第229話 まずは「人」から
西の森前線町。
まだ正式な名前ではない。
父上に話してもいない。
領地の帳面にも、地図にも、そんな場所は存在しない。
けれど、あの場所はもう、ただの作業場ではなくなり始めている。
湯屋があり、水場があり、食事を取る場所がある。
木材置き場があり、荷車道が通り、作業員だけでなく冒険者や人足も出入りしている。
人が集まれば、そこには必ず流れが生まれる。
人の流れ。
物の流れ。
金の流れ。
そして、危険も生まれる。
だからこそ、町として見なければならない。
ただ、その言葉は重い。
町にするとなると土地の扱い、税、警備、商い、責任者、住む者の管理まで話が広がる。
今のハル領に、いきなりそこまで進める余裕はない。
木材、街灯、青輝石の販売で利益は出始めている。
だが、石切り場も、工房も、領都も、西の森も、どこも人と金を必要としている。
今すぐ大きな建物を作り、役場を置き、人を雇って町として整える。
そこまでの余裕は、まだない。
では、何から始めるべきか。
俺の中で、答えはほとんど決まっていた。
建物ではない。
まず、人だ。
西の森で働く人たちが、文字を読めること。
数を数えられること。
自分の名前を書けること。
危険の札が分かること。
荷車の数、木材の本数、食事代、賃金を間違えないこと。
町を作るなら、そこからだ。
◇
屋敷に戻ると、俺はすぐに父上の部屋へ向かった。
ノルとレナードも同行する。
母上は、いつものように父上のそばにいた。
父上は寝台に上半身を起こしていたが、顔色は良くない。
背も少し丸まり、息をするたびに肩がわずかに上下している。
昨日よりも疲れているように見えた。
「戻ったか、リオン」
声はかすれていた。
「うん。ただいま、父上」
母上が心配そうに俺を見る。
「西の森はどうだったの?」
「司法院の調査は進んでる。黒い魔石片の一部は王都へ送られることになった。
ガザルと思われる男も、王都から護送隊を呼んで移送する方向で話が進んでる」
父上は小さく頷いた。
「王都側は動いているのだな」
「うん」
俺は一度息を整えた。
「だから、ハル領はハル領でやるべきことを進めたい」
父上が俺を見る。
目に力がある、というより、意識をこちらへ向けようとしているのが分かった。
今の父上には、それだけでも体力を使うのだと思う。
「話せ」
短い言葉だった。
俺は頷いた。
「西の森を、ただの作業場として見るのはもう無理があると思う」
父上は黙って聞いている。
「湯屋があって、水場があって、食事小屋がある。木材置き場もあって、荷車道も通ってる。
作業員だけじゃなくて、冒険者や人足も来てる。中には、あの近くで泊まれないかと聞いてくる人もいるらしい」
母上が少し驚いた顔をした。
「泊まりたい人までいるの?」
「うん。今はまだ少ないけど、人が増えれば必ず出てくると思う」
俺は父上へ向き直る。
「だから、西の森を“町”として考えたい」
「町、か」
父上はゆっくりと言った。
その一言だけでも少し苦しそうで、母上がそっと背に手を添える。
父上は少し息を整えてから続けた。
「正式な町にする、という話か」
「今すぐじゃない。土地の扱いも、税も、警備も、商いも、まだ何も決まってない。だから、正式な町じゃなくていい」
「では、何をする」
「まずは、町のように人が集まり始めた場所を、壊れないように整える」
父上はしばらく目を閉じた。
眠ってしまったのかと思った頃、かすれた声で言った。
「金がいるな」
やはり、そこに来る。
俺は頷いた。
「うん。でも、最初から大きな建物を作るつもりはない。まずは安全と、人を育てるところから始めたい」
「人を育てる?」
「西の森で働く人向けに、夜学を作りたい」
父上の眉が、わずかに動いた。
「学校か」
「子ども向けの学校とは別。働く大人向け。仕事が終わった後に、短い時間で読み書きと計算を教える」
レナードが静かに帳面を開いた。
俺は続ける。
「危険の札を読む。退避場所を覚える。自分の名前を書く。数を数える。
木材や荷車の数を記録する。食事代や賃金を確認する。そういう、仕事に必要な文字と数から始める」
父上は、薄く開いた目で俺を見た。
「柵や見張りより、先に学びか」
「柵も見張りも必要だよ。
でも、人が読めず、数えられず、記録できなければ、町は回らない」
俺は少しだけ言葉を選んだ。
「西の森がただの作業場なら、責任者が何とかできるかもしれない。
でも、人が増えて、冒険者や人足も混ざるなら、現場の人たち自身が少しずつ分かるようにならないと危ない」
ノルが静かに頷く。
「退避誘導役にも、読み書きと数の確認は必要になりますな」
「うん。班ごとに誘導役を置くなら、その人たちには特に覚えてもらいたい」
父上はまたしばらく黙った。
呼吸が浅い。
母上が水を差し出す。
父上は一口だけ飲み、少しだけ顔を横に向けた。
「場所はどうする」
「最初は食事小屋か、湯屋近くの空いている小屋を使う。ちゃんとした校舎はまだ作らない」
「教師は」
「工房や文官の中から、読み書きと計算を教えられる人を探す。
