってなったんだよ」
「遊ぼうって言わなかったら来ないでしょ。お守りづくり途中から嫌になってんだもん」
亮太郎は合点がいったようで「そういうことか」と蓮と櫻の顔を見比べた。
「そういうこと以外何があるっていうの?」
と櫻が首を傾げると「いや、いや、こっちの話」と言い蓮の顔も見て頭を下げた。
「本当にありがとな。勝負事だから絶対というのはないと思うけど、精一杯頑張るから。こんな心強い味方いないよ」
とお守りを握りしめた。
前の試合も終わり刻一刻と試合開始が近づいている中、蓮たちはスタンドへと続く階段を登っていた。
既に先発メンバーの発表がされているようで、女性の声でオーダーが読み上げられている。
亮太郎の先発メンバー入りはここまでなかったからそこまで気にしていなかった蓮たちは、思い思いに会話を楽しみながら階段を登っていた。
すると、櫻が言い出した。
「今お兄ちゃんの名前聞こえなかった?」
すると亮太郎の父が「そんなまさか」と笑うと、蓮も「気のせいだよ」と笑っていた。
スタンドに入り電光掲示板を見ると櫻の言葉が気のせいではないことが分かった。
「マジで」
蓮たちは固まってしまった。
嬉しいはずなのに驚きのあまり言葉が出なかった。
――七番ファースト
これが亮太郎のポジションであった。
亮太郎の状態からキャッチャーではもちろん守備に就くことができないから、そもそも亮太郎自身もメンバー入りはないと思っていた。
しかし、バッティングを評価されメンバー入りをしていたのだが、とうとうスタメンに抜擢されたのだ。
亮太郎はこの大会で、代打として全ての試合に出ており、ホームラン二本と単打を二本打っており、六打数四安打と十分すぎる結果を残していたのだが、蓮からしたら亮太郎はキャッチャーというイメージが強すぎてファーストという可能性はないと思っていた。
我に返った亮太郎の父は「緊張してきた」と手を何度も擦り合わせていた。
「お兄ちゃんなら大丈夫だよ。またホームラン打っちゃうんだから」
と櫻は満面の笑みだ。
蓮は考えていた。
亮太郎が今どんな気持ちでいるのか、そうとう緊張してるんだろうな。
蓮は中学時代の最後の全国大会のことが頭に浮かんできた。
今まで野球から遠ざかってきた蓮にとって、こうやって野球と触れ合うことによって様々な変化が起きているのかもしれない。
中学最後の全国大会、結果は決勝で敗れて準優勝であった。
蓮はその時の試合を思い追い越そうとした。
しかし、最後の所が思い出せない。
一対〇で勝っていて最終回に二アウトながら二塁三塁のピンチを迎えたところまでは思い出せる。
しかしそこから先が。
席に櫻たちが向かう間も蓮はその場で思い出そうとしていた。
「蓮君何やってるの。そんなにお兄ちゃんのスタメンが信じられないの」
蓮は櫻の言葉も耳に届いていないかのように身じろぎ一つしなかった。
蓮は相変わらず思い出すことができない。
だんだんと頭が痛くなってきて、目の前が少し揺れた。
そして少しふらついた蓮を見た櫻はすぐに蓮のもとに駆け付けると「大丈夫?」と蓮の顔を下から覗き込んだ。
「顔色悪いよ。熱中症になっちゃった?」
我に返った蓮は「大丈夫、大丈夫」と櫻の頭を撫でた。
「七番ファースト亮太郎!」
今から約三十分前、安藤が先発メンバーを読み上げている中でのことであった。
「は、はいっ!」
亮太郎は声を張り上げるも、思わぬ抜擢に鳥肌が立ってしまった。
すぐに亮太郎は元々ファーストを守っていた三年生の先輩を見た。
その先輩は全く表情の変化がなく亮太郎は前もって聞かされていたんだろうなと思った。
