87.軍師王、報告を聞く 前編
軍事国家バルファードの軍師王レムルス。
短く切り揃えた金髪と、額から伸びる短い角が特徴の男。黒を基調とした威厳ある王衣に身を包み、その瞳はまるで相手の内面までも見透かしているかのような鋭さを宿している。
レムルスは極めて疑り深い性格であり、憶測や推測だけで物事を判断することを何より嫌う。常に事実と証拠を重視し、どれほど筋の通った話であっても、自らが納得するまでは決して結論を下さない。
頭の回転は非常に速く、相手の目線の揺れ、表情のわずかな変化、筋肉の強張り、呼吸や声色の乱れといった些細な違和感から嘘を見抜くことを得意としている。その洞察力は軍師としても比類なく、一度でも不審と判断した相手は徹底的に追及する。
そして、レムルスを欺こうとした者には一切の情けはない。偽りを最も重い裏切りと考える彼は、どのような身分の者であろうと容赦なく裁きを下す冷徹な王である。
バルファードの諜報員であるアッシュは報告書を手に王の間に来ている。
ガエン達の報告書をレムルスに渡すと、レムルスは無言で受け取り読み始めた。
玉座の間には重苦しい静寂が流れていた。
高い天井を支える黒い柱。
左右には微動だにしない近衛兵たち。
その中央で、レムルスは一冊の報告書をゆっくりと読み進めていた。
紙をめくる音だけが静かに響く。
報告書を書いた本人、諜報員アッシュは、玉座の前で直立したまま、一切口を開かない。
やがて最後のページを閉じると、レムルスは報告書を机へ置いた。
「……なるほど。」
短く呟く。
そして、鋭い視線をアッシュへ向けた。
「まず、ガエン。オーガ。魔王軍幹部。財務担当。そして農家。」
レムルスは報告書の一節を指先で叩く。
「戦闘能力は高い。だが報告では、それ以上に交渉能力と経営感覚が優秀とある。その評価に誇張はないな?」
「ありません。」
アッシュは即答する。
「力任せではなく、相手の利益を考えた上で話を進めます。冷静さも兼ね備えています。」
「怒らせた場合は?」
「危険です。」
一拍置いて続けた。
「ですが、感情で暴れる人物ではありません。怒る理由がある時だけです。」
レムルスは小さく頷く。
「理性的な武人……か。」
続いてページをめくる。
「死神ダグラス。」
その一言だけで、周囲の空気が僅かに張り詰めた。
「魔王軍幹部。本人は飄々としているが、敵対した場合の危険度は極めて高い……。」
レムルスは視線を上げる。
「お前自身はどう見た。」
「読めません。」
アッシュは正直に答えた。
「本心を隠すのが非常に上手い人物です。ですが、仲間に対しては誠実でした。」
「演技ではなく?」
「少なくとも私にはそう見えました。」
レムルスは目を細める。
「“そう見えた”では足りん。」
「……申し訳ありません。」
「いや。」
レムルスは首を横に振る。
「読めないと報告する者の方が信用できる。読めると断言する者ほど危うい。」
その言葉にアッシュは僅かに目を見開いた。
レムルスは再び報告書へ視線を落とす。
「ラーシャ。ダークエルフ。魔導士。薬学にも精通し、冷静沈着。」
レムルスは小さく眉を上げる。
「戦闘中であっても周囲を観察し、必要なら敵すら治療する可能性がある、とある。」
「はい。」
「理由は。」
「命を救うことに種族の区別がありません。」
「敵であってもか。」
「はい。」
レムルスは腕を組む。
「珍しい思想だ。」
「ただし。」
アッシュが付け加える。
「仲間へ危害を加える者には容赦しません。その点は他の三人と共通しています。」
「なるほど。」
レムルスは静かに頷いた。
最後のページへ視線を移す。
「そして……マイト。人間。勇者。魔王の城在住。」
そこだけ読む速度が僅かに遅くなる。
「勇者でありながら魔王軍と共に行動。世界の常識から最も外れている存在だ。」
レムルスはアッシュを見据える。
「洗脳。」
「違います。」
「脅迫。」
「違います。」
「利益。」
「違います。」
レムルスは間を置いた。
「ならば何故だ。」
アッシュは少し考えてから答える。
「……居心地が良いからです。」
玉座の間が静まり返る。
「居心地。」
「はい。」
「魔王軍の者達は彼を勇者だからと特別扱いせず、一人の仲間として接しています。彼もまた、魔族だからという理由で彼らを拒絶していません。互いに自然体です。」
レムルスはアッシュの瞳を真っ直ぐ見つめ続けた。
呼吸。声の高さ。喉の動き。指先の震え。視線の揺れ。その全てを観察する。
数秒。
沈黙だけが流れる。
やがてレムルスは静かに椅子へ深く腰掛けた。
「……面白い。」
その一言には、興味と警戒の両方が含まれていた。
