元通り
夜が明けて、迎えた次の日。
寝起きの気分は最悪だった。いや、そもそも朝起きて気分が良かった試しなんてないのだけど。
ともかくそれを差し引いてもブルーだった。窓から夏の日差しが纏わりつくように入ってきて気持ち悪い。
だが今日も学校はある。早く用意をして行かねばならない。
半袖のシャツに袖を通し、学校へ向かう。
数十分ほど自転車をこいでも、気分は一向に晴れなかった。むしろさして風も受けれず汗をかいて余計に曇った。
サンサンと照りつけてくる太陽がただひたすらに煩わしい。地球温暖化が進行していることを如実に感じさせた。
袖を汗で濡らしながら、ようやく下駄箱までやってくる。
これだけの暑さなら、きっと教室も冷房がついているだろう。早く靴を脱いで向かって涼んだ方が良い。
「あ、落城さん。おはようございます」
ちょうど足を上靴へと履き替えられた時。徒歩通学の清咲時瀬さんが後ろの方の校門から歩いてきていた。
示し合わせたわけではなかったが、どうやら同じ時間に学校へ着いていたらしい。夏服から伸びる白い肌が眩しかった。
最近はそれなりに仲良くさせてもらってる異性の登場に、気分が少し回復する。
「おはようございます、清咲さん。暑いですね、今日も」
「ですね。こんなに暑いと、少しでも対策を怠ればすぐ熱中症に───」
話しながら清咲さんが隣に来て、そのまま並んで二年生の階まで向かう───はずだったのだが。
なぜか清咲さんは、僕と三歩ほど離れた位置で止まった。
その眉間には、美しい顔に似合わない皺が寄っている。
「……どうしましたか?」
言い知れぬ不安感に襲われながら訊いてみる。
だが清咲さんは、そんな僕の言葉など耳に入っていないカのように、ただ僕の方を見つめていた。
「なに、それ?」
正確には、僕の腕の部分を。
最初は何のことかわからなかった。だが、自分で確認してようやくわかった。
無かったのだ。
いつも付けていたはずの、袖の下の布が。青いリストバンドが。
思わず息が詰まる。
今は夏。学校は衣替えで半袖となっている時期。傷自体は塞がりかけだったから、包帯を巻くのもやめていた。
つまり今に限っては、リストバンドだけが唯一僕の肌を守る砦だった。にもかかわらず、それが無い。
なら、今手首に残っている無数のリスカ痕は、はっきりと彼女の目に───
「っ!」
慌てて手首を隠す。
だが、もうとっくに手遅れだった。
清咲さんは口許に手を当て、数歩下がった。
夏だということを忘れさせるほどに冷たい目が、真っ直ぐに僕を射貫いている。
冷汗が頬を流れる中、彼女の指の透間から見える唇が、小さく動いた。
「……キモチワルイ」
自分の叫び声で意識が覚醒した。
目が覚めて見慣れた自室の天井が見えると同時に、ひどい息苦しさに襲われる。
息を吸おうとした瞬間に、ネバついた液体が口に入り激しく咳き込んだ。顔はおろか、パジャマの下にまで汗が浮かんでいる。
当たり前か。夏場だというのに布団をしっかり被って眠っていれば───いや違う。今は冬だ。夏場なんかじゃない。熱さによるものじゃない、悪夢を見ていたからだ。
そうだ。さっきまでのは悪夢だ。夢だったんだ。
時期が夏となっていた時点で気づくべきだった。
そもそも僕は、たとえ夏場であっても、もう自室以外で半袖は着ないと決めたんじゃないか。学校にも、肌が弱いとかそれっぽいことをでっち上げて、年中長袖のカッターシャツを着こんで登校してる。
このリスカ痕が消えない限りは───
「……うぷっ」
左手首に意識を向けた瞬間、さっきの悪夢が思い出され猛烈な吐き気が来た。
胃が震え、歯の裏側まで酸っぱい液体が込み上げてくる。それをなんとか抑えて、二秒ほどかけて再び飲み込んだ。
……最悪だ。朝から喉がイガイガする。
顔を青くしながら枕の横を見ると、寝てる内に外れてしまっていたのか、いつも身に着けていたリストバンドがあった。……きっと、これが外れてしまったから妙な悪夢を見てしまったのだろう。
(……『悪夢』?)