しかし、球場に入るときにその先輩に呼び止められてその顔を見たときに違うと確信した。
今にも泣きだしそうに眼も少し赤くなっている。
「亮太郎、今日は頼むぞ!プレッシャーに感じることねえぞ。お前が打てなくたって他の三年が底力見せてくれるからな」
と亮太郎の肩に手を置きなおも続けた。
「しかし驚いた。考えが甘いわけじゃないと思うけど、今日もスタメンだとばっかし思ってたからな。だけどよく考えたらこの大会中、全然調子上がらなかったしな。好調のお前を誰だって使うさ。逆にここまで監督がスタメンで使ってくれたことに感謝しなきゃだな。今日は俺が代打で頑張るからお前はお前らしくスタメンで暴れてこい!」
先輩の言葉に涙が出そうになったが、泣きたいのは先輩のはずでぐっとこらえた。
今回の大会、西条高校はスタメンはほとんど三年生で占めていた。
二回戦と三回戦で二年生ピッチャーが先発ピッチャーを務めたのみで、その起用もこの猛暑の中勝ち上がっていくにあたっての疲労を考慮した起用であった。
今回の亮太郎の起用は相手が相手なだけに、その時とは訳が違う。
完全に戦力としての起用だ。
試合前のノックも終わり、安藤によるミーティングも終えたあと、選手たちは輪になって円陣を組んだ。
円陣の声出しでは各校様々な特色があり、天高く人差し指を差し、自分たちの力を鼓舞する高校やシンプルにキャプテンの声に呼応する高校、ラグビーのニュージーランド代表の試合前の儀式『ハカ』に倣って鼓舞する高校と様々だ。
西条高校は昔からの伝統で、他校の高校と比べると、比較的おとなしいエンジンとなっていた。
皆で肩を組み空を見上げて目をつむる。
この時間が長く、味方スタンドも一緒に行うため、対戦相手にはその静けさが逆に大きい圧となって襲い掛かる。
そこでキャプテンが試合に対する考えを話す。
するとキャプテンが一人、輪の中心に入り大声で叫ぶ。
「西条―!勝つぞー!」
それに呼応するかのように選手が皆、息の続く限り声を張り上げる。
最後にキャプテンが「いくぞ!」と叫び「オウ!」と選手たちが呼応し、終了となる。
亮太郎も最初にこのエンジンに入ったときには鳥肌が立ったものだ。
中学生のようにこれから進学を決める選手たちには、この円陣に惚れて西条高校を憧れる選手も数多い。
そんな興奮冷めやらぬ中、試合は開始された。
高校野球特有のサイレンと共に、守備の西条高校のピッチャーが第一球を投げた。
対戦相手の三坂東のピッチャー、諏訪野は高校生ながら百四十八キロの直球と、切れのあるスライダー、決め球のフォーク、芯を外すツーシーム、緩急自在のチェンジアップを操るサウスポーだ。
この年のプロ野球のドラフト会議で一位指名が期待されている逸材だ。
サウスポーで百四十キロ後半の直球を投げれるピッチャーは高校生では中々現れず、プロ野球全体でもそう多くはなく、この試合もプロ野球のスカウトが視察に訪れていることは確実であった。
試合の進む中、西条高校はそんな怪物ピッチャーといって良い程のピッチャーを相手に粘り強く戦っていた。
安打はそこまで出ないものの、粘りに粘って四球を選んだり、バントや盗塁など小技を絡めて相手ピッチャーをじわじわと追い込んでおり、六回終了時には二対二と同点になっていた。
しかも、そのピッチャーは六回で百十五球を要していた。
プロ野球ではすでに次ピッチャーに交代させることが濃厚な球数であった。
西条高校にとっては決して悪くないどころか、狙い通りの展開になっていた。
その諏訪野、昨年からエースとして背番号一を背負っていた。
今ほど、直球に球威はなかったが、それでも昨年から高校生離れしたピッチャー、でエースと呼ばれるだけのピッチャーであった。