「ガエンは理性ある武人。ダグラスは底が見えぬ死神。ラーシャは慈悲と冷酷を併せ持つ魔導士。マイトは常識そのものを覆す勇者。」
報告書を軽く叩きながら呟く。
「いずれも、一つの尺度では測れんな。」
そして再びアッシュへ視線を向ける。
その鋭い瞳には、まだ報告書には書かれていない何かを見抜こうとする光が宿っていた。
レムルスはしばらく無言でアッシュを見つめていた。
まるで報告書ではなく、目の前に立つ男そのものを読み解こうとしているようだった。
やがて、静かに口を開く。
「……報告書については理解した。」
短い一言、しかし、それで終わらなかった。
「では、次だ。」
アッシュは僅かに眉を動かす。
「お前自身について聞こう。」
その場の空気がさらに張り詰める。
近衛兵達も微動だにしない。
「今回、お前は彼らに何者として接触した。」
「偶然会った旅人役です。」
「嘘ではない。」
レムルスは即座に返す。
「だが、それが全てでもない。」
アッシュは黙った。
レムルスは指を組み、静かに続ける。
「ガエン達は、お前が諜報員だと知っていたな。」
その言葉に、アッシュの瞳が僅かに揺れた。
ほんの一瞬。普通なら見逃すほどの変化。
だが、レムルスには十分だった。
「……はい。」
「いつ見抜かれた。」
「旅の途中です。」
「理由は。」
「ガエン殿に、『視線の配り方や周囲の確認の仕方が普通の旅人ではない』と言われました。」
レムルスは静かに頷く。
「続けろ。」
「その後、さらにガエン殿から『諜報でもしてるのか?』と軽く尋ねられました。」
「否定はしたか。」
「しました。」
「結果は。」
アッシュは苦笑にも似た表情を浮かべる。
「全く信じてもらえませんでした。」
「当然だ。」
レムルスは淡々と言う。
「お前は嘘をつく訓練は受けている。だが、相手も人を見る力を持っていた。」
「はい。」
「それで。」
レムルスは目を細めた。
「見抜かれた後、どうなった。」
「……何も。」
「何も?」
「態度は一切変わりませんでした。」
玉座の間が静まり返る。
「私がバルファードの諜報員だと理解した上で、今まで通り接してきました。」
「警戒は。」
「多少はしていたと思います。」
「敵意は。」
「ありません。」
「監視されたか。」
「いいえ。」
「口を封じようとしたか。」
「ありません。」
レムルスは肘掛けに指を軽く打つ。
「面白い。」
その声音には興味が滲んでいた。
「普通なら、正体を知った時点で利用するか、排除するか、あるいは情報を制限する。」
一拍置く。
「だが、連中は違った。」
「はい。」
アッシュは静かに頷いた。
「ガエン殿は『仕事なんだろ?』とだけ言いました。」
「それだけか。」
「はい。」
「さらに笑いながら『別に困るようなことしてねぇしな』と言っていました。」
「ラーシャ殿は『必要以上に隠すこともありませんし』と。」
「マイト殿は……。」
アッシュは少し笑う。
「『アッシュはアッシュだよね』と。」
レムルスは目を閉じ、数秒考え込んだ。
やがて静かに息を吐く。
「……なるほど。」
再び目を開く。
その瞳は先ほどまでとは違い、報告書ではなくガエン達そのものへ向けられているようだった。
「諜報員と知りながら排除しない。敵国の人間であることを理解した上で信用する。甘いのではない。」
レムルスは断言する。
「相手を見て判断している。」
アッシュは静かに頷いた。
「私も、そのように感じました。」
レムルスは報告書を閉じる。
「……だからこそ厄介だ。力だけの相手なら対策はいくらでも立てられる。だが、自ら考え、相手を見極め、敵味方という枠だけで判断しない者達は、最も読みづらい。」
そう呟くと、レムルスはアッシュへ鋭い視線を向けた。
「お前が見抜かれたこと自体は失態ではない。隠すべき情報は守り、得るべき情報は持ち帰った。任務は果たしている。」
アッシュは深く一礼した。
「ありがとうございます。」
レムルスは静かに立ち上がる。
「だが、一つだけ覚えておけ。ガエン達は、お前を諜報員と知った上で信用した。その意味を履き違えるな。彼らは騙されたのではない。知った上で、お前という一人の人間を見て判断したのだ。」
玉座の間に、その言葉だけが重く響いた。
アッシュは深く頭を下げたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……陛下。報告書には記載しておりませんが、もう一件、ご報告があります。」
レムルスは椅子へ腰掛け直し、静かに顎を引く。
「言え。」
「旅の途中で、」
アッシュは一拍置いた。
「竜王と遭遇しました。」




