85.諜報員、緊張する
翌朝、まだ朝靄が温泉街を包み、石畳には夜露が薄く残っていた。
宿の食堂では簡単な朝食を済ませ、一行はそれぞれ身支度を整える。
ガエンは大きな荷袋を肩へ担ぎ、忘れ物がないか一通り確認した。
「よし、準備は終わりだ。」
マイトは背中の荷物を軽く揺すって笑う。
「今日はいい天気になりそうだね。」
ラーシャは薬草の入った袋を丁寧に腰へ結び直す。
「昨日補充できてよかったです。」
ダグラスも静かに鎌を背負い直し、小さく頷いた。
「いつでも出発できる。」
アッシュも自分の荷物を確認すると、小さく息を吐く。
「今回は本当に何事もなく出発できそうですね。」
「その台詞は少し不安になるな。」
ガエンが苦笑すると、一同も小さく笑った。
宿の女将へ礼を告げ、一行は宿を後にする。
朝の温泉街はまだ人通りも少なく、湯煙だけが静かに空へ昇っていた。
やがて街外れの馬車乗り場へ到着する。
御者はすでに馬の手綱を整え、出発の準備を終えていた。
「待ってたぞ。」
「また世話になる。」
ガエンが短く答え、仲間たちと共に馬車へ乗り込む。
ラーシャ、マイト、ダグラス、アッシュも続いて席へ着いた。
その様子を少し離れた場所から見届けていたゼノは、腕を組んだまま静かに立っている。
全員が乗り込んだことを確認すると、ゆっくりと歩み寄った。
「では、我は別の場所へ向かう。」
その一言に、マイトが窓から顔を出す。
「もう行っちゃうの?」
「ああ。まだ調べねばならぬことがある。」
ゼノは穏やかな表情のまま続けた。
「ドラゴンの長老たちについても、引き続き探ってみよう。」
アッシュは思わず背筋を伸ばす。
「あの……また、お会いできるでしょうか。」
ゼノは金色の瞳を細め、わずかに笑みを浮かべた。
「縁があればな。」
そして視線を一同へ向ける。
「道中、気を抜くな。」
ガエンは腕を組んで頷いた。
「言われなくてもな。」
ダグラスも静かに一礼する。
「また。」
ラーシャは柔らかく微笑んだ。
「お元気で。」
マイトはいつものように明るく手を振る。
「またどこかでお茶でも飲もう!」
ゼノは小さく鼻で笑った。
「機会があれば付き合おう。」
それだけ言うと、踵を返す。
「また。」
短く告げ、その黒髪の背中は朝日に照らされながら街道とは反対の森へ向かって歩き始めた。
堂々とした背中は、やがて朝靄の中へ溶けるように見えなくなる。
アッシュはその姿を見送り、小さく呟いた。
「竜王って……本当に不思議な方ですね。」
ガエンは口元を緩める。
「昔からあんな感じだ。」
「いつ会っても変わらないんだよ。」
マイトも懐かしそうに笑う。
御者が手綱を軽く鳴らした。
「それでは、出発するぞ!」
馬がゆっくりと歩き出し、車輪が石畳を軽やかに転がる。
温泉街トウセンを後にした一行は、軍事国家バルファード方面を目指し、朝日に照らされる街道を進んでいく。
温泉街を離れて数時間。
街道は次第に人の往来が減り、代わりに周囲の景色が大きく変わっていった。
なだらかな草原だった道は、やがて岩肌の見える山道へと変わっていく。
遠くには巨大な山々が連なり、その頂にはまだ白い雪が残っていた。
馬車の揺れが少し大きくなった頃、御者が前方を指差した。
「もうすぐ分かれ道だ。」
一行が窓から外を見ると、街道は大きな石碑の前で二手に分かれていた。
片方は南へ伸びる道。
その先には海の匂いを運ぶ風が吹き、港町ダイセンへ続いている。
もう片方は険しい山岳地帯へ向かう道。
巨大な岩山の間を縫うように伸びており、その先にある国の名が刻まれていた。
軍事国家バルファード。
「ここから先は山越えになる。」
御者が説明する。
「ダイセンへ向かうなら海沿いの平坦な道だが、バルファードへ行くならこの道しかない。」
馬車は迷うことなく、山岳地帯へ続く道へ進んだ。
車輪が石を踏む音が響く。
しばらく無言で景色を眺めていたアッシュが、ふと口を開いた。
「……懐かしいですね。」
