第9話
頭の中は真っ白だった。
何が起きたのか分からない。
自分が何をしているのか分からない。
感じるのは頭上から刺すように降り注ぐ、まばゆいばかりの日の暑さ。
頭が帽子越しでも焼けそうに暑い。
亮太郎が気付いた時には学校で、安藤が三年生に最後の言葉をかけているところだった。
安藤も目を赤らめ、三年生に思いの全てを話していた。
安藤自身仕事柄なのか、話で人の心を動かすのが得意で、この場にいるほとんどの選手が涙を流していた。
二年生以下の、これから西条高校を背負って立つ立場にいる選手達は、目を赤らめながらも必死に涙をこらえていた。
そんな中、亮太郎は平然とした顔をしていた。
意識がそこに無かったのだから。
亮太郎は冷静になった頭で今日の試合を振り返っていた。
最終回に勝ち越されて自分の打席。
キャッチャーがボールを後ろに逸らし勝ち越し点を許した時から、亮太郎の意識は球場に無かったのかもしれない。
亮太郎は最後の打席、二球何でもない甘い球を見逃し追い込まれると、ピッチャーの投げ損ないの顔の高さのボール球に手を出してしまい空振り三振。
安藤の怒るでもなく、悲しむでもない表情は、亮太郎にはどんなことを思っていたのか分からなかった。
今、冷静に振り返ると、明らかに自分のことを心配するような表情であったことが分かる。
あの先頭バッターという大事な打席で、最悪の内容と最悪の結果を出してしまったのだが、そこまで心配するようなこともないのではないか。
元来亮太郎は選球眼に課題があり、今日のようなボール球に手を出すこともしばしばあった。
キャッチャーが出来ない状態であっても、レギュラー争いを他のポジションで出来る手ごたえを亮太郎も持っていたが、その選球眼という面で安藤の信頼を勝ち取れていなかった。
なので、安藤にとったら「またか」という感情で呆れたような表情になると思うのだが。
自分の異変に気付いていたのだろうか。
頭の中が真っ白だということに。
そもそも、その時に自分が何を考えていたのかさえ思い出せないのだが。
どんなに動揺していても、後にその時の感情はうっすらでも思い出せるもの。
人間に感情がない時なんて一時も無いのだから。
では、自分はそのとき何を思っていたのか。
相手バッテリーの配球のことを考えていたのか。
大事な打席だということでプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのか。
亮太郎は身体的な疲労も相まっていたため、考えるのを諦めた。
結果として今あるのは、あと一歩というところで敗れ去った西条高校という現実である。
三年生のためにもこれから自分たちがあの打倒三坂東を目指して日々鍛錬していくしかないのだ。
ミーティングが終わると安藤のスマホが鳴り出した。
ミーティング終わりの選手たちも、ちらっと安藤の方を見るも、そこまで気にするそぶりは見せず、安藤はスマホに出た。
三年生は直接個々で安藤に三年間のお礼を言おうと安藤が電話を終えるのを待っているようであったが。
電話が終わったのかと思うと神妙な面持ちで三年生ではなく亮太郎の名前を呼んだ。
部室に戻ろうとしていた二年生以下の選手達から外れて、三年生の脇を駆け足で安藤のもとに駆け寄った。
すると、安藤は亮太郎の耳元で囁いた。
「蓮君が倒れた」
いきなりのことで亮太郎は言葉を失った。
命に全く問題はないということだが、一応今検査中だということであった。
安藤が、一緒に行くからすぐに準備をしろということであったので、急いで部室に戻り、汗臭かったが、試合終わりに着替えたジャージのまま安藤と共に病院へと急いだ。
勝ち越し点を取られた際のプレー。
亮太郎自身もそこで何かがはじけたように、頭の中が真っ白になった。
もしかしたら蓮も。
自分と蓮が患っている障害のことが関わっているとすると、自分の頭が真っ白になってしまったことを考えると、症状が重い蓮の精神状態は。
亮太郎は確信していた。
蓮の中で何かが起きたのだと。
それが良いものであるか、悪いものであるか、もちろん亮太郎にも分からないが。