『バラされたら実際に起きること』の間違いじゃなくてか?という心の声を無視して、僕はリストバンドを手に取った。
それを昨晩自分で巻いた不格好な包帯の上に装着し直して、リビングへと向かった。
階段の途中の窓から見えた空は、僕の気分を反映したような曇り空だった。
「……くん。落城くん!」
「うぇっ」
記憶する必要なしと判断したのか、脳がまだ働いていなかったのか。朝食を食べてから学校に着くまでの記憶がすっぽり抜け落ちていた。
気がついたときには僕は自分の机に腰を落ち着けており、目の前には度の強い眼鏡をかけた少女……都宮良子が手を差し出していた。
「……なに?」
手の意味がわからない。コンディションが最悪だったためか、喉から出た声は予定より三倍は低い声だった。
しかしそんな不機嫌そうな声音に、都宮さんは更に不機嫌そうに答える。
「……課題の回収だよ。落城くんも早くノート出して」
言われて初めて、彼女の片手に色とりどりのノートが積まれているのに気づいた。
……そうだ。確か今日は朝のうちに『歴史』のノート提出があったのだった。授業はサボらざるをえない状況になることが多いし写させてもらえる相手もいないしで、ノートへの板書はひどく寂しいものになってしまってる。一応サボった回の分は『自習』として自分である程度まとめてはいるが……担当教師がそれをどこまで汲み取ってくれるかは不明だ。
傍らにあったカバンを漁り、紛失やらページの著しい減少やらで早四代目となった歴史用ノートを取り出す。名前が書かれているか確認してから、彼女に手渡そうとしたが───
「…………っ」
左手で持っていたせいだろうか。
不意に左手首に痛みが走り、僕はノートを落としてしまった。思わず顔を歪めてしまう。
だが、都宮さんは気にすることなく、無言でノートを拾い去ってしまった。
……この場合、手首の異変について触れるのと触れないのでは、はたしてどちらが温情ある対応と言えるのだろうか。
そんなことを思いながら、僕は一時間目の用意を始めた。
チキチキチキ
瞬間、背後からカッターナイフの刃を出す音がした。
鼓膜に届いた音に、僕は反射的に飛び上がった。だが突然のことで回路が上手く繋がらなかったのか、足が絡まってしまい僕は椅子ごと倒れるような格好になってしまう。
教室に大きな音が響き、何人かのクラスメイトがこちらを向いた。
打ち付けた肩の痛みに耐えながら音の方を見ると、やはりそこには戸塚が立っていた。
「おいおい大丈夫かよ?ったくらくじょーはおっちょこちょいだなぁ」
最低限クラスの人間の目も気にしているのか、わざとらしい口調で言う。
そんな彼の制服のポケットは左側が少し膨らんでいた。おそらく、あの中にカッターナイフが入っていたのだろう。
体の震えをおさえながら推測する僕に、
「ほら、立てるか?」
戸塚が手を差し伸べてきた。
……手を取るべきかどうか逡巡していると、彼は僕の手を掴んで強引に引っ張り上げた。それも、左腕の方を。
「っ!」
ギギッ、という音がした気さえした。少しサイズが小さい服を着ようとして破れた時のような音。
リストバンドの下のあたりに、熱が発生し始める。ズキズキ、ジクジクと痛み出す。
引っ張りあげられた僕が席に戻った───いや、左手を痛めているのを見て、戸塚は口の端を吊り上げた。
「……さすがに昨日の今日じゃ、まだ忘れてねぇみたいだな。その痛みをちゃんと覚えとけよ?」
僕にだけ見える位置で、ポケットからカッターナイフの刃をちらつかせる。
鈍い輝きに体の底が震え、僕は頷くことしかできなかった。
「あー!飯が旨い!」
四時限が終わり、二年一組に昼休みが訪れる。その教室のど真ん中で、今宮は大口を開けて焼きそばパンを食べていた。
「やっぱ調子に乗ったヤツをわからせて、そいつの金で食う昼飯は最高だな」
「だな」
カツサンドをかじりながら本山が答える。
今宮と本山と戸塚と、そしてもう一人と。四人分の机を繋げて一つにした机の上には、四人分にしては多い量のパンがあった。
「戸塚がアレちらつかせたときの落城の顔見たか!? アイツほんとっ、すっかり縮こまりやがってさぁ……ようやくらしくなってきたよなぁ!」
