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教室の隅のヒペリカム  作者: 滋賀ヒロアキ
12/13

夜郎自大

 その後、一時間目はそのままサボり、二時間目になるギリギリに教室に入った。

 当たり前のように二時限目から来た僕にクラスメイトは一瞬ギョッとしたような目を向けたが、かかわりたくないのかすぐに自分の作業に戻った。

 僕の姿を捉えるなり教室の一角を占領していた戸塚グループがズンズンと近づいてきた。さっきの今なので少し恐怖を感じたが、その瞬間に授業開始のチャイムが鳴る。その瞬間にため息をつきながら教師がやってきた。

 さすがに教師が来ては手の打ちようがなく、顔を歪ませ舌打ち混じりに席へ戻っていく彼らに、僕は一安心した。

 最も、それを狙っていたのだが。



 三、四時間目は移動教室だ。そして戸塚グループは移動中に間違いなく僕に絡んでくるだろう。

 一緒に移動できるようなクラスメイトはいない。いたとしても、傍観者の立ち位置を崩したくない彼らでは肉壁にもならないだろう。

 なので僕は、二時間目終了と同時に四時間目の分の教科書も持って爆速で教室を出てトイレの個室に籠った。そこから休み時間終了の三分前に再び爆速で移動先の教室へ向かうようにすることで、道中戸塚グループに絡まれることを回避した。