現場の中にも、簡単な帳面をつけられる人がいるかもしれない。
最初は難しいことは教えない」
レナードが補足する。
「教材も、仕事で使う札や木板を使えば始められます。
紙を大量に用意しなくても、木板に書いて練習する形なら費用は抑えられます」
父上はレナードを見る。
「費用は」
俺はそこで、はっきり言った。
「初期費用は、俺が出す」
部屋の空気が少し止まった。
母上が俺を見る。
父上も、目だけをこちらへ向けた。
「お前の金か」
「うん。王都で冒険者として稼いだ分がある。
最初の木板、札、簡単な灯り、教師役への手当、夜学に必要なものは、そこから出したい」
「領地の仕事に、個人の金を入れるのか」
「勝手に使うつもりはないよ。ハル領への特別な拠出として、帳面に残してほしい」
レナードがすぐに反応した。
「では、“西の森夜学初期費用”として、リオン様個人からの拠出金に記録いたします。
領費とは分けます」
「それでお願い」
父上は小さく頷いた。
「混ぜるな」
声は弱かった。
だが、その一言ははっきりしていた。
「領地の金と、リオンの金を混ぜるな。後で誰が見ても分かるように残せ」
「はい」
レナードが頭を下げる。
父上は、また少し息を整えた。
母上が心配そうに肩へ手を添える。
父上はその手に軽く触れてから、俺を見た。
「リオン」
「うん」
「ありがとう」
声はかすれていた。
それでも、その言葉は胸に残った。
「あまり無理をするんじゃないぞ」
「分かった」
「だが西の森は、ハル領が長く持て余してきた場所だ。
お前がそこに道を作りたいなら……やってみるといい」
父上はそこまで言うと、少し苦しそうに目を閉じた。
母上がすぐに背を支える。
「今日はここまでにしましょう」
母上が静かに言った。
俺は頷いた。
「うん。父上、ありがとう」
父上は目を閉じたまま、ほんのわずかに頷いた。
それだけで十分だった。
◇
父上の部屋を出ると、レナードはすぐに帳面を開いた。
「確認いたします」
「うん」
「西の森前線町は、正式名称ではなく仮称。まずは区画整理と人の流れの把握に使う」
「そう」
「西の森夜学は、働く大人向け。内容は読み書き、計算、安全札、名前、数の記録」
「うん」
「初期費用は、リオン様個人からの拠出金。領費とは別管理」
「それでお願い」
ノルが言う。
「夜学を行うなら、夜に人が集まります」
「そこだよね」
「湯屋近くで行うなら、帰り道の安全も考える必要があります。
灯り、見回り、終了時刻。あと、火の始末です」
「授業だけじゃ済まないか」
「人を集めるというのは、そういうことです」
ノルの言葉は重かった。
たしかに、学校を作るというのは、先生と生徒だけの話ではない。
「夜学の日は、騎士の巡回を増やそう」
「承知しました」
「灯りも必要だね。青輝石を使うにしても、数は絞りたい」
レナードが書き留める。
「まずは湯屋近くと、帰り道の分岐に一つずつでしょうか」
「うん。あと、終了時間を決める。暗くなりすぎる前に終わらせたい」
「働いた後ですから、長くはできませんね」
「最初は三十分くらいでいいと思う」
長くやっても続かない。
疲れた大人に、いきなり勉強をさせるのだ。
大事なのは、できたと思えること。
自分の名前が書けた。
危険の札が読めた。
木材の数を数えられた。
そこから始めればいい。
前世でも、続かない仕組みは必ず崩れた。
最初から立派にしない。
小さく始めて、続く形にする。
◇
その頃、西の森側作業場では、司法院の調査官たちが初期報告をまとめていた。
調査官の一人が、木の机の上で書類を整える。
捕縛者について。
左脇腹の傷跡は、王都司法院の特徴書と一致。
灰狼の牙の頭目ガザル本人、または中枢人物として扱うに足る。
黒い魔石片について。
王都西南の森の件と類似。
一部を王都へ送付。
西の森襲撃について。
作業場だけでなく、開拓拠点の機能を乱す意図があった可能性。
貴族関与について。
現時点では未確定。
捕縛者の移送について。
追加護衛が必要。
王都司法院へ、正式な護送隊の派遣を求める。
調査官は書き終えた書類を封じた。
使者が受け取る。
「急ぎ、王都司法院へ」
「承知しました」
使者はすぐに馬へ向かった。
夕暮れ前の道を、早馬が王都へ向けて走り出す。
ガザルの件は、王都へ進んでいく。
黒い魔石片のことも、灰狼の牙のことも、司法院が追う。
だが、西の森をどう育てるかは、ハル領の仕事だった。
◇
屋敷では、レナードが新しい頁を開いていた。
そこに、丁寧な字で書かれていく。
西の森前線町。
西の森夜学。
初期費用。
俺は、その文字を見ていた。
町づくりと言っても、最初に作るのは大きな建物ではない。
まず、読み書きをできる人を増やす。
そこから始める。
働く人が、文字を覚え、数を覚え、自分たちの場所を少しずつ守れるようにするために。
町を作るなら、まず人からだ。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




