第52話 公爵領での日々
公爵領に滞在することが決まってから、俺は一つ、はっきり感じていたことがある。
ここは、学ぶことが多すぎる。
人の数。
物の流れ。
金の動き。
報告の上がり方。
領主家と現場の距離。
ハル領を立て直したいと思っている今の俺にとって、公爵領はただ大きいだけの場所じゃなかった。
現場を見るにも、運営を見るにも、何もかもが一段階上にある。
同じ「領地」でも、ここまで規模が違うと、抱える問題の形まで変わるのだと実感する。
だからこそ、この滞在はありがたかった。
合格の報告と礼を伝えるだけで終わるには、あまりにも惜しい。
そんなことを考えていた朝だった。
◇
「リオン!」
中庭へ出る前に声をかけてきたのは、ルークだった。
朝の空気はまだ少し冷たい。
その中で、ルークはすでに動きやすい服に着替えていて、木剣を肩に担いでいる。
「おはよう」
「おはようじゃないよ。ちょうど良かった。今から修行なんだ」
「修行?」
「うん。領軍の人に剣を見てもらう日なんだ。リオンも来ない?」
いかにも年相応の明るい誘い方だった。
けれど、ただ遊び半分で言っているわけでもないのはわかる。
ルークはまだ少年だ。
でも、自分がいずれこの大きな領を率いる立場にあることは、きちんと自覚している。
だから勉強もするし、こうして剣の修行にも出る。
俺は少しだけ考えた。
ハル領も、西の森をひらけば、いずれ護衛や軍備のことをちゃんと考えないといけない。
魔物だっている。
全部を人任せにしていい話でもない。
「……いい機会かも」
「じゃあ来る?」
「うん。行く」
そう答えると、ルークはぱっと顔を明るくした。
「よし!」
◇
領軍の訓練場は、城の外れに近い広い場所にあった。
朝の光の中で、兵たちがすでに身体を動かしている。
槍を振る者。
走る者。
盾を持って組む者。
ハル領で見る兵よりも人数が多い。
動きも揃っている。
公爵領の厚みは、こういうところにも出るのだとすぐにわかった。
ルークに剣を教えているのは、三十代半ばくらいの男だった。
無駄のない体つきで、声がよく通る。
「おや、今日はお連れがいる」
「はい。リオンです。ハル領の」
「噂は聞いておりますよ」
男はそう言ってから、俺の方を見た。
「剣は?」
「……ほとんど初めてです」
「ほう」
笑いもしない。
ただ、その返事をそのまま受け取っただけだった。
「では、まず構えから参りましょう」
素直に従う。
木剣を握る。
足を開く。
重心を意識する。
――難しい。
いや、難しいどころじゃない。
ぎこちない。
自分でも驚くくらい、身体が言うことを聞かない。
「力が入りすぎです」
「はい」
「肩を上げない」
「はい」
「腰が浮いています」
「……はい」
隣ではルークが、年齢のわりにずいぶんまともに動いている。
もちろん完璧ではないが、少なくとも俺みたいに全部がちぐはぐ、という感じではない。
木剣を打ち込む動きも、それなりに形になっていた。
「リオン、もっとこうだよ」
「見ればわかるんだけど、できないんだよ」
「なんで?」
「こっちが知りたい」
思わずそう返すと、ルークが笑った。
だが、笑い事ではない。
身体強化や魔法の制御とは、また別の難しさがある。
むしろ変に頭で考えすぎるぶん、余計に身体が固まる気すらした。
こんなことになるなら、前世で学校の剣道をもう少し真面目に受けておけばよかった。
いや、あれは竹刀だし、今は木剣だし、そもそも全然別物かもしれないけど。
それでも「こういう時に少しは役立ったのかもな」と思わずにはいられなかった。
「……これはひどいな」
気づけば、小さくそんな声が漏れていたらしい。
訓練を見ていた男が、口元だけ少し動かした。
「初めてにしては、そこまで悪くありません」
「慰めが下手ですね」
「剣は、すぐ上手くなるものではありませんので」
その言い方は案外嫌いじゃなかった。
できないことを、できないまま言ってくれる人の方が信用できる。
◇
一通り身体を動かしたあと、訓練場の端で息を整えていると、ユリウスがこちらへ歩いてきた。
「おや。朝から頑張っているね」
「見てましたか」
「少しだけ」
少しだけ、という顔ではない。
たぶん最初から結構見ていた。
ユリウスは俺の手元の木剣を見て、やわらかく笑った。
「どうだったかな」
「剣術が得意じゃないことは、よくわかりました」
「それも大事な発見だ」
からかう感じではなく、本気でそう言っているのがこの人らしい。
それからユリウスは少しだけ真顔になった。
「でも、学んでおいて損はないと思うよ」
「西の森、ですか」
「そうだ」