 ……授業中、背中に刺さる彼らの会話と視線が痛かった。





「あ、落城さん」


 三時間目が終わって再びトイレに籠り、そろそろ四時間目の教室へと向かおうとしていたとき。

 同じく移動中だったのか、廊下で清咲さんとばったり会った。


「清咲さん、おはようございます……て、もう『こんにちは』でしょうか?」


「微妙なところですが……とりあえずおはようございます」


 今日もサラサラの髪とキメ細かな肌が綺麗である。

 あの水族館から一晩挟んだだけなのに、なんだか随分久しぶりに会ったような気がした。


「落城さんも、移動教室なんですか?」


「は、はい。生物の実験があるんで、第二実験室に。清咲さんは?」


「私は英語の授業です」


 そう言って清咲さんは手元の英語の教科書を見せた。


「英語ですか……大変ですね」


「はい……というか落城さん、もう休み時間終了まであまり時間ありませんけど、まだこんな所にいていいんですか?」


「そ、それは……き、清咲さんこそ大丈夫なんですか?」


「私はもうそこですので」


「なんと!?く、くぅ……」


「私の勝ちですね」


 どう勝負が行われたのかは不明だが、清咲さんの勝ちらしい。

 そんな普通の会話をし、クスクスと笑う彼女の顔を見ていると、不意に僕の胸内に……安心感のような、報われたような気持ちが湧いてきた。

 戸塚にあれだけ責められてでも、言わなくてよかったと心から思った。

 もし口を割ってしまっていたら、今清咲さんの顔を見るだけでも、きっと罪悪感がこみ上げてきていただろうから。


 この表情を守れたのなら、今綺麗な気持ちで彼女と向かい合えているのなら、僕の頬も殴られた甲斐があったというものだ。

 場所が場所なら頷きながら自画自賛していたかもしれない。

 その思考をキャッチされたのだろうか。

 清咲さんは不思議そうな顔をすると、唐突に半歩ほど距離を詰めてきた。


「落城さん、その頬どうしたんですか?腫れているっぽいですけど」


 僕の頬を指しての彼女の言葉に、心臓が跳ね上がったかと思った。

 慌てて僕は頬の腫れを隠しながら半歩下がる。


「あ、朝にちょっとボールをぶつけられて……なんともありませんよ、はい」


「はぁ……」


 少しでも動揺したのがいけなかったのだろうか。清咲さんはどこか附に落ちていないような表情のまま僕の頬を見つめている。


「っ、それじゃあ僕、もう移動しなきゃなので」


 いつもは美しいと感じる瞳がこの時ばかりは不味く感じ、僕は教科書を持ち直して背を向ける。

 実際問題、時間も不味い。清咲さんと話したことで、予定よりも時間が過ぎてしまった。ギリギリに着くことを目指して時間調節をしていたのに、それで遅れたらただのバカだ。

 僕は一礼して急いで去ろうとした。


「あっ、落城さん!」


 だが、背中に清咲さんの声がかかる。

 足を止めるか聞こえなかったフリするか悩み、結局足を止めた。

 振り返ると、清咲さんは薄く笑って言った。


「今日のお昼、よければご一緒しませんか?」


 思案する暇がなかったというのもあったけど。

 断る理由はなかった。






 クラスへ戻ると、僕の学生カバンのチャックが何故か開けられており、近くにボロボロになった財布といくつかの教科書が転がっていた。

 大方戸塚グループの憂さ晴らしによるものだろう。

 だが、僕は自分でも驚くほどそれらに淡々と対応していた。

 スマホは僕のポケットにある。教科書は最低限『教科書』の外観を保っていれば、いくら破られようと構わない(授業でも広げるだけでどうせ読まないからだ)。ゴミ箱に捨ててあれば拾うだけ。財布に補充されたばかりだった金も、どうせ直近で金を払う用事はない。困ることはなかった。

 対応を済ませると、僕は予め買っておいた昼飯を持ってさっさと教室を出た。





 ご飯自体は、水族館でも清咲さんと一緒に摂ったことがあった。食べるのが遅いタイプらしく、ちまちまとホットドックを食べていく彼女を見て密かに癒されたものだ。

 だからか、こうして学食で一緒に食べていてもも、不思議とそこまで緊張はしなかった。


「……うどん派なんですね」


 口の中の焼きそばパンをちゃんと飲み込んでから尋ねる。


「はい……まぁ、猫舌なんですけどね」


「へぇ、そうなんですか?」


 友達の友達などにいると聞いたことはあったが、実際に見たのは初めてかもしれない。

 物珍しさと、彼女の新たな一面を知れたことによる嬉しさが同居していた。

 ……もっと、彼女のことが知りたい。


「猫舌なのに、うどんが好きなんですか?」


 多くの猫舌がそうであるように彼女も麺が啜れないらしく、不器用に食べてすぐ水を飲んだ。


「はい……うどんは消化に良いですし、なにより美味しいですから……。落城さんだって、頭にキーンと来ますけど冷たいアイスは好きでしょう?」


「……なるほど」


 頷きながら僕は焼きそばパンをもう一口。「です」と頷きながら清咲さんは切った麺をもう一度掴み上げた。

 猫舌の人の……いや、清咲さんの気持ちが、新しく理解できた気がする。


「水、ついでにいれてきますよ」


「えっ?いえ、大丈夫ですよ落城さん」


「もうそんなに減ってるのに、麺は半分以上残ってるじゃないですか」


「……すいません、それではお願いします……」


「はい」


 軽く笑い合う。

 ここまでの時間は、ひどく充実していた。






 そして、あっという間に放課後になる。

 僕の気分は、いつになく踊っていた。

 もしかしたら清咲さんと一緒に帰れるかもしれない。もしかしたら彼女の方は放課後予定があるかもだし、なによりまだそこまでは仲良くなれていないかもしれない。

 だけど、『もしかしたらそうなるかもしれない』というだけで心は勝手に盛り上がり始める。なんと単純なことか。

 廊下の方へ目を向けると、解放されたらしき隣のクラス群の生徒たちが下駄箱や部活場に歩いて行っている。

 もしかしたらあの中に清咲さんもいるかもしれない。

 僕は机を立ち、急いで廊下に出た。

 次の瞬間、僕の視界は闇に包まれた。


 ……いや、その表現は適切ではないか。

 正確には廊下に出た瞬間、横から伸びてきた戸塚の腕が僕の顔を掴み壁に押し付けたのだ。

 ゴン、とそれなりに顔に衝撃が走ったし、それなりに音もした。

 だが今宮や本山が上手く壁になっているというのもあり、通りすぎる生徒はおろか教師さえも僕らに声をかけることはない。

 今この空間にいるのは、完全に僕ら四人だけだ。


「……覚えとけ、つってたよな?」


 怒りを吐き出す、というよりは滲ませているような声音だった。腹に響くタイプの声。

 そうだ。考えてみれば当然だった。


 中学の頃から、約五年にわたって僕をいじめ続けていた戸塚が。ちょっと反抗された程度で、引き下がるわけがなかった。


「来い。黙ってな」


 頷かなければ、本気で殺されると思った。







 処刑台へ歩かされる罪人のような気分で戸塚の後についていく。

 やってきたのは、いつもの校舎裏ではなかった。むしろ校舎裏からは反対方向に位置する場所。

 皆様の学校にも一ヶ所はなかっただろうか。運動場の外れなどにある、小さなトイレが。

 大抵は明らかに不衛生とわかるほど小汚なく、所によっては雑草が生えていたりして、『誰がいつ使ってるんだよ』『これ使うぐらいなら校舎のトイレまで我慢するわ』と思われるような、誰も近づこうとしない不人気な場所。

