第496話 ただいま
翌朝、俺は寮の一階へ降りた。
「すみません」
「はい?」
声をかけると、寮の管理人が顔を上げる。
長期休暇中も寮に残り、建物の管理や残っている生徒への対応をしている初老の男性だ。
身分を問わず、誰にでも気さくに話しかけてくる。
「今日からハル領へ戻ります」
「ああ、リオン君も帰るのかい」
「はい。三学期が始まる前には戻ってきます」
「分かったよ」
「それで、一つお願いがあるんですけど」
「何だい?」
「俺宛てに手紙が届いたら、ハル領の屋敷まで転送してもらえますか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
これで手紙については大丈夫だ。
「あと、王宮や学院から俺に連絡があった場合も、ハル領へ戻ったと伝えてもらえると助かります」
「分かった。伝えておくよ」
「お願いします」
王宮から急に連絡が来る可能性もある。
グレイヴ領の調査は、これから本格的に始まる。
俺が呼ばれることはないと思うけれど、念のため居場所は分かるようにしておいた方がいい。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。ゆっくりしておいで」
「ありがとうございます」
管理人に頭を下げ、自分の部屋へ戻った。
「ピー!」
「お待たせ」
ピコがベッドの上で跳ねる。
「帰ろうか」
「ピー!」
机の上に置いていた本。
着替え。
冬休み中に使う予定の資料。
一つずつ亜空間収納へ入れていく。
あっという間に部屋から荷物が消えた。
「便利だな」
「ピー!」
「ピコは何も持ってないけどね」
「ピー?」
「何でもないよ」
最後に部屋の中を見回した。
三学期になれば、またここへ戻ってくる。
ヴィクトルも。
エドガーも。
みんなも戻ってくる。
昨日は妙に静かに感じた部屋も、今はそれほど寂しく見えなかった。
「よし」
ピコを抱き上げる。
一緒に転移するには、俺の身体に触れていなければならない。
腕の中へしっかり収めた。
「離れないでね」
「ピー!」
目を閉じる。
探すのは、ハル領の屋敷にある自分の部屋。
以前残しておいた魔力の印へ意識を伸ばす。
――あった。
「行くよ」
「ピー!」
景色が切り替わった。
◇
「ピー……?」
目を開ける。
見慣れた机。
ベッド。
本棚。
窓。
ハル領の屋敷にある、俺の部屋だった。
「着いたよ」
「ピー!」
ピコが腕の中で元気よく跳ねようとする。
「危ないって」
床へ下ろしてやる。
ピコは部屋の中を何度か跳ねると、すぐに俺のところへ戻ってきた。
「覚えてる?」
「ピー!」
「そっか」
俺も部屋を見回す。
王都を離れていた期間は、それほど長くない。
それなのに。
「……帰ってきたな」
「ピー!」
昨日、自分で口にした言葉を思い出した。
早く帰りたい。
ようやく帰ってきた。
「父上に挨拶しないと」
「ピー!」
扉を開ける。
廊下へ出た、その時だった。
「あれ?」
聞き慣れた声がした。
顔を向ける。
少し先を歩いていたミアが、こちらを見て立ち止まっている。
「ミア」
「……リオン様?」
「うん。ただいま」
「え?」
ミアが何度か瞬きをした。
「リオン様!?」
「そんなに驚かなくても」
「驚きますよ!」
ミアが慌ててこちらへやってくる。
「いつお戻りになったんですか?」
「ついさっき」
「ついさっきって……」
ミアが廊下の向こうを見る。
それから俺の部屋を見る。
「玄関には誰もいらっしゃらなかったはずなのに……」
「まあ、ちょっとね」
「また急に現れるんですから」
以前も突然帰ってきて驚かせたことがあった。
「ごめん」
「もう……」
そう言いながらも、ミアの表情は嬉しそうだった。
「お帰りなさいませ、リオン様」
「うん。ただいま」
「ピー!」
「ピコもお帰りなさい」
「ピー!」
ミアが屈んでピコの身体を撫でる。
そして立ち上がったところで、俺の顔をじっと見た。
「何?」
「……リオン様」
「うん?」
「また背が伸びました?」
「また?」
「前にお戻りになった時より高くなっている気がします」
「そうかな」
自分ではよく分からない。
ミアが俺のすぐ前まで来た。
自分の頭と俺の頭を交互に見る。