安藤の車の中で確認した亮太郎のスマホには、櫻から十何件もの不在着信が残っていた。
櫻の慌てようが手に取るように分かった。
蓮がどのような状態で倒れたのか。
その場でバタンと倒れたのか。
それとも蓮が体調不良を訴え、念のため病院に行ったのを倒れたと表現しているのか。
考えても後々分かることだが、亮太郎は考えずにいられなかった。
安藤が運転をする車が病院に着くと、駆け足で病院内に入っていった。
そこは、先ほどまで亮太郎達が試合をしていた球場近くにある大学病院で、様々な科があるため、すぐには蓮の容態は分からなかった。
受付で詳細を聞くと、蓮はまだ検査中で、関係者は病院内で一番広い待合室にいるという。
お礼を言いその待合室に向かうと、手術終わりだろうか、麻酔がとれていないであろう寝ている青年に同じ年くらいの女性が、その青年の手を握りながら看護婦と共に亮太郎たちとすれ違った。
するとどうしても、櫻の事故のことを思い出してしまった。
その時は蓮は倒れはしなかったのだが、記憶が一時的に飛んでしまっていた。
櫻の命が助かり泣いて喜んでいた際に蓮が亮太郎に向かって「亮、お前何で泣いてんだ?」と言った時のことは今でも覚えている。
待合室に行くと、心配そうな表情の蓮の両親と櫻、そして亮太郎の両親もいた。
亮太郎の姿を見ると櫻が泣き出し「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と抱きついてきた。
櫻の様子からすると蓮の容態が余計に心配になり、蓮の父に詳細を問うた。
やはりと言うべきか、蓮に異変が起き始めたのは、亮太郎と同様にあの最終回の勝ち越し点が三坂東に入ったプレーだという。
いつものように櫻は最前列の席に座っており、蓮もそれに倣う形で座っていた。
蓮と亮太郎の両親は西条高校の保護者席に座っていたので少し上の方であった。
蓮の両親も関係者ということで一緒の区画で観ることが出来たようだ。
真っ先に異変に気付いたのは一番近くにいた櫻で、勝ち越し点が三坂東に入って落ち込み、顔を蓮の方に向けると、顔面蒼白で震えだしている蓮がいた。
「蓮君、大丈夫?顔色悪いよ」
櫻が心配するも、蓮は答えない。
するとふっと震えが止まり「ん?何か言った?」と櫻の心配をよそに蓮は言った。
「何か言ったじゃないよ。顔色悪いよ。いきなり震えだすし」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと寒気がしただけ。風邪でも引いたかな」
みうみるうちに顔色が良くなっていったので、そこまで心配しなかった櫻であったが、試合が終わり両親と共に駐車場に向かっているときに、蓮がよろけた。
並んで歩いていた櫻に抱きつく形になり、櫻は戸惑い、暑さで頭でもおかしくなったかなと自分と蓮の両親に言っていたが、すぐに蓮の様子がおかしいと気付いた櫻達は近くに合ったベンチに蓮を連れて行った。
寝かせるも、顔色は悪くなる一方で、熱中症を疑った櫻達は救急車を呼び、球場スタッフや試合のために控えていた救護担当のスタッフが応急処置をし、蓮の両親が付き添う形で救急車に乗り込んでいった。
櫻は蓮の様子に、気が動転し泣きじゃくっていたので、櫻の両親と共に車で病院に駆け付けた。
蓮の両親が担当医に話を聞いたところ、簡単な検査では異常が見つからず、軽い熱中症ではないかということであったが、念のため他にも様々な検査をするということであった。
亮太郎は話を聞くと亮太郎の身にも何があったのかを話した。
あの勝ち越し点となったプレーの後のことについて。
誰よりも驚いていたのは亮太郎の両親であったが、安藤は納得がいったような表情で亮太郎の両親にわびた。
「正直、亮太郎君の異変に全く気付かなかったのかというとそれは少し違います。あれだけの緊張感のあるゲーム展開の中で、よもやの形で試合が動いたので、それに対する動揺かと思いました。それは亮太郎君以外の選手たちにも見えていたので特段亮太郎君の状態が異様かというとそうではなかったのですが、亮太郎君の最後の打席内容を見てこれは何か変だなという印象を持ちました。しかし、何よりもこの試合で引退する三年生の方に気が回りすぎてしまい、亮太郎君のフォローが出来ませんでした」