 この暗寧高校にも、そのようなトイレがあった。

 そしてその個室に、僕は押し込まれていた。


「うえぇくっせ。剣道部が使ってる武道場以上にくせぇな」


 臭いを払うように手を振る戸塚。今宮も同様に顔をしかめている。


「やることやったらさっさと出ていきてぇな」


「まぁ、そのやることがタノシイんじゃねぇか今宮」


 言いながら、僕に向けて腕を突き出した。

 体が押され、個室の壁に背中をうちつける。個室は開け放たれ、扉の代わりに戸塚と今宮が二をするように立っている。トイレの臭いも相まって、息苦しいどころじゃなかった。


「戸塚ー」


 鼻呼吸を抑えようとしていると、新たに本山が個室の前にやって来る。


「どうだった?」


「オーケーオーケー。周りには人の気配なし。今日は野球部もサッカー部も休みだし、わざわざこのトイレに近づいてくる奴はいねぇだろうよ」


「完璧だな。ま、だからここを選んだんだが」


 袋のネズミ。そんな言葉が脳裏をよぎる。

 どれだけ助けを求めようが誰も来ない。その事実を認識すると、さすがに頬を汗が伝った。


「コイツの方はどうよ?」


「ボイスレコーダーもカメラもなーし!これで心置きなく粛清できるな!」


 移動中に僕のポケットなどを念入りに探っていた今宮が答えた。その顔は待ちきれない快感に震えている。

 戸塚も同様だ。同様の顔のまま、僕へ詰め寄る。


「……話さないよ」


 殴られる前に、僕は先手を打っておくことにした。


「あ?」


「……朝のこと。今からどれだけ殴られようと、清咲さんのことは僕は話さない」


 それは、僕なりのせめてもの抵抗だった。

 戸塚が今いちばんイラついてるのは、言うまでもなく朝に清咲さんのことを僕から聞き出そうとして反抗されたことだろう。だから今、対戦ゲームで負けた相手に復讐するように、僕をここに呼びつけたんだ。

 さっきはできなかったことを、今度は完璧に完膚なきまでに叩きのめして達成する。プライドを回復させるに、これほど有効な手段はないだろう。

 だからせめて、それだけは絶対達成できないのだと先に伝えておく。……無いとは思うが、そうしたら戸塚は聞き出すのを諦めてくれるかもしれないし。


「どのみち殴られるのは慣れてるし。約束したんだから、僕から聞き出すのは───」


「ああ、ちげーよ」


 言葉とほぼ同時に、戸塚の膝蹴りが服の上から腹にめり込んだ。

 急すぎた一撃に胃液が吐き出され、激しく咳き込んでしまう。


「今は清咲のことなんかどうでもいい。お前は微妙に勘違いしてんだよ。言ったろ?これは『粛清』なんだ。『清咲の情報を渡さなかったこと』じゃなくて、『俺に反抗しやがったこと』への、お前へのな」