それから。
すっと背伸びをした。
「何してるの?」
「確認です」
「背伸びしたら確認できないでしょ」
「少しくらい近づかないと分からないじゃないですか」
「そういう問題?」
ミアは俺の言葉を無視して、もう一度いっぱいまで背伸びする。
「やっぱり伸びてます」
「それで分かるんだ」
「長い間リオン様を見ていますから」
ミアが得意そうに笑った。
「そのうち見上げるのが大変になりそうです」
「そこまで伸びるかな」
「もう十分大変です」
「それはごめん」
「謝ることではありません」
思わず笑った。
「ピー!」
ピコまで俺たちの間で跳ねている。
なんだろう。
胸の奥に残っていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
グレイヴ領から戻ってから、ずっと頭のどこかが重かった。
王都でも。
寮でも。
何かを考えていないと落ち着かなかった。
でも。
ミアとこんな話をしていると、少しだけいつもの自分に戻れる気がする。
「ミア」
「はい?」
「父上は執務室?」
「はい。朝からいらっしゃいます」
「分かった。顔を出してくる」
「奥様にも、リオン様がお戻りになったことをお伝えしておきますね」
「お願い」
俺はピコを連れて、父上の執務室へ向かった。
◇
扉を叩く。
「父上、リオンです」
「入れ」
「失礼します」
扉を開ける。
父上は机に向かい、何枚かの書類へ目を通していた。
俺を見ると、手を止める。
「戻ったか、リオン」
「はい。ただいま戻りました」
「いつ着いた?」
「つい先ほどです」
父上が俺の周りを見る。
荷物がないことに気づいたらしい。
「転移か」
「はい」
「相変わらず、とんでもない魔法だな」
「便利ではあります」
「便利すぎるくらいだ」
父上が小さく笑う。
「まあいい。座れ」
「はい」
父上の向かいへ座る。
ピコは当然のように俺の足元へ来た。
「ピー」
「お前も戻ったか」
「ピー!」
父上が少し口元を緩める。
それから、俺へ視線を戻した。
「王都ではよく頑張ったな」
「……ありがとうございます」
「グレイヴ領へも行ったそうだな」
「はい」
「大まかな話はこちらにも届いている。大変だったな」
「そうですね」
それ以上、すぐには言葉が出なかった。
父上は何も聞かず、しばらく俺を見ていた。
「疲れた顔をしている」
「……そんなに出ていますか?」
「普段のお前よりはな」
自分では分からない。
身体の疲れなら、もうほとんど残っていない。
グレイヴ領で受けた傷も治っている。
でも。
気持ちはまだ戻りきっていない。
「王宮への報告は終わりました」
「そうか」
「徴税や支援事業について、これから担当者が詳しく調べることになっています」
「なら、今は王宮に任せればいい」
「はい」
「お前が持ち帰るべきものは、もう持ち帰ったのだろう?」
父上の言葉に少しだけ手が止まった。
ふと、国王に言われたことを思い出す。
答えは持ち帰れなかった。
でも、何も持ち帰れなかったわけじゃない。
「……そうだと思います」
「なら、一度区切れ」
「区切る?」
「ああ」
父上が書類を机へ置く。
「グレイヴ領のことを考えるなとは言わん。だが、今すぐお前が続きを考え続けたところで、できることはないだろう」
「……はい」
「王宮へ渡したのなら、今は王宮の仕事だ」
短い言葉だった。
でも。
少しだけ肩が軽くなった。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない」
父上はそう言ってから、話題を変えた。
「それより、お前が戻ったならハル領の方も気になるだろう」
「はい」
そちらも帰ってきたら確認したいと思っていた。
「領都はどうなっているのか」
「西の森は?」
「学校や排水の件も気になっています」
「やはりな」
「あと南の村での試験結果も――」
父上が小さく笑う。
「明日、エリアスとレナードを屋敷へ呼ぼう」
「二人を?」
「ああ」
父上が頷く。
「エリアス、レナードに聞いた方が良いことも多いだろう」
「そうですね」
「お前が王都にいる間に動いたことも多い。私から一つずつ説明するより、二人から直接聞いた方が早い」