「そんな、そんな。監督さんである安藤さんがすべての選手をフォローするのなんて無理な話ですよ。こうやって亮太郎と共に駆け付けてくれてだけでも安藤さんのお気持ちには感謝してますよ」
亮太郎の父は安藤に深々と頭を下げた。
母も倣うように頭を下げた。
すると櫻が言った。
「お兄ちゃんも異変がってことは、野球イップスに何か関りがあるんですか?」
「櫻さんの言う通りでね、もちろんまだはっきりとは分からないが、もしかしたら櫻さんの事故がそもそもの原因かもしれないが、それよりもっと大きな原因があるのかもしれない」
すると蓮の父が安藤に「櫻ちゃんの事故以上のことが他に?」と問うた。
「出来事的には事故という大きなものであったかもしれません。しかし、人間の心というものは出来事の大小によって傷の大きさが変わるものではありません。人の記憶に残らないような些細な事でも、人生にもの凄い影響を与えるような傷になることもあるのです」
「それが蓮と亮太郎にあると」
「さきほども言いましたが、あくまでも私の考えです。もしもその通りだとすれば、二人に共通する何かであることは確実です。野球の試合での、勝ち越し点を与えたプレーで二人共に異常をきたしているのですから」
すると櫻が唐突に「あっ!」と声を上げた。
皆が「どうした?」と櫻を見つめると蓮と亮太郎が中学時代最後の大会のことを話した。
すると、亮太郎は櫻の話に皆が納得した様子で頷くと、何事か考えるような仕草をすると心の中に思っていたことを話した。
「そうだったんだ。俺、正直その時のことあまり覚えていないんだ。そういえばその試合くらいから蓮と野球の話もしなくなった。最後の大会でどのようなプレーで負けたのか、自分が思い出せないことにちょっと不安があったけどそうだったのか」
安藤は険しい表情をすると亮太郎に話した。
「もしかして、蓮君も覚えてないのではないか?」
「それは何とも。最近は野球の話はするけど、その試合の話はお互い話さないので。無意識のうちに避けていたのかもしれません。というか、蓮も思い出せないから話せないのかもしれません」
「とにかく、今は蓮君の無事と回復を待って話を聞きましょう」
皆が頷きあったとき、看護婦が蓮の両親を呼び出した。
「検査結果が出たようなので、診察室にお越しください」
と蓮の両親と診察室に入っていった。
数分後、蓮の両親は診察室から出てくると安心したような表情で皆に報告した。
「他の検査も異常がないようなので熱中症だったのではないかということでした。今後も少しでも異常があるようでしたらすぐに来てくれということでしたが」
「これでひとまずは安心ということですね」
安藤は胸をなでおろすと蓮の両親と亮太郎の両親を待合室の外に呼び出した。
「今回は大きなことにならなくてすみましたが、今後再びこのようなことが起きるとも分かりません。私も心療内科医としてこれ以上個人的にというのは限界があります。そこで私が勤めるクリニックに二人を診察に勧めてほしいのですが」
「それは、入院とかそういうこと…」
「そうではありません。二人が現在の症状を乗り越える糸口を見つけたのですから、ここからは専門的に二人と向き合っていきたいと思いまして」
「糸口とは?」
蓮の両親が問うた。
「先ほど櫻さんが仰った中学時代での決勝戦でのプレー、そして今日の勝ち越し点を献上したプレー。皆さんも分かると思いますが、そこにはキャッチャーがボールを後ろに逸らしてしまうという共通点があります。しかも、決まって終盤の一番緊迫した場面です」
一呼吸入れるとなおも続けた。
「甲子園で一発勝負の試合、三年間数えきれない程のノックを受け、送球をし、試合を重ねてきた選手たちが最後の最後で痛恨のエラーをしてしまうのを良く目にしますね」
皆安藤の問いに何度も頷いた。