「…………」


「だから、お前の意思なんか今は関係ねぇんだよ。俺が満足したかどうか、ただそれだけ」


 ……どうやら、僕を痛め付けること自体が目的らしい。

 まぁ、それぐらいなら覚悟はしていたことだ。また骨を折られることになるかもしれないが、打撲とかの外傷系は待っていれば自然と治る。

 今を死ぬ気で耐えれば、それで終われるだろう。


 そう思い、僕はこれから来る衝撃に備えて目を閉じた。

 だから、戸塚の視線がどこに向いていたかに気づけなかった。


「それじゃ、やるかぁ」


 戸塚は、僕の左手首を思い切り掴んだ。

 瞬間、尻尾を掴まれたように全身の毛が逆立った。

 頭が真っ白になる。


「離してっ!」


 反射的に僕は左手を振り回して叫んでいた。

 しかし、僕よりも大柄な戸塚の手は振り払えない。


「暴れんなクソが。お前ら抑えてろ」


 舌打ちして戸塚が指示を出した瞬間、再び体に蹴りが入った。みぞおちに正確に当たったらしく、さっきよりも強く咳き込み全身から力が抜ける。

 片膝を付きながら顔を上げると、サッカー部の本山の長い足が伸びていた。


「はぁーい、大人しくしようねー」


 その間に今宮が戸塚と反対側に回る。歯科医のように言いながら僕の右腕を素早く抑えると、ついでというように側頭部を殴りつけた。

 直接耳に振動が響き、聴覚の半分が止まった。

 元々体格に優れてるわけでもなかった僕は、それだけでノックアウトしてしまう。


「お疲れ」


 僕に向けたものか今宮たちに向けたものか判断する余力もないまま、曲げた膝の上にそのまま戸塚の足を乗せられる。

 そうして僕はフィクションの囚人のような、膝をついたまま両腕を上げられるという間抜けな格好になった。


「……ここまで過剰反応するってことは、一応体は忘れてなかったみてぇだなぁ。頭の方は忘れてたっぽいが」


 嘲笑混じりに、戸塚は左腕の袖をワイシャツごと掴んだ。

 いつの間にか、僕の腕と歯はカタカタと震えていた。


「『(しつけ)』ってのは、教えて終わりじゃないんだよなぁ。教え続けて、守らせ続けなくちゃならない。じゃないと、いつしか躾を忘れて意気がっちまう。『自分が人並の存在なんじゃないか』だなんて、思い込んじまう」


 バッと袖が捲られ、素肌が露になる。

 僕の左手首の部分には、青色のリストバンドが着けられていた。


「こんなの毎日着けてた癖に忘れるなんてなぁ。最後にやったのは確か……一ヶ月ほど前か。その期間ならまぁ確かに、お前がコレのことを忘れて俺を嘗めるようにもなるか。俺の甘さが招いちまった結果かぁ、悲しいぜ」


 そう言いながら、戸塚はリストバンドをゆっくりと取った。








 ツー、と音がする。

 線でも引くような気軽さで、僕の皮膚を冷たいものが走る。遅れて焼けるような痛みがやってきた。

 皮膚に引かれたのは、黒い線でも無ければ白い線でもない。赤い線だ。

 初めは細かった線は次第に開いていき、中から黒みがかった塊を産み落としていく。

 塊は少し経つと小さく弾け、液体となって肌を流れた。


「ははっ。いつ見てもきたねー」


 蝶のサナギを分解する最中のように戸塚が言った。

 次から次へ出てくる赤黒い液体は、手首の裏側まで伝い、ポタリと便器の水の中へ落ちる。

 その様をじっくり見るためか、戸塚は一旦肌の上に走らせていた銀色の物……カッターナイフの動きを止めた。プラスチック部分からはみ出した刃には、僕の手首から流れている液体と同じ色が付着していた。

 ……なんだか、頭が上手く回らない。

 カッターナイフから視線を外すと、投げ捨てられたのか、トイレの扉の前に青色のリストバンドが転がってるのが見えた。


(……なんで、あんなとこにあるんだろう)


 少し考え、ついさっき無理やり外されたばかりの僕の物だったと思い直す。

 誰にも言っていない。親にすら言ってない。

 アクセサリーなんかじゃなかった。いつも長袖の下に、更に隠すように着けていた。

 もっと隠したいものがあったから。長袖だけじゃ、不安だったから。

 ポタ、と雫が垂れた。


「さ、どんな気分だ?」


 濁った言葉が、そのまま傷口に染み込んでいく。


「リスカした気分は」



 僕の手首から、赤黒い血液が垂れた。







 万引きしてみろよ、と言われた。

 二年生になってすぐの頃だった。

 哀れにも今年も戸塚たちと同じクラスになった僕は、彼らに連れられる形で学校近くのコンビニへやってきていた。

 そこで、それまで逃げないよう僕の襟を掴んでいた戸塚が言ったのだ。


『……え』


 思わず聞き返すのだが、彼はニタニタと笑っている。


『だから、万引き。ガキでも知ってるし、ガキでもできる簡単な遊びだぞ?』


『……なんで、僕がそんなこと』


『度胸試しだよ、おめーの。』


『…………』


『それにさぁお前、今金ねーんだろ?なのに、一本しかない赤ペン失くしちまったんだよな。だから早く買い足しときたいだろ?でも金が無いんもんなぁー。じゃあ、やることは一つだよな?』


