第20話 石切り場、再始動
翌朝、石切り場には、昨日までなかったものが三つあった。
縄。
表。
そして、順番だ。
崩れた坑道の前には立ち入り禁止の縄が張られ、木箱の前には兵が立ち、広場の中央には大きな板が立てかけられていた。
そこへ、ミアが朝から必死に文字を書いている。
「ええと……“今日の作業”……“入ってはいけない場所”……“ご飯の時間”……」
「字、もう少し大きく」
「わ、わかってます!」
筆を持つ手はまだ慣れないが、昨日よりずっと迷いが少ない。
その横で、若者たちが少し離れて見ていた。
エド、カイル、ロブ、それに南村と東の開拓地から来ていた者たち。顔にはまだ疲れが残っているが、昨日のような諦め切った目ではない。
「本当にやるのか」
誰かが小さく言った。
「やるよ」
俺は板の前に立った。
「まず決める。今日から、この石切り場では勝手に坑道へ入らない。崩れた本坑道と、その周りは全部封鎖。下の休み場につながる道も、ノルが点検するまでは立ち入り禁止」
エドが腕を組んだまま聞いている。
「じゃあ今日は何をする」
「坑道に入らなくてもできることをやる」
俺は板に書かれた簡単な図を指した。
「木箱の整理、石の仕分け、道具の点検、崩れた場所の外側の片付け。それから水と食事の場所を分ける」
「飯の場所を分ける?」
カイルが眉をひそめる。
「今までは石の粉が舞う場所でそのまま食ってたんでしょ」
「……まあ」
「だから咳がひどくなる。休む場所と作業する場所を分けるだけでも、だいぶ違う」
前世でもそうだった。
現場が荒れている時ほど、作業と休憩がごちゃつく。
その結果、余計に疲れ、余計に事故が増える。
改善っていうのは、最初から大きな魔法みたいに効くものじゃない。
まずは当たり前のことを、当たり前に戻すところからだ。
「あと、これ」
俺は布と革手袋を持ち上げた。
「青輝石を運ぶ時は、素手じゃなくこれを使う」
若者たちがざわつく。
「こんなの、今まで一度も――」
「布なんか巻いたら持ちにくいだろ」
「持ちにくくても使う」
はっきり言い切る。
「長く触って体を削る石なんだから」
そこでエドが、初めて周りへ向かって言った。
「昨日見ただろ。あの坊ちゃん、口だけじゃねえよ」
全員の視線がエドへ向く。
「俺も半分は信じてねえ。でも、前のままよりましなのは確かだ」
それだけで十分だった。
空気が少し動く。
誰かが手袋を受け取り、別の誰かが布を巻いてみる。
「……こんなもんで、本当に変わるのか」
「変えるんだよ」
俺が答えると、エドが小さく鼻を鳴らした。
◇
昼前には、石切り場の景色がもう変わり始めていた。
崩れた坑道の前から人がいなくなり、木箱の整理は広場の風上でやるようにした。
飲み水は日陰の側へ移され、食事を配る場所も粉塵の少ない端へまとめた。
前なら誰かが怒鳴り、誰かが走り回り、誰かが勝手に石を運び、全体が無駄に疲れていたのだろう。
今は違う。
「木箱はこっちに積め!」
「その道具はまだ使える、捨てるな!」
「布は青い印の箱の横に置いとけ!」
エドが声を張る。
その横でカイルが腕の痛みをかばいながらも、重い仕事じゃない仕分けをしていた。ロブはまだ咳き込むことがあるが、座ったまま帳面の数字と木箱の数を見比べている。
昨日まで借金のカタで働かされていた若者たちが、今日は自分たちで現場を整えている。
いい流れだ。
「リオン様」
ミアが帳面を抱えて駆け寄ってきた。
「今朝から動いた人数と木箱の数、合いました。あの……昨日までより、だいぶ落ち着いてます」
「うん。走らされてないからね」
「走らされてない……」
ミアは少し不思議そうに呟いた。
「急がせれば早くなるってものでもないんだよ」
俺は広場を見渡す。
「順番がある。無駄に人を動かすと、疲れるだけで全体は遅くなる」
前世でも何度も見た。
焦って全部を一気に片付けようとする現場ほど、同じ場所で人がぶつかり、ミスが増え、結局進まない。
逆に、やることを分けて、流れを作るだけで、人はずっと楽になる。
その時、ノルが戻ってきた。
「リオン様」
「どうだった?」
「下の休み場へつながる道は、もうしばらく封鎖したほうがよろしいかと。支柱の補強なしには危険です」
「わかった。しばらく地下は無しだ」