昨年の決勝戦、西条高校はその諏訪野に圧倒されて負けていた。
スコアは一対〇。
結果だけを見れば惜しいと言われるかもしれないが、西条高校が放った安打は一本、驚くべきは諏訪野の球数で、僅か九十八球と百球にも達していなかった。
試合終了後の諏訪野の表情を見れば物語っているように、涼しい顔で甲子園出場を決めて喜びを爆発させている三坂東の選手たちの輪の中にいた。
その後、西条高校の選手たちは、徹底的に小技を磨き、打倒三坂東を目標に戦ってきていた。
秋の大会では三坂東に勝利したが、決勝戦で秋の大会は県大会の上位三チームが地区大会に出場できるとあって、地区大会に出場が決まった中での試合ということもあり、諏訪野は登板していなかった。春の大会、諏訪野が肩の不調を訴え、三回戦以降投げておらず、西条と戦う前に敗退していた。
そんな中での、念願の対諏訪野率いる三坂東。
安藤率いる西条高校が、この一年間取り組んでいたことが実を結ぶような試合展開になっていた。
亮太郎はここまで二打数〇安打、球数は投げさせるもなかなか安打は打たせてもらえないでいた。
そして、七回裏の西条の攻撃。
四番打者がこれもまた、粘りに粘って四球を選ぶと、五番打者がクリーンナップと呼ばれる打撃能力が高い打順に入る打者にも関わらず手堅く送りバントで二塁まで走者を進めた。安藤率いる西条高校の執念が見える采配である。
そして、六番打者の三球目であった。
意表をつくセフティーバント。
三塁線ギリギリに転がし、三塁手もスタートが遅れ、取ったときには打者は一塁ベースを駆け抜けていた。
そして、七番打者の亮太郎の打席が回ってきた。
三坂東はたまらずタイムを取り、ベンチから伝令を送る。
その間に亮太郎は安藤に呼び止められた。
「この打席は、勝負だ。目も慣れてきただろ。球数とか関係なく初球から打てると思ったらバットを振れ。さすがにピッチャーの球速も落ち、投げるコースも甘いところに集まっている。この試合でお前をスタメンで起用したのはこのためだ」
奮い立った亮太郎は気合を入れて打者ボックスに向かった。
そして、初球。
外角に直球が大きく外れてボール。
球速は百三十九キロとやはり大きく落ちてきている。
相手ベンチでは控えピッチャーが急ピッチで準備を進めていた。
昨年と違い諏訪野の表情には見るからに余裕がなく、最後の力を振り絞ろうかとするように何度も深呼吸を繰り返していた。
そして二球目であった。
今度はストライクゾーンに入ってきた直球。
しかし、球は真ん中よりの甘い球。
亮太郎は待ってましたと言わんばかりにフルスイングをした。
スタンドの蓮たちも固唾を飲んでそのスイングに集中していた。
甲高い音とともに亮太郎の振ったバットからもの凄い勢いで天高く打球が舞い上がる。
さすがに緊張感から無言になっていた櫻も飛び上がり打球の行方を見つめた。
打球は風に乗りグングンと伸びる。
亮太郎自身も感触に手応えを持っていたが、今までに経験したことのない手応えだった。
それもそのはず、打球は外野スタンドをも越え場外ホームランとなった。
地方球場のため、スタンドは狭いがそれでも高校野球では、稀な特大ホームランに球場内は歓喜の声援と同時にざわめきが起こった。
がっくりとうなだれる諏訪野。
亮太郎は自身の放った打球が信じられずベースを回る間、震えていた。
我に返った亮太郎はサードベースを回るころになって、ようやくベンチに向かってガッツポーズをした。
そこには、ベンチをも飛び出して飛び跳ねて喜ぶ、亮太郎の代わりに先発を外れた三年生の姿があった。
亮太郎がベンチに返るとその三年生が抱きついて頭をくしゃくしゃにする。