「……気持ちはわかるが、声でけぇぞ」
周りを見渡してから注意する本山。一応「カッターナイフ」ということをボカして言うあたり、今宮も最低限気を付けてはいるようだが、それでも不用心に思える。現代はどこに耳があるかわからないというのに。
もっとも、これほど堂々と他人を貶めた話をしているにも関わらず、クラスメイトは皆うるさそうに眉を潜めながらも自分達のグループの会話に戻っているあたり、いらぬ心配だったが。
「ほんとさぁ、俺らに逆らおうとするからこうなるんだよ。なぁ、戸塚も───」
今宮が掛けようとした言葉は、戸塚のコーラのペットボトルを置く音で遮られた。
「確かに」
今宮の言葉への同意というよりは、自分の言葉への導入というような言い方だった。
「あの『躾』で多少の溜飲は下がった。だが、完全にスカッとした訳じゃあねぇんだよなぁ」
徐々に低くなっていく声。
本山の眉がピクリと動き、今宮の(タレーラン3巻犯人の描写)表情がパァッと明るくなった。
遊びの時間が延長された子供のように。
「……てことは、まだ『粛正』は続けるのか?」
「マジで!?次は何するんだ?……あ、もしかして昨日戸塚が撮ったアイツの写真、ついにSNSに投げとくか?」
「それはまだしねぇよ」
ゲップ混じりに言う戸塚。
「なんで?」
「一番面白くなりそうな遊びは一番最後まで残しとくんだよ。まだ楽しむ余地があんのに、追い詰めすぎて壊れたらつまんねぇし。それに、いざというときの脅しにもなるしな」
「……ま、アイツみたいなタイプは、妙に理性が働いて結局壊れきることもできない奴だとは思うがな」
二個目のカツサンドに手を伸ばしながら本山が言う。
「……でも、実際どうするんだ?」
「それを今から考えるんじゃねぇか。なんか面白そうな案出してみろよ。ほら、お前らも───」
「面白そうなこと、ねぇ?」
戸塚の声が、また違う者の声で遮られた。声がした方向に彼らは顔を向ける。
声の主は、今宮でも本山でもなかった。
先程からスマホばかり操作していた、このグループでは紅一点にあたる四人目の人物だった。
髪の毛をポニーテールにしており、一応スカートを履いているというのに長い足を組んで椅子に座っている。顔のパーツの一つ一つは整っているようだが、頬の上にある目は細く、自然に他人を見下しているような印象を与えられた。
だがあくまでもその「見下し」の対象に三人は入っていないのか、ポニーテールの女子は彼らへ自然にスマホを見せる。
「適当なメッセージでアイツを呼び寄せてさ、そこでこんな風なシチュエーションを作ってやるってのは?」
彼らは一斉に画面を覗き込んだ。
動くものを見る猫のように、黒い目が右から左へと動いていく。
「セッティング自体は私も協力できるからさ、意外と難しいことではないと思うけど」
彼らが内容を理解していくのに合わせ女も補足していく。
数十秒ほど経ち、やがて彼女が提示した案を把握すると───戸塚は口許を引き裂くようにして笑った。
「いいなぁ、それ。採用」
ポニーテールの女子も、またニヤリとした。
改めてリスカ痕を付けられた日から三日が過ぎた。
景色や物事というのはその時の精神状態によって見え方が異なるという。
あれから僕の目に映る景色は急速に色褪せていた。
なにもかもがモノクロと化している。太陽ですら、ただの黒い丸にしか見えなかった。
そんな中で。
他人の瞳だけが、不気味に輝いていた。
通り過ぎる人、後ろにいる人、側で会話をしている人。
その全ての人の瞳が、血のような赤に見える。その瞳から赤外線レーザーのようなものが出て、リストバンドを着けている左腕を照らしているようにさえ思えた。
改めて自分の穢れを自覚させられたような気分だった。
今まで意図して気にしないようにしていたことが、否応なしに意識に上ってくる。
ハッキリ言って、この三日で数回ほど学校の中で吐きそうになった。
自室で確認したとこ戸塚に引っ張られた手首の傷はやはり開いてしまっており、包帯に血が滲んでいた。風呂に入ったら、きっと染みるだろう
……このリスカ痕だけは、知られたくない。