 赤ペンなんか家に予備があるし、そもそも金が無いのもペンを失くしたのも誰のせいだと思っているんだ。

 そんな反論を吐き出す暇もなく、僕はコンビニの中へと押し込まれた。


 やってみないとわからないと思うが、万引きはいざやろうとすると非常に勇気がいる。少なくとも、最初の第一歩を踏み出すのには。

「いらっしゃいませ」と気だるげな青年がこちらを向いて挨拶した。そんな青年の視線すらまるでレーザーポインタのように感じられてしまうのだ。


 結局、万引きはしなかった。

 もしバレたらと怖かったのもそうだし、よしんば上手く行ってしまったとしても、今度はその『万引きをした』という十字架を一生背負っていかなければいけなくなる。

 そんな十字架に比べれば───そうだ、この時も朝と似たようなことを考えたんだ───まだ戸塚の暴力の方がマシ。一生消えない罪よりも時間経過で消える傷だ。

 手ぶらで出てきた僕を、戸塚は当然ぶん殴った。倒れかけた僕を襟を掴んで引っ張りあげるので、首まで絞まりかけた。

 だがそんなの知ったこっちゃなく、オモシロイものが見られなかったのがよほど腹に据えかねたのか、戸塚は続けて僕を殴ろうとして───


『……あっ。イイこと思いついた』


 瀕死のカエルを前にした小学生のような顔をした。

 ここまでのやり取りに、店の中から様子を見ていた青年がギョッとしていたので、戸塚は近くの公園へと移動した。

 子供が遊んでいないのを確認してから、バッグを外に置いてゾロゾロと公園のトイレに入っていく。

 そして、戸塚は自分の筆箱からカッターナイフを取り出した。



『いいか?これは躾なんだよ。言うこと聞かない子供を叩くように、思い通りに動かない馬に鞭打つのと一緒だ。』



 チキチキと鳴らしながら、戸塚は怯える僕の手首にカッターの刃を当てた。

 肌に当たる冷たい感触と、切られれば今後確実に残るであろう傷が付くということに、脳の回路は一気にパニックに陥った。

 たぶん、今改めて『万引きするか、戸塚の暴力か』という二択を突きつけられたら、僕は半狂乱で万引きの方を選んでいたかもしれない。

 だが僕が命乞いをするよりも早く、戸塚は指に力を込めた。


『いっぺん見てみたかったんだよなぁ。マジのリスカ痕。他にも、リスカしたらどんな風になんのかとか。ネットで調べたら画像は出てくっけど、やっぱ実物で見るのが一番だと思うわけよ』


 仮にも他人の肌にもかかわらず、戸塚は躊躇なくカッターを走らせた。

 ビィ、と音がした。

 皮膚に赤い切り込みが入る。

 遅れて、血管そのものに響くような鋭い痛みと熱が手首から発生した。そうして手首から、染み込むようにジワジワと血が出始めた。

 顔を歪め悲鳴を上げそうになったが、今宮に口許を覆われて空気が吸えない。


『へぇ。リスカって意外と血出ねぇのな』


『切り方が浅いんじゃないか?』


『あぁ、そういう?』


 本山と話しながら、戸塚はニンジンをピーラーで切るような気軽さで二本目の切り込みを入れた。


『いっ……!!』


 さっきよりも倍近い痛みが来て、獣のような唸り声がもれた。

 と同時に、奴らからも歓声に似た声が上がる。


『ははっ、すげぇ。結構血が出てきてんじゃん。俺の切り方がよかったか』


『もっと噴水みてーに血が出るかと思ってたけど、出る量は案外控えめなんだな』


『アニメの見すぎだろ。現実はこんなもんだ。実際リスカで死ぬのは難しいらしい。だから皆気軽にできんのさ』


 本山の解説を聞きながら、戸塚はカッターをポケットにしまった。

 そして掴んでいる僕の手首を強く握った。圧迫された手首は、傷口から更に血を吐き出す、


『ははっ、生で見るとキモいし汚いなこれ』


 手首に刻まれた赤線に嗤いながら、戸塚は俯いている僕の頭を無理やり上げさせた。


『ほら、どうだ?』


 傷口を見せられる。赤黒い液体が肌を流れていた。

 自分の体のことなのに、ひどく遠く思えた。


『精神的に追い詰められてる奴って、こんなことして気持ち良くなるらしいぜ。俺、不思議でたまんねぇんだよ。だって、常識的に考えて手首なんか切って何が変わるんだっての。だから、ほら、後学のためにも教えてくれよ。今手首切って、どんな気分だ?』