他の選手からももみくちゃにされたが、安藤が気を引き締めなおす。
「喜ぶのはそのくらいにして、ここから畳み込むぞ」
と気合を入れなおした。
その安藤の言葉通り、亮太郎のホームランで諏訪野がベンチに下がり、代わりにマウンドに上がった二番手ピッチャーを攻め、更に二点を追加して七対二とリードして、八回の攻防へと入った。
しかし、これで素直に終わらないのが高校野球。
この炎天下の連戦、そして対諏訪野ということで、西条のピッチャーも神経をすり減らし、体力の限界が訪れ始めていた。
三坂東が八回に連打で二塁三塁とすると、四番打者が亮太郎のお株を奪うスリーランホームランを放ち、七対五とし、試合は再びどちらに転ぶのかが分からなくなった。
西条高校の二番手ピッチャーは、この緊張感の中、普段の投球ができず四球と安打が重なり一点を追加され一点差。
八回はその一点でしのぐも、七対六で西条高校の八回裏の攻撃に移った。
再び突き放したい西条高校であったが、ツーアウト二塁のチャンスを作るも、亮太郎の直前で六番打者が強烈な打球を放つも内野手の正面をついた。
結局一点差のまま最終回の九回を迎えた。
「お兄ちゃんに周ってたら追加点入ってたのにー」
櫻は頬を膨らませて悔しがっていた。
「でもこの回抑えたら勝ちだから落ち着けよ」
例のようにフェンスに張り付かんばかりの勢いで見ていた櫻を蓮はなだめていた。
「相変わらず冷静だね、蓮君は。私なんかお兄ちゃんと一緒ぐらいに疲れちゃったよ」
「そりゃあ毎回暴れてたら疲れるよ」
「暴れてたらって何よ」
「誰から見ても暴れてるように見えるぞ」
二人はいつもの掛け合いをしながら九回の西条高校の守りを待っていた。
蓮の両親と、櫻の両親はそんな蓮と櫻を微笑ましく見ていた。
蓮が球場に足を運べるようになるのには、最初はかなりの勇気が必要であったのは誰の目からも分かる。
去年の夏も同様、このメンバーで試合を観に来ていた。
亮太郎はベンチ入りをしていなかったが、蓮の両親も亮太郎の両親も観戦に来ていた。自分の息子、家族ぐるみで仲の良い子共が所属している野球部が、甲子園をかけて決勝戦を行うとあって、いてもたってもいられなくなったという。
その時は蓮の身に何が起きているのか、全く予想していなかったので、何も考えずに蓮も連れてきていた。
しかし、蓮は球場を前にして、体調が悪くなったと言って帰ってしまっていた。
顔も青白くなっていたので、熱中症だろうということで家に連れて帰っていたが、蓮の両親と亮太郎の両親は蓮と亮太郎の身に何が起きているのか分かった時点で、この時の蓮の状態にも腑に落ちた。
蓮の両親は特に、何故この時点で気づいてあげられなかったのか、後悔していたので、今目の前で櫻といつものようにやり取りしている蓮を見て、胸をなでおろしていた。
しかし、まだ回復までの長い道のりの最初の壁であることは蓮の両親にも予想がついており、これからも蓮と向き合い共に歩んでいこうと決意を新たにしていた。
そんな中、試合は最終回の三坂東の攻撃が始まっていた。
三坂東の攻撃は二番打者からの好打順である。
その二番打者は最後の粘りを見せるも内野フライで一アウト。
続く三番打者は先制点となる安打を打っている好打者だ。
西条から見れば危険な打者だが、警戒しすぎて四球を出すと同点の走者になり、次打者はチームの柱の四番打者なので難しいところだった。
その予感が的中し、ボール球が増え四球で同点の走者を出してしまった。
三坂東のベンチ、スタンドのボルテージが上がる中、四番打者が打席につく。