エドがそれを聞いて、少し驚いたように言う。
「地下を閉めたら、量は出ねえぞ」
「今は量より事故を止めるほうが先」
「……普通は逆だ」
「普通じゃなかったから、こうなったんでしょ」
そう返すと、エドは口をつぐんだ。
でも否定はしない。
代わりに少し間を置いてから、ぽつりと言う。
「前のやつらは、掘れって言うだけだった」
「うん」
「量が減るって言えば怒鳴った」
「だろうね」
「……お前は減っても止めるんだな」
「死んだらもっと減るよ」
エドは一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「違いねえ」
◇
昼になると、兵たちが簡単な粥と干し肉、野菜の煮たものを運んできた。
豪華ではない。
でも、ちゃんとした飯だ。
それだけで若者たちの反応が変わる。
「……あったけえ」
「昨日よりずっとましだ」
「こんなの、久しぶりに食った」
その声を聞きながら、俺は木箱の脇に座った。
青輝石は静かに青く光っている。
昨日までは、こいつは誰かの隠し財産だった。
でも今は違う。
正式に申請すれば、ハル領のものになる。
ちゃんと国に届けて、正しい形で利益に変えることができれば――北村と南村に返せる。
水路の修繕。
畑の立て直し。
人手の受け皿。
ぜんぶ、夢物語じゃなくなる。
「何見てんだ」
横にエドがどかりと座った。
「石」
「そりゃそうだろ」
「いや、こいつで何ができるかなって」
エドは粥をすすりながら、青輝石を見る。
「……売れば金になるんだろ」
「なる。たぶんかなり」
「じゃあ、それで終わりじゃねえのか」
「終わりにしたら、また同じになる」
エドが顔を上げる。
「どういう意味だ」
「石を売って終わりだと、その金が流れた先だけが潤う。村はまた人が足りなくなる。だったら、石で入った金を村に返して、人が村で食えるようにしないと」
少しだけ、前世の言葉になる。
「利益って、回して初めて意味があるから」
エドはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……難しいこと言うな」
「難しくはないよ。ここで働かなくても、北村や南村で食えるようになればいいだけ」
「それが難しいんだろ」
「うん。難しい。でもやる」
言い切ると、エドはまた小さく鼻を鳴らした。
「だから、まだ全部は信じてねえ」
「いいよ」
「でも」
そこでエドは木の椀を見下ろした。
「昨日より今日のほうがましなのは、本当だ」
それで十分だ。
◇
午後、ミアが再び帳面を持ってきた。
「リオン様。今のところ、残ると言ってる人が四人、村に戻りたい人が三人です」
「ちょうど半分か」
「はい」
「悪くないね」
全員がすぐ残ると言い出したら、それはそれで不自然だ。
帰りたい人間がいるのも当然。戻ってすぐに仕事があるか不安でも、家族のところへ帰りたい気持ちは消えない。
「戻る三人の村への連絡を急ごう。北村には先に伝えたい」
「わかりました」
「残る四人は、しばらく現場整理と安全確認。採掘再開はまだ先」
その時、兵の一人が急ぎ足で近づいてきた。
「リオン様」
「どうしたの?」
「王都へ向かう使者の準備が整いました。旦那様より、青輝石の件は本日中に発つと」
いい。
早いほうがいい。
向こうが動く前に、こっちが正式な線を引く。
「父上に伝えて。石切り場の現場は押さえたって」
「はっ」
兵が下がる。
そのやり取りを、若者たちが黙って見ていた。
王都へ申請する。
その言葉の意味を全部わかっていなくても、少なくとも“本当に話が進んでいる”ことだけは伝わったらしい。
石切り場の空気は、まだ不安定だ。
でも昨日までのように、ただ誰かに絞られるだけの場所ではなくなった。
エドが立ち上がる。
「リオン」
「ん?」
「明日、石を仕分けるなら、倉庫の奥に使える棚がある。前のやつらは面倒がって使ってなかったけど」
「じゃあ明日はそこからだね」
「……ああ」
自然な流れで次の話ができた。
それだけでも、大きい。
俺は青く光る木箱と、動き始めた若者たちを見た。
ここはもう、誰かの金儲けの穴じゃない。
ハル領の現場だ。
そしてようやく、止めるだけじゃなく、回し始められそうだった。