『…………』


『おら、何黙ってんだ。なんかあるだろ。早く言え』


 カッターの尻で頭を小突かれる。

 だが、なんの感想もないので僕は答えようがなかった。「痛い」という気持ちしか湧かなかった。

 ただ、この場は無理やりにでも何かを言わなきゃ追加で切られそうだったから、僕は「まだよくはわからないけど」と前置きし、


『流れてる血を見てると……なんとなく変な感じは、する。カサブタを剥がしたときの痛気持ち良さのような、なんとも言えない感じ』


 確かに微かな快感は無くはなかった……気がする。けどそれはおそらく、先入観によるプラシーボ効果だっただろう。

 リスカの快感なんて、本気でリスカするほど追い詰められてる人にしかわからない。

 だがそんなにわかな僕の感想でも、三人はお気に召したらしい。


『はっはははは!!なんだよそれ!?やっぱ意味わかんねぇなぁ、傷つけて気持ち良くなるとか!』


 ひとしきり嗤うと満足したのか、戸塚は血が付着するのも構わず僕の袖を元に戻した。


『なら、らくじょーもお気に召したようだし、コイツはこれからも続けるか。いいか?これは躾、罰だからな?今後、お前の俺への忠誠が足りないと判断したり、過度に俺に反抗するようなことがあれば、このリスカの刑な』


 首だけで、戸塚は二人に僕の体を離すよう指示を出した。力なく僕は臭い個室の中に座り込む。


『……ちなみにその傷、周りに相談するのはやめた方が良いと思うぜ。現代はすぐ「手首切る!」とか言い出す輩が多いから、ある意味リスカなんて皆飽き飽きしてるからな。関わりたくない奴扱いされて終わりだろうぜ』