「お願いします」
「朝から来るよう伝えておく」
それなら、明日一日でかなり状況を確認できる。
「資料も用意してもらえますか?」
「ああ。だが」
父上が俺を見る。
「今日は何もしなくていい」
「え?」
「今戻ったばかりだ」
「少しくらいなら――」
「明日、二人から聞くのだろう?」
「そうですけど」
「なら今日は必要ない」
父上が椅子へ深く腰掛ける。
「ハル領は昨日までお前がいなくても動いていた。一日増えたところで止まらん」
「……それもそうですね」
「帰ってきた日くらい、少し休め」
「分かりました」
たぶん今の俺には、その方がいい。
「それと、父上」
「何だ?」
「ミラのことなんですが」
「ミラ嬢?」
「はい、ハル領へ来る日程が決まりそうです」
「そうか」
「一月初旬に二泊三日です。候補日が二つ書かれていました」
ミラから届いた手紙を父上へ渡す。
「俺からは、どちらの日でも大丈夫だと返事を出しました。ただ、家としても確認した方がいいと思って」
「当然だな」
父上が頷く。
「ハーウェイ家へはこちらから正式に返事を出そう」
「お願いします」
父上がもう一度手紙を見る。
そして。
「リオン」
「はい?」
「ミラ嬢とは、話せたのか?」
一瞬、何のことか分からなかった。
すぐに気づく。
夏休みの終わり。
ハーウェイ侯爵家から届いた、俺とミラの将来についての書状。
父上からは、まず俺たち二人で話せと言われていた。
「はい」
「そうか」
「……付き合うことになりました」
口にすると、少し恥ずかしい。
父上は驚かなかった。
「そうか」
それだけ言って、小さく頷いた。
「はい」
「なら、婚約の方はどうする?」
「……婚約」
「ああ」
父上の表情が少し真面目になる。
俺も考えた。
「まだミラとは、そこまでちゃんと話していません」
「うむ」
「でも、話さなければいけないと思っています」
「どうしてだ?」
「付き合うことと、婚約することは違いますから」
父上は黙って聞いている。
「俺とミラだけで決められることでもありません」
「そうだな」
「婚約となれば、ハル家とハーウェイ家の話でもあります」
以前なら。
そう考えた時点で、自分には決められないと思っていたかもしれない。
でも、今は少し違う。
「だからこそ、家同士で話を進める前に、俺とミラでもちゃんと話したいです」
「お前自身がどうしたいかもか?」
「はい」
そこはもう避けたくない。
「分かった」
父上が手紙を机へ置いた。
「では、それまではこちらから婚約の話を進めることはしない」
「ありがとうございます」
「ミラ嬢が来た時にでも、二人で話せ」
「はい」
「ただ」
父上が僅かに口元を上げる。
「ハーウェイ侯爵家をいつまでも待たせるわけにもいかん。それだけは覚えておけ」
「分かっています」
「ならいい」
ちょうどその時。
執務室の扉が叩かれた。
「リオン?」
聞き慣れた声。
扉が開く。
「母上」
「あら」
母上が俺を見る。
その表情が一気に明るくなった。
「リオン」
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
母上がこちらへ歩いてくる。
「ミアから聞いて来たの。急に帰ってきたそうね」
「驚かせてしまいました」
「ミアがずいぶん嬉しそうだったわ」
「さっき背を比べられました」
「また?」
「母上まで」
母上が笑う。
そして、少しだけ俺の顔を見つめた。
「……王都では色々あったのでしょう?」
「はい」
「グレイヴ領へも行ったと聞きました」
「はい」
母上が俺の肩へそっと手を置く。
「無事に帰ってきてくれてよかった」
「……はい」
「よく頑張ったわね」
「……ありがとうございます」
短い言葉だった。
でも。
それだけで胸の奥に残っていた力が、ふっと抜けた。
国王にも評価してもらった。
ラウグレン公にも言葉をもらった。
父上にも褒めてもらった。
それとは少し違う。
何をしたかではなく。
ただ帰ってきたことを喜んでもらっている。
「ところで」
母上が父上を見る。
「もう仕事の話は終わりましたか?」
「ああ。今終わったところだ」
「それならちょうどいいわ」
「何がですか?」
「もうすぐお昼でしょう。久しぶりに三人で食べましょう」