三坂東の吹奏楽部による低音が響いた応援歌に乗せて、ゆったりと自分の構えにつく。
先ほどの三番打者は足も速く、試合前からの情報で要警戒と安藤からも言われていた西条バッテリーは、走者もケアしなければならなかった。
盗塁もあるので、遅い球は投げづらく、どうしても速球が中心になってしまう。
そんな心理をついたのか、二球牽制を入れた後の球、打者にとっては初球になる直球を四番打者がフルスイングした。
高めの見逃せばボール球かというような球を待ってましたかのように振りぬいた。
その打球は大きく外野手の頭の上を超える打球である。
しかしそこまで伸びずに、レフトフェンスにダイレクトかワンバウンドで当たるであろうと思われた次の瞬間、打球はレフトフェンスと地面の直角になっている部分に運悪く当たり、跳ね返りがバウンドせずにレフトの選手も予想だにしていず、股の下を抜けていった。
レフトの選手が慌てて拾い、内野手に返すも一塁走者は三塁を回っており、打者走者も三塁ベースに滑り込んだ。
不運も重なり同点にされてしまった西条は、尚も一アウト三塁の大ピンチで、三坂東にとっては勝ち越しのチャンスだ。
続く五番打者はこの試合、全くピッチャーの球にタイミングが合ってなかった。
しかし、それは西条高校の先発ピッチャー相手とのことで、この二番手ピッチャーとはいうと分からない話。
そして次の六番打者はこの試合、三安打と好調であった。
四番打者に続き、対応の難しい打者である。
安藤は伝令に伝えた。
――勝負だ。
マウンドで和になっていた選手たちに伝令を任された選手が走り、伝えるとピッチャーは安藤のことを見た。
安藤が大きく頷くとピッチャーも頷き、西条側のスタンスは決まった。
しかし、この西条側の判断は思わぬ形で裏切られる形となった。
そしてこのピッチャーが投げた球が蓮と亮太郎の奥底に眠っていた、闇が白日の下に曝け出される一球となったのだ。
五番打者に対する初球、西条バッテリーの読みとしては、五番打者も自分に勝負をしに来るのか、はっきりしない中で、初球から振りに来ないだろうと踏んだ。
キャッチャーの要求は外角低めの直球。
そしてピッチャーがセットポジションから足を上げた瞬間、蓮と櫻も予想だにしなかったことを三坂東が仕掛けてきた。
一塁走者と三塁走者がスタートを切ったのだ。
その瞬間、蓮と櫻も立ち上がった。
そして打者はバントの構え。
ファーストで試合に出ている亮太郎は、一瞬遅れるもバントに対するチャージで走り出した。
西条のピッチャーはバットに当てさせたくないという思いから、外に外そうと体ごと持っていこうとした。
しかし、無理に外にもっていこうとしたのが仇となり、指に引っ掛かりすぎてしまい、ホームベースの手前にバウンドする球になってしまった。
その瞬間、蓮の心が大きく揺れた。
蓮の頭の中の白い靄が突然と消え、どす黒い色の中にうっすらとマウンドに立ちすくむ、中学時代の蓮の姿があった。
そして、その蓮の視線の先にはホームベース上で崩れ落ちる、亮太郎の姿があった。
中学時代最後の大会、総合体育大会、略して総体。
県大会の予選にあたるブロック大会、県大会、地区大会と勝ち進んだ蓮と亮太郎率いる野球部は全国大会に出場した。
全国大会までは蓮の球を完璧にとらえられるような打者は少なく、すべての試合で蓮は完投していた。
しかし、全国大会ともなると、その蓮と同様に、怪物と呼ばれる選手が何人もおり、蓮も亮太郎も気合十分に全国大会を迎えていた。
予想通り、ピンチの数は明らかに増えるも、連打を許す展開は少なく、決勝までそれまでの大会と同様に、蓮が一人で投げぬいてきた。
そして決勝戦。
櫻が車椅子でスタンドから見守っていた。
