第484話 終わったあと
「グレイヴ伯爵」
ヴァレスト公爵が静かに呼んだ。
「これから司法院へ同行していただきます」
「…………」
グレイヴ伯爵は動かなかった。
さっきまで政策について堂々と話していた姿とは違う。
椅子に座ったまま、机の上を見ている。
司法院の職員が二人、ゆっくり近づいた。
「待て」
グレイヴ伯爵が顔を上げる。
「私は伯爵だぞ!」
職員たちが足を止めた。
「申し開きは司法院で聞きます」
ヴァレスト公爵の声は変わらない。
「今ここで、これ以上話す必要はありません」
「違う!」
グレイヴ伯爵が立ち上がった。
「陛下、お待ちください!」
陛下が黙ってグレイヴ伯爵を見る。
「すべて私がやったわけではありません」
「…………」
「ヴァルナー商会が独断で処理したものもあります。アルベルトが勝手に判断した可能性も――」
アルベルト・ヴァルナー。
自分の妻の兄。
ここまで一緒にやってきた相手まで切るのか。
「王都邸の家令が処理していたものもあります。私が一つ一つの金の動きを把握していたわけでは――」
「その説明は司法院でしろ」
陛下が言った。
「しかし、陛下!」
「私はもう聞かない」
「…………」
グレイヴ伯爵の口が止まった。
短い言葉だった。
でも、それ以上何を言っても陛下には届かないことだけは分かった。
「ラウグレン公!」
今度はラウグレン公を見る。
「あなたなら分かるでしょう!」
ラウグレン公は返事をしない。
「領地を守るには、綺麗事だけでは済まない!」
「…………」
「税収が減り、人が出ていく。王家から支援を受けても、すべてを立て直せるわけではない!」
声が大きくなっていく。
「私はグレイヴ領を守ろうとしただけだ!」
ラウグレン公がようやく口を開いた。
「領地を守るため?」
「そうだ!」
「領民のための金を、自分の私庫に入れておいてか?」
「…………」
グレイヴ伯爵の顔が固まる。
「違う。あれは――」
「やめろ」
ラウグレン公の声は低かった。
「今、お前が『領民のため』なんて言うな」
「ラウグレン公……」
「王家は何度もグレイヴ領のために金を出した。それを領地の立て直しに使わず、自分の私庫へ流したのは誰だ?」
「…………」
「それをやらなかったのは誰だと聞いているんだ」
グレイヴ伯爵は答えない。
「少なくとも、ハル領じゃない」
その言葉で、グレイヴ伯爵の視線が俺へ向いた。
「……お前が」
「?」
「お前たちハル家が……!」
俺を見る目が変わる。
「我が領の人間を奪わなければ、こんなことにはならなかった!」
「…………」
「仕事があるからと人を集め、こちらの働き手を奪った!」
さっきまでとは違う。
もう政策の話じゃない。
「お前たちさえいなければ……!」
俺は何も言わなかった。
「何とか言ったらどうだ!」
少し考える。
「もう、私と話すことではないと思います」
「なに……?」
「グレイヴ伯爵の件は、ここから先は司法院が扱います」
「…………」
「私から申し上げることはありません」
グレイヴ伯爵の頬が引きつった。
「リオン・ハル……!」
「グレイヴ伯爵」
ヴァレスト公爵が呼ぶ。
「行きましょう」
職員がもう一度近づいた。
「触るな!」
グレイヴ伯爵がその手を振り払う。
「自分で歩ける」
「では、こちらへ」
グレイヴ伯爵が歩き出す。
扉の前まで行ったところで、一度だけ振り返った。
陛下を見る。
でも陛下は、もうグレイヴ伯爵を見ていなかった。
ラウグレン公も何も言わない。
俺も黙っていた。
「…………」
グレイヴ伯爵が前を向く。
扉が閉じた。
部屋が静かになった。
少し前まで、あれだけ声が飛び交っていたのが嘘みたいだ。
「……今日はここまでにしよう」
陛下が言った。
「リオン」
「はい」
「今日はご苦労だった」
「ありがとうございます」
「ハル子爵にも、こちらから連絡を入れておく」
「よろしくお願いします」
人口流出を一律に止める案は白紙になった。
それだけでも、今日ここへ来た意味はあった。
ラウグレン公とヴァレスト公爵にも頭を下げる。
「失礼します」
俺は会議室を出た。
◇
王宮の外へ出ると、思わず声が漏れた。
「……疲れた」
冷たい風が顔に当たる。
寒いけど、気持ちいい。
王宮にいる間、ずっと肩に力が入っていたらしい。
ハル領の代表として、陛下とラウグレン公、そしてグレイヴ伯爵を相手に話した。
十五歳の俺には、なかなか重い一日だった。
「終わったのか……」
グレイヴ伯爵がどうなるのかは、まだ分からない。
これから司法院で調べられる。
爵位や領地の扱いも、その後だ。
でも、俺がやることはいったん終わった。
ローデン商会へ向かう。
◇
「ピー!」
支店へ入ると、ピコがすぐにこちらへ跳ねてきた。
「ただいま」
「ピー! ピー!」
「分かった、分かった」
抱き上げると、ピコが俺の胸元に顔を押しつける。
「遅かったな」
ヴィクトルが奥から出てきた。
「うん。いろいろあって」
「疲れてそうだな?」
「かなり」
ヴィクトルが俺の顔をしばらく見る。