やっぱりそこに繋がる。
「ハル領の西をひらいていけば、いずれ魔物と向き合う機会も増えるだろう。
常に自分で戦う必要はない。だが、わかっているのとまったく知らないのでは違う」
「……はい」
「ルークと一緒に、朝だけでも見てもらってはどうかな」
それは、かなりありがたい提案だった。
ありがたい、というより、またここでも世話になってしまうな、という気持ちの方が先に来る。
王都での家庭教師。
学院への準備。
公爵領への招待。
そして今度は剣術まで。
「本当に、お世話になってばかりですね」
思わずそう言うと、ユリウスは軽く首を振った。
「なに、礼はいらないよ」
「でも」
「昨日、君にはうちの領のことを色々と見てもらった」
そう言って、いつもの穏やかな目でこちらを見る。
「その返礼だと思ってくれればいい」
その言い方が、この人らしかった。
助けてやっている、ではない。
貸し借りを重くするでもない。
ちゃんと釣り合うように言葉を置いてくれる。
だから、こちらも素直に受け取りやすい。
「……ありがとうございます」
「うん」
ユリウスは一つ頷くと、少しだけ困ったように笑った。
「それと、ついでと言ってはなんだけど」
「はい?」
「ルークばかりに付き合っていると、セレナが少し機嫌を悪くするかもしれない」
「え?」
その言葉に、ちょうど水を飲んでいたルークが吹き出しかけた。
「姉上、そんなにわかりやすいかな」
「君が思うよりは、ね」
ユリウスはまったく悪びれずに続ける。
「だから、朝の剣のあと、昼まではセレナの勉強にも付き合ってやってほしい」
「勉強、ですか」
「学院へ入る前に、あの子も仕上げておきたいところがあるらしい」
それは要するに、勉強を見てほしいということだろう。
そしてたぶん、セレナの方もそれを完全には嫌がらない。
むしろ嫌なら、ユリウスはこんな言い方をしないはずだ。
「わかりました」
そう答えると、ユリウスは満足そうに頷いた。
「助かるよ」
◇
その日の昼前、言われた通り俺は書庫へ向かった。
窓際の席には、すでにセレナが座っていた。
開かれた本。
横に積まれたノート。
きっちりしている。
でも、俺の顔を見た瞬間、ほんの少しだけ眉が動いた。
「来たのね」
「来てって言われたから」
「父上に?」
「うん」
「……そう」
その返事が妙に短い。
席に着くと、俺は軽く肩を回した。
剣術で変なところに力が入っていたらしく、少しだけ腕が重い。
その様子を見て、セレナが言った。
「朝からルークと剣の修行だったんですって?」
「そう」
「どうだったの?」
聞き方は平静だった。
でも、少しだけ気になっているのがわかる。
「全然だめだった」
素直にそう答えると、セレナは一瞬黙って、それからふっと笑った。
「そう」
「嬉しそうだね」
「少し安心しただけよ」
「何に?」
「あなたにも、ちゃんと苦手なものがあるんだと思って」
その言い方が妙に正直で、こっちも少し笑ってしまった。
「あるよ。かなりね」
「それなら良かったわ」
彼女はそう言って本を閉じる。
「今日は歴史と制度、それから少し計算を確認したいの」
「了解」
「それと、もし余裕があれば、学院の上級課程で扱うらしい経済の基礎も」
「ずいぶん欲張るね」
「あなたに言われたくないわ」
それもそうだった。
◇
午後はユリウスか筆頭執事のどちらかが時間を取ってくれて、公爵領の運営について見せてもらうことになった。
城内の執務区画。
報告の上がり方。
領内の主要な街道。
どこに人と物が集中しているか。
どこに金が落ちるか。
小領地では見えにくいものが、ここでは形になって見える。
人。
もの。
金。
それらがどう動くかを、現場側と運営側の両方から学べる。
これがどれだけありがたいことか、今の俺にはよくわかった。
剣術では全然敵わない。
勉強ではセレナに付き合う形になっているけれど、結局こっちも学ぶことが多い。
そして午後は、大領地の仕組みそのものを見せてもらえる。
忙しい。
でも、嫌じゃない。
むしろ、こういう時間が欲しかったのだと思う。
朝はルークと剣。
昼まではセレナと勉強。
午後は公爵領の運営を学ぶ。
そういう日課が、その日から自然に決まった。
夕方、客室へ戻る廊下を歩きながら、俺は小さく息を吐いた。
公爵領に来てから、ただ圧倒されるだけの時間はもう終わった気がする。
ここからは、ちゃんと吸収して持ち帰る時間だ。
学べることが多い場所に身を置ける。
それだけで、十分ありがたかった。
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