例の事故の影響で、足の全治が医者にも予想が難しく、まだ中学生の櫻の精神は崩壊寸前だった。
家からも出ず、学校にも行きたがらない櫻を、兄である亮太郎はもちろんのこと、蓮と共に励まし続け、登校できる状態であったなら、車椅子を押して登下校を繰り返していた。
精神が不安定な時にはちょっとしたことで亮太郎や蓮に強く当たったりもしていた。
しかし、櫻の中で亮太郎と蓮への感謝の気持ちは、何事も代えられないものであった。
そもそも、櫻には二人を攻める気持ちは微塵もなく、自分が無闇に車道に飛び出したことで起きた事故で、二人に少なくとも嫌な気持ちをさせてしまったと申し訳ないとも思っていた。
そんな二人が中学最後の大会で全国大会に出場し決勝戦、それと同時に中学時代最後の試合ということになると、櫻は勇気を出して両親の付き添いの下、球場に足を運んだ。
運の良いことに、毎年開催する都道府県が違う総体であったが、その年は蓮や亮太郎が住む県が主催となっていたので、球場まで車で数十分で行くことができた。
そこでチームの中心となってプレーをする、蓮と亮太郎の姿は櫻の何よりもの良薬であった。
櫻は二人の一挙手一投足に一喜一憂し、思わず声も上げていた。
そんな櫻を見た両親はどのくらい安堵したか。
そして、その決勝戦はこれまでの試合と同様に、蓮の好投により相手に点を与えないまま、最終回を迎えた。
しかし、蓮たちのチームも相手ピッチャーに完璧に抑えられ、点を奪えず最終回になっても〇対〇のままであった。
球場内はこのまま延長戦になるのではないかという雰囲気の中、蓮たちのチームの攻撃は最終回でも点を奪えず、守りに入った。
先頭打者を三振にきってとると、次の打者も内野ゴロに打ち取り二アウト。
あと一人というところで、蓮にも疲れが見えていたのか、ボールが抜け、死球を与えてしまう。
蓮は気持ちを入れ替え、次の打者に投じた三球目、打者が放った打球はフラフラと上がり、運悪く内野手と外野手の間にポトリと落ちた。
一塁走者のスタートが良く三塁まで行き、ツーアウト走者一塁三塁とピンチを迎えた。
キャッチャーの亮太郎が蓮に声をかけにマウンドまで行った。
「次は九番打者だからここで終わらそう」
蓮は頷くと「当然」と笑顔で返した。
「何か楽しそうだな」
と亮太郎が思わず突っ込む。
「亮太郎とここまで野球やってきてこんな楽しいことはないさ。全国大会でしかも最後まで勝ち抜いてこんな緊迫した場面を一緒に味わってるんだからな」
「最後みたいなこと言ってっけど、俺たちの最終目標は甲子園に出場して日本一のバッテリーになることなんだからな。こんな緊迫した場面で満足されたら困るぞ」
「そんなこと相手チームに聞かれたら怒られるぞ」
「確かにな」
お互い笑いあうと亮太郎は戻っていった。
亮太郎なりの気遣いだろうと蓮には気付いていた。
亮太郎だけでなく蓮も、ここが通過点だなんて微塵も思ってなく、中学時代をともに切磋琢磨してきたこのチームで勝って終わるために、今を全力で戦っていた。
後先のことなんて、この大会期間中は考える余地もあるはずがなかった。
しかし、亮太郎自身には言わなかったが、蓮の疲労はピークに達していた。
全ての試合で投げ続けてきた蓮は、自分でも気づかぬうちに疲労がたまっていた。
まだ中学生で、常に全力を出してきた蓮にとって、ペース配分はまだできていなかった。
監督の斎藤も、中学時代からペース配分を教えるという方針は取っておらず、目の前のことに全力を傾けるという方針のもと、野球部を率いていた。
ペース配分というのはこの先、高校、そしてその上のカテゴリーを経験するうえで身につけていけば良いという考えだったからだ。