「終わったのか?」
「……一つはね」
「そっか」
それ以上は聞いてこなかった。
助かる。
「そういえば」
ヴィクトルが窓の外を見る。
「お前、今日の夕飯どうする?」
「夕飯?」
「学院寮」
「あ」
忘れてた。
冬休みに入ったから、寮の食堂は閉まっている。
寮に残る学生もほとんどいない。
「何か買って帰ろうかな」
「なら食いに行かない?」
「いいの?」
「俺もそろそろ仕事終わるし」
「ピー!」
ピコがすぐに反応する。
ヴィクトルが笑った。
「こいつは行く気満々だぞ」
「食べるって言葉だけは分かるのかな」
「ピー!」
「絶対分かってるだろ」
少しだけ笑った。
「じゃあ行こうか」
◇
ヴィクトルに連れていかれたのは、王都の大通りから少し入ったところにある食堂だった。
貴族が行くような店ではない。
商人や職人らしい客が多い。
「ここ、父さんと王都に来た時に何度か来たんだ」
「へえ」
「肉がうまい」
「ピー!」
「まだ何も出てないよ」
ピコを膝の上へ乗せる。
しばらくすると、大きな皿に焼いた肉と野菜が運ばれてきた。
温かいスープとパンも付いている。
「ピー!」
「待って」
「ピー!」
「今あげるから」
小さく切った肉を少し冷ましてからピコへ渡す。
一瞬でなくなった。
「早っ」
「ピー!」
「もう一個?」
「ピー!」
ヴィクトルが笑う。
「こいつ、今日一日で一番幸せそうだな」
「羨ましいよ」
「そんなに?」
「うん」
俺も肉を食べる。
うまい。
朝からずっと緊張していたせいか、急に腹が減ってきた。
「で」
ヴィクトルがパンをちぎる。
「人口流出の話はどうなった?」
「一律に受け入れを止める話は白紙になった」
「おお」
「少なくとも、ハル領がグレイヴ領の人を雇っちゃいけないってことにはならない」
「じゃあ良かったじゃん」
「うん」
そこは素直にそう思う。
「良かったよ」
「なのに、その顔?」
「そんな顔してる?」
「してる」
ヴィクトルがスープを飲む。
「勝ったって感じじゃない?」
「……うん」
「なんで?」
俺は少し考えた。
「グレイヴ領の問題は、何もなくなってないからかな」
「問題?」
「仕事が少ないことも、水路や農地のことも」
「ああ」
「そこで暮らしている人たちの生活も、明日から急に良くなるわけじゃない」
悪い部分を取り除いたからといって、それだけで全部が立て直るわけじゃない。
そんなことは前の人生でも何度も見てきた。
何かを止めることと、新しく作り直すことは違う。
「だから、終わったって感じがしないのかも」
ヴィクトルが少し考える。
「でも、一個は終わったんだろ?」
「うん」
「だったら今日は、それでいいんじゃない?」
「…………」
「全部いっぺんに終わらせる必要ないだろ」
確かに。
「……そうだね」
「ピー!」
ピコが鳴いた。
ヴィクトルが笑う。
「ほら。こいつもそう言ってる」
「絶対言ってない」
「ピー!」
「肉くれって言ってる」
「それはたぶん合ってる」
また笑った。
久しぶりに、肩から力が抜けた気がした。
◇
食事を終えて店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
吐く息が白い。
「じゃあ、俺はもう少し商会でやることあるから」
「うん。今日はありがとう」
「何が?」
「ピコを預かってもらったし、夕飯にも付き合ってもらった」
「別に」
「ピー!」
「こいつも楽しかったみたいだしな」
「ピー!」
「じゃあ、また」
「おう」
ヴィクトルと別れ、学院へ向かう。
冬休みに入った王立学院は静かだった。
寮へ入っても、ほとんど人の気配がない。
食堂の扉にも休業中の札が掛かっている。
「食べてきて良かったね」
「ピー」
部屋へ戻り、ピコをベッドの上へ降ろす。
そのまま丸くなった。
「早いな」
「ピー……」
もう眠そうだ。
俺も椅子へ座った。
静かになると、さっきの王宮の光景がまた浮かんでくる。
『私は伯爵だぞ!』
『陛下!』
『ラウグレン公!』
あれだけ落ち着いていた人が、最後には王やラウグレン公に助けを求め、最後にはハル領のせいにした。
「…………」
少し前。
俺はヴィクトルの前で、妙な言葉を口にした。
やられたらやり返す。
倍返しだ。
どうしてあんな言葉が出てきたのか、今でもよく分からない。
結果だけ見れば、本当に倍どころじゃない形で返ったのかもしれない。
グレイヴ伯爵が止まったことには、ほっとしている。
人口流出を無理に止める話も白紙になった。
それでいい。
ただ、全部が終わったわけじゃない。
グレイヴ伯爵がどうなっても、グレイヴ領では明日も朝が来る。
畑へ行く人がいる。
店を開ける人がいる。
家族の飯を心配する人もいる。
その人たちの暮らしまで終わったわけじゃない。
「……今日はいいか」
ベッドを見る。
ピコはもう目を閉じていた。
今日は、一つ終わった。
今は、それでいい。
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