ガエンが隣を見る。
「バルファード出身だったな。」
「はい。」
アッシュは窓の外に広がる山々を見つめる。
「バルファードは、少し特殊な国です。」
マイトが興味深そうに身を乗り出した。
「特殊って?」
アッシュは少し考えてから答える。
「軍事国家と呼ばれていますが、決して戦争を好む国ではありません。」
「ほう。」
ダグラスが静かに耳を傾ける。
「バルファードが重視しているのは、侵略ではなく防衛です。」
アッシュは続ける。
「昔、この地域は魔物の被害が多かったんです。険しい山岳地帯には強力な魔物も多く、国を守るために軍が発展しました。」
「だから軍事国家か。」
ガエンが頷く。
「はい。でも、兵士たちはただ戦うためにいるわけではありません。」
アッシュは少し微笑む。
「街道の警備、魔物討伐、災害時の救助……国民からは守護者として見られています。」
ラーシャが窓の外を眺めながら言った。
「力を持つ理由が、守るためなのですね。」
「そうです。」
アッシュは頷いた。
「バルファードの人たちは誇り高い人が多いです。規律を重んじて、鍛錬を怠らない。」
マイトが笑う。
「アッシュもそんな感じなの?」
「え?」
「真面目で、ちゃんとしてるところ。」
アッシュは少し困ったように笑った。
「……昔からよく言われました。」
ガエンが腕を組む。
「確かに納得できるな。」
「ガエンさんまで……。」
馬車の中に小さな笑い声が響く。
しかし、アッシュの表情は少しだけ真剣になる。
「ただ……バルファードには一つ、気を付けるべきことがあります。」
「何だ?」
ガエンが尋ねる。
「軍の階級制度です。」
アッシュは説明する。
「バルファードでは、実力と功績が非常に重視されます。身分よりも、何ができるかを見られる国です。」
「それは良いことにも聞こえるけど。」
マイトが首を傾げる。
「はい。ですが、その分……強さを求められます。」
アッシュは自分の手を見る。
「弱い者を見下す文化ではありません。ただ、守る力を持つことを責任として考えているんです。」
ダグラスが小さく呟く。
「戦う力を持つ者には、それ相応の責任がある……か。」
「はい。」
アッシュは頷いた。
その時、馬車の前方から風が吹き込んできた。
山の冷たい空気。
遠くから聞こえる鐘の音。
そして、岩山の向こうに巨大な城壁の一部が見え始める。
マイトが目を丸くする。
「あれ……?」
山の中腹。
切り立った崖に沿うように造られた巨大な防壁。
その奥には、鉄と石で築かれた都市の姿があった。
「すごい……。」
ラーシャも思わず息を漏らす。
アッシュは懐かしそうに目を細めた。
「あれが……バルファードです。」
ガエンはその城壁を見上げる。
「なるほどな。」
かつて魔物や脅威から人々を守るために築かれた国。
その姿は、まるで巨大な盾そのものだった。
馬車はゆっくりと山道を登り続ける。
近づくほどに、バルファードの城壁の巨大さが際立っていった。
山そのものを利用して築かれた防壁は、ただ高いだけではない。
敵が攻め込むことを想定した幾重もの構造になっており、城門へ続く道も意図的に曲がりくねっている。
「すごい……。」
マイトは窓から身を乗り出すようにして城壁を見上げた。
「街を守るための城っていうより……山そのものが城みたいだね。」
「その通りです。」
アッシュが頷く。
「バルファードの城壁は、地形そのものを防衛設備として利用しています。正面から突破するのはほぼ不可能だと言われています。」
ガエンは感心したように腕を組んだ。
「理にかなっているな。」
財務を担当する彼にとって、巨大な建造物を見る時もまず考えるのはその価値と効率だった。
「無駄に豪華なだけじゃない。守るために必要な場所へ、必要なだけ力を使っている。」
「ガエンさんらしい見方ですね。」
ラーシャが微笑む。
「金の使い方には国の性格が出るからな。」
ガエンは城壁を見上げる。
「この国は、本当に守ることに金を使っている。」