もしも知られてしまって、第三者から気持ち悪いものを見る目だかを向けられたら。心の奥底でまだ辛うじて残っているプライドなどが、完全に壊れてしまうような気がしたから。
だから、絶対に知られたくなかった。
……特に、清咲には。
彼女にだけは、バレるわけにはいかない。
『すいません清咲さん。今日も急用ができてしまいましたので、昼食と帰宅は別々にさせてください』
予測変換で出るようになった文字列をNINEに打ち込んでいく。
この三日間、密かな楽しみとなっていた清咲さんとの時間を初めてドタキャンしていた。
文面を考える余裕はなかったが、それでも最低限の推敲はしてから文章を送る。
送った後に既読がつき数分後にスマホが微かに振動したが、僕は全て無視してスマホをポケットに仕舞い込んだ。
せめて、またこのリスカ痕を考えないようにできる日まで、清咲さんとは会いたくなかった。
彼女のあの綺麗な瞳を監視の目のように思いたくは無かった。それにこないだの殴られた痕に気づきかけたことといい、彼女は意外と勘が良い節がある。今の僕の態度から、万が一にも悟られるわけにはいかなかった。
『……キモチワルイ』
もし、あの夢のような出来事が現実に起きてしまったら。
……僕はどうなってしまうかわからない。
『その傷がある限り、お前は一生誰からも愛されない。いくら親しくなろうが、その傷がバレれば全員離れていく。いいか?もうお前は真っ当な関係を築くことなんかできないんだよ。仮にこのことを隠して築けたとしても、それは俺がNINEの前で動かす指一つで簡単に壊れる関係なわけだ』
脳裏に戸塚の言葉が蘇ってくる。
ああ。
……本当にその通りだ。
この傷がある限り、僕が一生怯えなければならない。
「……なんでなんだよ」
なんで。
自分でつけた傷ならまだしも、他人がつけた傷で怯えなくてはならないのだろう。
カタカナにしか聞こえなかった英語の授業が終わって、休み時間となっていた時。
イヤフォンから流していた音楽とは違う振動が私の体に伝わった。
耳元に響く音はそのままにスマホを取り出す。
振動の正体はNINEの受信音……。
メッセージの相手は……落城淘辞。
「…………」
イヤフォンを外す。
特に意味があるわけではないが、一応周囲に人がいないか確認してから、私は最近新たな付き合いが構築されている彼のNINEを開いた。
『すいません清咲さん。今日も急用ができてしまいましたので、今昼食と帰宅は別々にさせてください』
『トーク』部分の一番上にあった名前をタップして、目に飛び込んできた文章。
……それは、三日前から連続して送られてきているものだった。
「……今日も、ですか」
『わかりました』とゆっくり文字を打っていく。弟なら……というか最近の学生なら五秒で打てるのだろうが、私の場合はこの六文字の言葉にも時間がかかってしまう。
「……さ、い、きん……お、い、そ、が、しい、み、たい、で、す、ね。……お、つか、れ、さま、で……いや……がん、ばって、くだ、さい……とっ」
推敲したり『た』を間違えて五回打ったりしてしまいながらようやく送信。……少し待ちましたが既読はつきませんでした。
「…………」
椅子に背をつける。
……立てていた予定の、昼休みの部分にぽっかりと穴が空いてしまいました。今日で三回目です。
……別に、落城さんとお昼を共にした回数なんて数えるほどしかありませんので、『習慣』とするにはあまりに浅いのですが。
なんとなくウマが合うように(少なくとも私は)思っていた落城さんとの時間は、一人で過ごす時間よりはずっと有意義だと思っていました。
「…………」
一体どんな『急用』があるのか。
……確か落城さんは、部活や委員会には入っていなかったような。……いえ、それとも私が知らないだけで入っているのでしょうか。
脳裏に落城さんの顔が浮かぶ。いつも困ったような顔をして、頼り無さそうな、気弱そうな人。
水族館で口を滑らせてしまった、私の先端恐怖症のことを、ちゃんと黙ってくれている人。
「…………」
窓の先に広がる運動場を見下ろしながら、私はイヤフォンを着け直そうとして───やっぱりやめた。




