第127話 芋とバター
翌日の放課後、Sクラスの空気は朝からどこか落ち着かなかった。
理由は単純だ。
昨日、俺が「明日食べてもらいたいものがある」と言って、肝心の中身を明かさなかったからである。
授業の合間にも、何人かがこっそり聞いてきた。
「で、結局何なんだ?」
「本当に食べ物なんだよな?」
「変な薬草煮込みとかじゃないだろうな」
そのたびに俺は曖昧に笑ってごまかした。
だから放課後になって、文化祭会議のためにまた皆が教室へ残った時には、昨日よりもずっと視線が集まっていた。
「さあ、出しなさい」
セレナが腕を組んで言った。
「リオンのとっておきとやらを」
「期待値だけ上がってるけど、大丈夫か?」
ヴィクトルが机に腰かけながら笑う。
「だめなら別の案を考えるだけだ」
ガイルはいつもの調子で言うが、視線はしっかりこちらを見ていた。
「私は楽しみにしています」
ナディアがやわらかく微笑む。
エドガーは何も言わなかったが、昨日より少しだけ興味を見せているように見えた。
俺は机の上に、持ってきた包みを順に置いていった。
じゃがいも。
塩入りのバター。
そして青葉草。
それを見た瞬間、教室の空気が微妙な沈黙に包まれる。
「……芋?」
最初に言ったのはヴィクトルだった。
「昨日も買ってたわね」
セレナが細い目でじゃがいもを見つめる。
「本当に、それなの?」
「それだよ」
答えると、数人が顔を見合わせた。
「待て」
クラスの一人が言う。
「まさか、蒸かし芋を出すつもりじゃないだろうな」
「それだと、さすがに弱いでしょう」
別の生徒も首を傾げる。
「だから、そのままじゃない」
俺は笑って言った。
「まずは作る。話はそのあとだ」
◇
文化祭準備のために学院から借りられた小さな調理室は、工房ほど広くはないが、火を使うには十分な設備があった。
俺たちはぞろぞろと移動して、台の周りへ集まる。
「で、何をするの?」
セレナが俺の手元を見ながら聞く。
「見てればわかる」
「それ、昨日からずっと言ってるわね」
言いながらも、セレナはちゃんと一歩下がって見やすい場所を空けてくれる。
俺はまずじゃがいもを洗い、鍋へ入れた。
「皮ごと?」
ナディアが少し驚いたように言う。
「うん。皮ごとの方が香りも残るし、崩れにくい」
「手順は多くないな」
ガイルが観察するように言った。
「そこが大事なんだよ」
火を入れて待つ間に、青葉草を細かく刻む。
包丁を使う工程はこれくらいで済む。
刻んだ青葉草を小皿へ置くと、セレナが少し身を乗り出した。
「その草、本当に使うのね」
「使う」
「香りづけ?」
「まあ、そんなところ」
バターは小さく切って別皿へ分けておく。
ヴィクトルがそれを見ていた。
「……なるほど。全部を一度に扱うんじゃなくて、先に小分けしておくのか」
「当日もそうするつもりだ。大きい塊をその場で切るより早いし、量もぶれにくい」
「そういうのは大事だな」
ヴィクトルが頷く。
「売る時に一番面倒なの、だいたいそこだし」
鍋から立ち上る湯気が少しずつ強くなる。
じゃがいもが柔らかくなるのを待ちながら、クラスの何人かはまだ半信半疑の顔をしていた。
「本当にそれで店になるのか?」
「でも、匂いは悪くないな」
その最後の一言を聞いて、俺は少しだけ笑う。
そう。
じゃがバターの強さは、言葉で説明するより、まず香りで伝わる。
やがて、木の串がすっと通るくらいまで火が入った。
「よし」
鍋からじゃがいもを上げ、布で軽く押さえる。
それをひとつ、皿の上へ置いて、真ん中から割った。
ほく、と音がしたような気がした。
中から立ち上る湯気に、教室の空気が少し変わる。
そこへ、小さく切っておいたバターを乗せる。
黄金色の塊が熱に触れて、じわりと輪郭を緩めた。
溶けたバターが割れ目へ流れ込み、じゃがいもの白い中身にしみていく。
「……あ」
誰かが小さく声を漏らす。
そこへ、塩をひとつまみ。
さらに、刻んだ青葉草を散らす。
湯気に混じって、芋の素朴な香りとバターの濃い香り、その上に青葉草の少し爽やかな香りがふわりと立った。
今度は、教室のあちこちで明確に反応が出た。
「ちょっと待って」
ヴィクトルが眉を上げる。
「それ、急にうまそうになったな」
「……悔しいけど、見た目も悪くないわ」
セレナが率直に言う。
「むしろ、湯気がある分、変に飾るよりずっと強い」
「香りが想像以上です」
ナディアが目を細める。
「温かくて、落ち着く匂いですね」
俺はそのままもういくつか作った。
定番のもの。
青葉草を少し多めにしたもの。
塩をやや強めにしたもの。
複雑な料理ではない。
でも、並べてみると、思った以上に表情が変わる。