 ……確かにその通りだろうな、と思った。

 だがそれは周りがリスカに不理解だからではない。皮肉にもリスカが結構メジャーになり、話題に出ることが多くなったからだろうと思えた。


『ま、今のリスカはらくじょーも気持ち良かったみたいだし、ウィンウィンってヤツだから良いよな』


 その言葉を最後に、戸塚たちは去って行った。


 こうして、始めての強制リスカは幕を閉じた。


 その後はお風呂で染みたり、絆創膏をどう貼れば良いのかわからなかったり、薬を塗っても痕が消えなかったりで散々だった。

 その間にも、この強制リスカは『躾』として何度か繰り返された。ようやく消える兆しが見え出した傷の上から、更に赤線を引かれた。

 強制リスカが三回目になったあたりで、僕はリストバンドを着けるようになった。


 そうして月日が過ぎると、いつの間にか僕の左手首は本当にリスカをしている人と遜色ないほどの傷が付いていた。

 それ以来、僕はこの左手首の部分は誰にも見せていない。









 忘れていたわけじゃない。

 考えないようにしていた。

 考えたら、押し潰されそうだったから。


「っ」


 痛みを通じて意識が戻る。

 目を開けて飛び込んできたのは、あの日とは違うトイレ。そして、あの日と同じようにカッターナイフを握る戸塚。


「おいおい、寝てんじゃねーよ。躾の最中によー」


 ボヤくように言いながら、カッターナイフが突き立てられる。

 電撃のような刺激が全身を走った。悲鳴の代わりのように、切り込みから血液が排出される。

 それを見ていると、ふと今宮がしみじみとしたように、


「しっかし改めて見ると、結構切ったんだなぁ。知らねぇ奴が見たら、もうマジモンのメンヘラて思うんじゃねぇの?」


 いつの間にか、手首は真っ赤に染まっていた。

 治る兆候が見えていた古い傷まで、新しい切り傷に引っ張られる形で再び開いている。


「確かに。……なんつーか、細かく傷が入ってるから定規の目盛り部分みたいになってんな」


「本山、お前妙に可愛い喩えするな」


 今宮と本山が話す隣で、戸塚はようやく僕の手を解放し、カッターナイフをポケットにしまった。代わりに、そこからスマホを取り出した。

 反応する間もなく、カメラを起動すると手首に近づけてシャッターを切る。


「ほら、ピースでもしてみろよ。らくじょーの大事な成長日記なんだから」


 スマホのレンズが光り、再びシャッターの音。

 自宅のペットの写真を見せるような気軽さで、戸塚はリスカ痕を納めた写真を僕に見せた。

 黒目だけを上に動かして確認する。……それは、とてもグロテスクだったというか、画像検索で不意に出てくると顔をしかめてしまうタイプの光景だった。

 僕が確認したのを確認すると、戸塚はククッと喉の奥で笑う。



「この写真、清咲にも見せてやろうか?」



 自分の顔から熱が引いたのがハッキリわかった。



「清咲はどんな顔するかなー。仮にも自分に告白してきて、水族館にも一緒に行ったような男が、裏ではこんなになるまでリスカしてるような奴だって知ったら」



 その様を想像し───いや……したくもなかった。想像しようとしただけで、全身が震えた。

 あの時見せてくれた、彼女の笑みが。久しぶりに感じた、他人の温かさが。

 それが全て───



「ごめんなさいっ。許してください」



 僕は、額と地面が付きかねないほど頭を下げていた。地面にこびりついた異臭が鼻をつくが気にしない。手が自由なら、土下座だってしていた。

 戸塚は今度は鼻で笑う。


「だよなぁ。されたら困るよな、嫌われちゃうから。じゃ、今からツテ通して清咲のNINEに送りつけとくわ」


「待ってっ!!」


 本気の焦りだった。

 今宮に抑えられていた手を強引に振り払うと、額を地面に擦り付け、肘から先を地面に叩きつけて本当に土下座をした。

 傷口に便所の汚い地面が当たったが気にしてられない。


 そうまでして、必死に許しを請おうとする姿は、戸塚たちから見れば最高に滑稽だっただろう。


 まず最初に本山が吹き出し、続いて戸塚が思い切り笑い出した。



「ぶっ!!はははははははっ!!なっさけねーなーなぁお前。朝はあんなに勇ましかったったてのによ……ぷぷぷっ!惨めになんねぇの?」



 耳に、脳に、心に響く声。

 その声は、トイレにいるもの以外に聞く人はいなかった。

 よほどの傑作漫才を見た後のように一しきり笑うと、戸塚は出し抜けに足を上げた。


「仕方ねぇなぁ……。そこまで頼まれちゃあ、らくじょー君の土下座に免じて、今日のところは許しといてやるよ」


 笑いながら、手首の部分を踏まれた。グリッ、と足を捻られる。

 同じ方法で、三度、四度、五度、六度。

 踏み終わると、戸塚はしゃがみ込み、僕の耳元へ顔を寄せた。



「いいか?この躾を忘れんなよ?」



 流れ出ていった血液の代わりに、この言葉が入り込んでいくようだった。



「その傷がある限り、お前は一生誰からも愛されない。いくら親しくなろうが、その傷がバレれば全員離れていく。いいか?もうお前は真っ当な関係を築くことなんかできないんだよ。仮にこのことを隠して築けたとしても、それは俺がNINEの前で動かす指一つで簡単に壊れる関係なわけだ」


「…………っ」


「んじゃそこんとこ、しっかり肝に命じとくように」


 目に映るのは真っ暗な地面だけで、戸塚の顔は見えなかった。

 でもきっとその表情は……今まで見たどんなものよりも、晴れやかな顔となっているのだろう。

 直りかけていたナニカが、再び真っ二つに折れたような気がした。



「ま、これからは俺に反抗できるほど偉くなったかもなんて、無駄な幻想は捨てるんだなぁ」



 言い捨て、笑って。

 戸塚たちはトイレから去っていった。


 去り際、「おっと、わり」と今宮にまた手首の部分を踏まれた。



 傷口が開かれ、血が流れていく。止血する気になれない。

 蹴られた腹がキリキリと痛む。処置をする気になれない。



「…………」



 痛みはもう感じなかった。

 それ以上に、心が痛かった。



 暗い井戸の底からようやく這い上がれそうになったあたりに、途方もない力で真っ逆さまに叩き落とされたようだった。



 痛い。

 痛い。

 悲しい。


 何もできない。

 何もしたくない。



「……ごめんなさい」



 うずくまる中で、視界がボヤけた。

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