そんな蓮は九番打者に思わぬ四球を出してしまう。
これまで亮太郎の要求通りに勢いのある球を投げていた蓮であったので、さすがに亮太郎も蓮の疲労の濃さに気づいた。
こんな時こそ俺の出番だと気持ちだけでもリラックスをと思い、満面の笑みで蓮に「あと一人だ。踏ん張れ」と声をかけた。
ベンチで見守っている斎藤にはこの試合の中盤あたりからその兆候に気づいていたようで、ベンチに控えるピッチャーに準備を命じていた。
しかし、点を与えず踏ん張っている蓮を斎藤も交代させる決断を下せないでいた。
そして満塁という場面で一番打者を迎えた。
決して力があるようには見えず、大きい当たりを打つような打者ではないが、小技やミートが得意な打者で、一本の安打で負ける場面とあって一番嫌な打者であった。
亮太郎はその初球を内角の直球で入ろうとした。
打者が一番頭に無いであろう内角に。
打者からするとストライクからボールに変化する球も頭にあると睨み、多少甘くてもあまり頭に無い内角の直球ならば、しかも蓮の球なら打っても詰まるだろうという亮太郎の考えだ。
そもそも中学時代からそこまで配球を読む打者もなかなかいないが、亮太郎は元来野球脳だけはピカイチで、その他の中学生よりも頭一つ抜きんでていた。
その亮太郎を信じていた蓮は予想だにしない要求であったが、亮太郎なりに考えがあるのだろうと頷きセットポジションに入った。
そして、蓮の投げた球は亮太郎のミットより多少甘く入ったが、打者は亮太郎の読み通り頭に無かったようで、振るどころかよけるようなそぶりを見せた。
――もらった。
亮太郎はこの一球で大きく打者に意識づけをでき、この後の配球が幾重にも広がったと感じ、打者との勝負が限りなく勝ちに近づいたと確信した。
それにしてもと亮太郎は思った。
これだけの試合数、そして今日の試合も最終回のマウンドに上がっているにも関わらず、この緊迫した場面で死球の可能性がある内角の球を多少甘くはなったが、投げきる蓮の制球力と精神力の強さに改めてすごい奴だなと。
そして次の球は外角ギリギリの直球。
内角に意識が残る打者は遠い外角の球に手が出ず追い込んだ。
打者の反応を見た亮太郎は捨て球を使い、打者に時間を与えるより、内角の球のイメージが残るうちにと三球勝負を決断し、外角低めへ変化球を要求した。
蓮も納得し、再び投球モーションに入った蓮の耳に櫻の声が聞こえた。
「蓮君、いけぇ!」
何故この時のみ聞こえたのか。
蓮はこの試合に櫻が見に来ることは聞いていたが、試合に集中しており意識していなかった。
ましてやスタンドの櫻の声を聞き分けられるわけもなかった。
その声が本当に櫻の声だったのか、他人の声だったのか、蓮の頭が勝手に作り出したものだったのか未だにわからない。
しかし、現実に起こっているのは、あの事故時と同様に蓮が投げた球が亮太郎が待つホームベースの手前でバウンドをする光景であった。
バウンドした球は亮太郎は止めることができず、無常にもバックネットに向かって転がっていった。
亮太郎はキャッチャーとして出来るものは何でもやっておくという考えのもと、ホームベース付近の土の状態には気を配っており、さっき蓮に声をかけたときも土をならしながらであった。
しかし、球はありえない軌道にバウンドし、亮太郎の体の脇を抜けていった。
蓮がホームベースにカバーに入る余地もなく、走者はホームベースを駆け抜け相手チームは歓喜に沸いた。
マウンドに立ちすくむ蓮、何とかホームベース上まで戻るも崩れ落ちる亮太郎。
この時の二人に神様は大きな試練を与えたのであった。