「これで終わり?」
セレナが聞く。
「終わり」
「……本当に工程が少ないのね」
「だから出せると思った」
俺は皿を並べ、皆の方へ向けた。
「食べてみて」
◇
最初に手を伸ばしたのは、意外にもエドガーだった。
無言のまま一口食べて、少しだけ目を伏せる。
そのまま二口目へ行く。
それだけで十分だった。
「どう?」
ヴィクトルが面白そうに聞く。
エドガーは短く答えた。
「強いな」
いかにもこいつらしい感想だった。
「何の店なのか、一口でわかる」
続けてそう言う。
「温かい。香りが立つ。寒い時期に合う。」
「へえ」
ヴィクトルが感心したように笑う。
「そこまで言うの珍しいな」
「珍しいか?」
「珍しい」
次に、ヴィクトル自身が一口食べる。
ほくほくとしたじゃがいもが崩れ、溶けたバターが口の中へ広がる。
あとから青葉草の香りがふっと抜ける。
「……ああ、これか」
ヴィクトルが言う。
「止まらないな」
もう一口食べて、続けた。
「しかも、工程が少ない。これなら人数が来ても回しやすい」
皿の上を見ながら、商売人みたいな顔になる。
「味違いも作れるな。定番、香草、塩強め。これだけでも十分売れる」
「それに」
ガイルが食べながら言った。
「仕込みと提供を分けやすい。芋は事前に火を通せるし、当日は仕上げを中心に回せる。崩れにくいな」
ナディアも一口食べて、驚いたように目を丸くした。
「おいしいです……」
その言い方があまりにも素直で、思わず少し笑ってしまう。
「温かくて、ほっとします」
ナディアは続けた。
「それに、手が込んでいるわけではないのに、ちゃんと特別な食べ物に感じます」
「特別、か」
俺はその言葉を小さく繰り返した。
「はい」
ナディアは頷く。
「誰でも食べられそうなのに、でも、食べたことはない味です」
それは、かなり嬉しい感想だった。
セレナは少し遅れて皿を持ち上げた。
香りを確かめるように一瞬だけ目を細め、それから口へ運ぶ。
静かに噛んで、飲み込み、もう一口。
しばらく何も言わない。
「……どう?」
誰かが聞く。
セレナは皿を見下ろしたまま、少し悔しそうに言った。
「すごくいいわ」
その一言に、教室が少しだけ沸いた。
「そこまでか?」
「セレナがそこまで言うなら本物だな」
セレナは軽く息を吐く。
「悔しいけれど、見た目が素朴すぎると思ったのは間違いだった」
そう言って、皿を軽く持ち上げる。
「この料理、湯気と香り込みで完成してる。器と包み方、素朴だけど
、むしろ安っぽくならない」
そこまで言ってから、ちらりとこっちを見る。
「リオン、最初からそこまで考えてたでしょう」
「まあ、少しは」
「少し、で済ませないで」
でも、その声には怒りよりも感心の方が強かった。
クラスの他の生徒たちも次々に口にし始める。
「これなら寒い日に食べたいな」
「単純なのに、思ったよりちゃんとしてる」
「青葉草の香りがいい」
「芋って、こんな食べ方があるのか……」
否定的な声は、ほとんど出なかった。
◇
皿が一通り空になった頃には、教室の空気はもう昨日までとまったく違っていた。
文化祭の飲食店。
その中心に置くものが、初めてちゃんと見えたのだ。
「これ、名前は何て言うんだ?」
クラスの一人が聞く。
そこで俺は少し考えた。
前世なら、答えは簡単だ。
でも、この世界にはまだその呼び名がない。
「……芋とバター」
とりあえずそう言うと、ヴィクトルが吹き出した。
「そのまんまだな」
「まだ仮だよ」
俺も笑う。
「でも、わかりやすくはあるわね」
セレナが言う。
「少なくとも、主役が何かは一瞬で伝わる」
「文化祭用の名前は後で考えればいい」
ガイルが現実的に言った。
「大事なのは、これでいけるかどうかだ」
「そこは、もう十分見えた気がします」
ナディアがやわらかく言う。
エドガーが最後に一口分だけ残っていた皿を見て、短く言った。
「採用でいいだろう」
その一言で、クラス全体の流れが決まった。
異論は、もう出なかった。
◇
「じゃあ次は、味違いと飲み物か」
ヴィクトルが言う。
「そうね」
セレナも頷く。
「これ単体でも強いけど、店として仕上げるならまだ詰めるところはあるわ」
「包み方も考えないとな」
ガイルが黒板に目を向ける。
「持ち歩きやすさも必要だ」
「飲み物は温かいものが合いそうです」
ナディアが言った。
「寒い時期ですし」
文化祭まで、まだ少し時間はある。
だが、主役は決まった。
芋とバター。
素朴な名前のその料理が、教室の真ん中で、確かに次の形を取り始めていた。
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