母上が言う。
「はい」
今日はもう何もしなくていい。
父上にもそう言われた。
なら。
素直に甘えてもいいのかもしれない。
◇
三人で食堂へ向かう。
その途中だった。
廊下の向こうから、大柄な男が歩いてくる。
訓練着姿だ。
「あ」
俺に気づき、足を止める。
「リオン様」
「ノル」
「お戻りでしたか」
「うん。さっき帰ってきた」
ノルが穏やかに頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「ありがとう」
「王都では随分とご活躍だったそうですな」
「色々あったよ」
「そのようですな」
父上から聞いているのだろう。
ちょうどいい。
「ノル、一つお願いがあるんだけど」
「何でしょう?」
「明日の朝から、騎士団の稽古に参加させてもらってもいい?」
ノルが僅かに眉を上げた。
「明朝からですか」
「うん」
「お戻りになった翌日からとは、相変わらずですな」
「少し鍛え直したいんだ」
イレーナとの戦いを思い出す。
剣を振る前に動かれた。
魔法を使う前に潰された。
今すぐ何かが変わるわけではない。
それでも。
何もしないままではいたくなかった。
ノルは俺の顔をしばらく見た。
「承知しました」
「ありがとう」
「では、いつもの朝稽古から参加してください」
「よろしく」
「ただ、久しぶりです。初日から張り切りすぎないようお願いいたします」
「気をつけるよ」
「その言葉を信じることにしましょう」
ノルが少しだけ笑った。
母上が隣で俺を見る。
「リオン」
「何ですか?」
「明日は稽古だけでなく、エリアスさんたちともお話をするのでしょう?」
「はい」
「今日はちゃんと休みなさい」
「もう仕事はしません」
「それがいいわ」
父上が横で小さく笑った。
「逆らわない方がいいぞ、リオン」
「父上が言いますか?」
「経験者からの忠告だ」
「何の話ですか?」
「何でもない」
思わず笑ってしまった。
◇
昼になり食堂へ入る。
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
温かいスープ。
焼いた肉。
野菜。
焼きたてのパン。
特別な料理ではない。
でも。
三人でこうして食事をするのは久しぶりだった。
「リオン、王都ではちゃんと食べていた?」
「食べてましたよ」
「少し痩せたように見えるわ」
「それは気のせいだと思います」
「なら今日はしっかり食べなさい」
母上が俺の皿に肉を追加する。
「まだありますけど」
「若いんだから大丈夫よ」
「そういうものですかね」
「ピー!」
足元から元気な声がした。
「ピコも欲しいの?」
「ピー!」
「お前はさっき食べただろ」
「ピー!」
母上が笑う。
「ピコの分も用意してありますよ」
「ピー!」
途端に嬉しそうに跳ねた。
「分かってるのかな」
「食べ物のことだけは分かっているんじゃないか?」
父上が言う。
「あり得ますね」
「ピー!」
「否定してるぞ」
「たぶん抗議ですね」
小皿にピコ用の食事が置かれる。
すぐにピコがそちらへ向かった。
父上が笑う。
母上も笑っている。
俺も、自然と笑っていた。
グレイヴ領のことを忘れたわけじゃない。
明日になれば朝から騎士団の稽古へ出る。
エリアスとレナードから、ハル領の現状も聞く。
ミラが来る準備もしなければいけない。
考えることは、いくらでもある。
でも、今は父上と母上の声を聞きながら、温かい料理を食べている。
昨日まで早く帰りたいと思っていた。
父上に会いたい。
母上に会いたい。
ミアにも。
ハル領のみんなにも。
そう思っていた。
「リオン?」
母上に呼ばれる。
「何ですか?」
「少し嬉しそうね」
「……そうですか?」
「ええ」
俺は自分の皿へ目を落とした。
そして、少しだけ笑った。
「帰ってきたからだと思います」
昨日まで、ずっと帰りたかった。
そして今、ようやく、ただいま、と言える場所へ帰ってきた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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