「それには様々な要因があるかと思いますが、一つ言えることは、まだ選手が高校生だということです。よく言われることなのですが高校生というのは精神的に子供から大人へと成長する中で一番といっていい程不安定な時期です。その時に大きなプレッシャーを受けると精神的により追いつめられることがあります。そして三年間死ぬほど練習しており、球を投げるフォームも球を離すす位置、リリースと言うのですが、リリースも練習でも経験したことのない程狂ってしまい、大暴投やエラーということになるのです」
「では、蓮と亮太郎は常にそういう精神状態で野球と向き合っているということなのですか?」
蓮の父が表情を歪めながら問うた。
「その通りです。前にも話したので簡単にしますが、例えば、この病院内に入るだけで何かのウイルスにかかってしまうという風に思い込んでしまって、病院内に足を踏み入れることが出来なくなるといったことでしょうか。あくまで例え話ですが」
「じゃあ亮太郎がキャッチャーが出来ないのは常にピッチャーの球をパスボールすると思い込んでしまうからだと」
安藤は深く頷くと話した。
「恐らく櫻さんの球でさえもそう思ってしまうでしょう。何年も野球をしている亮太郎君からしたらそんなことになるわけもないのに」
すると亮太郎の母が訪ねた。
「では、一塁を守れるのは何故ですか。今日も見てましたが、野球のあまり分からないような私でも難しそうなチームメイトからの球を捕ってましたが」
「そこが思い込みなのです。正直、走者がいないときにパスボールしても何にもなりません。パスボールをしてそのまま点が入るなんてルールはありませんから。しかし、その走者がいない状態でもキャッチャーとして球を捕ることが出来ない。しかし、送球を逸らしたらバッター走者が次の塁へ、進んでしまう、最悪サードへ、運が悪ければホームへ帰ってしまうことも稀にあるファーストというポジションだとあれだけのプレーができる。これが典型的な亮太郎君の今の問題点です」
「では、うちの蓮は何故野球そのものを辞めてしまったのでしょうか」
「それは、これから話し合っていきますが、亮太郎君の異変を感じ取っているからでしょう」
「亮太郎の?」
「はい。おそらく蓮君自身が野球に異常な不安感を覚えているときに、亮太郎君と接することで亮太郎君も同じように悩んでしまっている。櫻さんの事故の時もそうでしたが、自分があんなボールを投げたから、亮太郎にまで嫌な思いをさせてしまっていると責任を感じすぎてしまっているのでしょう」
「それも親である私たちも話を聞いてあげた方が良いということなのでしょうか」
「いや、おそらく蓮君自身気づいていないと思います。蓮君の心の奥底に根付いているものでしょう。蓮君の場合はそこからケアしてあげないと難しいですね」
蓮と亮太郎の両親も考えてきたことだったので、理解をしていたし、今の話も理解したのだが、同時に自分たちにできることの少なさに歯がゆい思いでいた。
そんな気持ちを察してか安藤が話した。
「一番大事なのは、家族があまり特別に変わったことをしないことです。でないと、特に蓮君の場合は自分のせいで両親に迷惑をかけてしまうと余計に責任を感じてしまいます。今日も野球場に足を運んでいるということは、蓮君自身乗り越えようとしていますから、家族は見守ってあげることが大切です。そして、必ずその中でSOSのサインを蓮君が出すことがあるはずです。これは世界中どんな人でもこの年代の子たちにも共通して言えることです。親に頼らず一人前の大人になるんだという気持ちとは裏腹に精神的にバランスを崩すと、結局一番頼りになるのは家族です。教師でもなければ私のような指導者でもない、恋人がいたとしても、この年代の子達は経験があると思いますが、心の底から信頼し合っている状態でないのがほとんどです。なので最後に頼れるのは家族なのです。その時に精一杯子供をフォローしてやってください。蓮君と亮太郎君とはこれからもコミュニケーションを図っていきますが、これまでと違い、二人には精神的に大きく揺さぶらなければならないケースもあると思います。そういう時は親御さんに連絡しますので、その時はよろしくお願いします」
安藤は深々と頭を下げた。
蓮と亮太郎の両親は慌てて安藤に「こちらこそ」と頭を下げ返すのであった。