やがて馬車は城門前へ到着した。
そこには多くの商人や旅人が並び、入国審査を待つ長い列ができていた。
「かなり混んでいるな。」
ダグラスが呟く。
「バルファードは出入りの確認が厳しいですから。」
アッシュが説明する。
「軍事国家ですので、不審者を簡単には通しません。」
一行は列の最後尾へ並び、順番を待つ。
しばらくすると、前方からざわめきが聞こえてきた。
「何だ?」
マイトが顔を上げる。
見ると、列の先で一人の商人らしき男と、別の旅人が言い争っていた。
「俺は正規の許可証を持っている!」
「そんなもの偽造に決まっているだろ!」
声は次第に大きくなり、周囲の人々が距離を取る。
「まずいな。」
ガエンが小さく息を吐いた。
放っておけば騒ぎになる。
そう判断したガエンが馬車から降りようとした、その時だった。
「そこまでだ。」
低く落ち着いた声が響いた。
騒いでいた二人の間に、一人の男が立っていた。
鎧を身に着けている。
だが、城門を守る兵士とは少し雰囲気が違う。
派手な装備ではない。
むしろ簡素な鎧。
しかし、その立ち姿には隙がなかった。
「衛兵……?」
アッシュが目を細める。
男は二人を交互に見る。
「話を聞く限り、双方に問題がある。」
「何を――」
商人が反論しようとした瞬間。
男は一歩踏み込んだ。
次の瞬間、二人は地面に座り込んでいた。
何が起きたのか分からないほど、一瞬だった。
腕を掴まれたわけでもない。
殴られたわけでもない。
ただ、相手の動きを完全に封じられていた。
周囲から驚きの声が漏れる。
ガエンは思わず目を見開いた。
「……見事だな。」
「え?」
マイトが振り返る。
ガエンは感心したように男を見る。
「力でねじ伏せたんじゃない。相手がどう動くかを読んで、最小限の動きで止めている。」
ダグラスも静かに頷いた。
「かなりの使い手だな。」
男は二人から事情を聞き、淡々と処理していく。
怒鳴ることもない。
威圧することもない。
ただ、事実だけを確認し、必要な判断を下していた。
その姿を見て、ガエンは小さく笑う。
「なるほど……。」
「何がですか?」
アッシュが尋ねる。
「この国が軍事国家と呼ばれる理由だ。」
ガエンは城門を見る。
「強い者が偉いんじゃない。強い力を、正しく扱える者が評価される。」
アッシュはその言葉を聞いて、少し嬉しそうに目を細めた。
しかしその直後、彼の表情は少し曇る。
「……。」
「どうした?」
ガエンが気付く。
アッシュは一瞬迷った後、答えた。
「いえ……。」
だが、その胸の内には別の不安があった。
バルファードの軍師王。レムルス王。
今回、自分が提出する報告書には、ガエン達の情報が詳細に記されている。
オーガ。
死神。
ダークエルフ。
元勇者。
そして、魔王軍関係者。
アッシュは懐から封印された書類を取り出す。
そこには、レムルス王へ提出するためにまとめた報告書が入っていた。
『魔王軍財務担当 ガエン』
『死神 ダグラス』
『ダークエルフ ラーシャ』
『勇者 マイト』
一人一人の能力、過去、行動記録。
そして最後の欄。
『危険度』
そこには、まだ判断不能という意味の印が付けられている。
アッシュは思い返す。
旅の間、彼らが見せた姿。
困っている人を助けるガエン。
傷ついた盗賊にも薬を塗るラーシャ。
誰よりも楽しそうに笑うマイト。
そして、静かに仲間を守るダグラス。
報告書に書かれた情報だけなら、警戒すべき存在だ。
だが、実際に共に旅をした彼らは....
「……陛下は、どう判断されるだろうか。」
小さく呟く。
その時。
「アッシュ。」
ガエンの声がした。
「はい?」
「そろそろ順番だぞ。」
「あ……。」
気付けば、城門の審査所が目の前だった。
アッシュは慌てて書類をしまう。
そして深く息を吸った。
これから会うのは、この国の王レムルス。
バルファードを支える絶対的な存在。
アッシュは改めて覚悟を決める。
「行きましょう。」




