第五十話 水底に揺れる影
──その子は、まだ十七にも満たぬ娘だった。
名は「お妙」。
香調室に所属する、まだ見習いの女官。
だがその小さな手が、
あの“毒香の帳面”を抱え、
裏木戸から姿を消したのは、三日前の夜だった。
発覚は翌朝。
帳面の一冊が紛失していることに、水月局は一言も騒がず、ただ静かに頷いた。
「よろしい。香の代わりに沈めましょう」
そうして、お妙の名も記録から消された。
***
朝霧がその話を知ったのは、
隔離先で渡された紙切れだった。
炊事場の隅に放置された古布の内側。
まるで“見られること”が前提のような、
絶妙な無防備さ。
開いたその紙に、ただ一行。
──「お妙、香調帳面持チ去リ。水月ノ命デ処置サル」
字が震えていた。
筆跡は若く、練れていない。
だが、その震えが何より真実だった。
「……帳面を、見たのね」
“水月局が、女たちに使っていた香”
“甘い名で呼ばれた毒”
“心を操り、熱を掻き立て、従属させる秘香”
朝霧の胸が、冷たく締めつけられる。
(あの方──篝火様にまで、かつてはそれが……)
思い出すのは、
かつて雪乃宮が膝の上で眠った夜。
なぜか彼女の髪から、
ほんの僅かに“柘榴”の香がした──
それは、欲と従順をかき乱す古香。
誰が、彼女に焚いたのか。
その答えは、すでに帳面の中にあるのだ。
***
雪乃宮──今は“篝火”として、
水仕えとして裏井戸の掃除をしていた。
水面を掬ったとき、
ふと視線の端に、落ち葉に混じる“紅い染み”を見つける。
(……血?)
違った。
手に取ると、それは乾いた“紅梅の押し花”。
思い出す名があった。
──紅梅局。
死んだはずの、女たちを操る“前時代の女帝”。
その傍らに、幼き少女が常に控えていたことを、
雪乃宮はずっと昔、ひとりの女中から聞いたことがあった。
「……あの子が、水月様だったんだわね」
静かに口元で言葉を転がす。
女の“香”は消せても、
記憶の香りは消せない。
お妙という少女の死が、
過去の亡霊を水底から引き上げていく。
***
その夜、ふたりは密かに短い時間だけ再会を果たす。
道具置き場の影。
ほんの束の間。
でも、何より必要な時間。
「……あの方は、“紅梅局の落とし子”でした」
朝霧が、懐から小さな紙を出した。
それは、紅梅局の命で調合された毒香の調合法──
だがそこには、唯一“私香”と書かれた頁があった。
その名は、「水月」。
つまり、水月局自身が“香そのもの”として育てられたという証だった。
雪乃宮は、その頁を震える指でなぞった。
「香にされたのね……人ではなく」
「香として、大奥に撒かれ続けた」
「その魂が、いまも毒を撒き続けている」
しばらくの沈黙。
ふたりの間を、夜の湿気がすり抜けていく。
やがて雪乃宮は、手に持った紙をゆっくりと折りたたんだ。
「ならば、終わらせましょう」
「香として生きさせられた命が、
これ以上、誰かの心を縛ることのないように」
「誰もまた、
お妙のように“消される女”にさせないように」
朝霧は、そっと雪乃宮の袖に触れた。
その柔らかさは、かつての姫ではなく、
今の“灯”としての彼女を思わせる。
「あなたが焚く香は、
人を支配するものではない」
「わたしは……それを知っています」
「だから、どうか──その香を絶やさないでください」
雪乃宮は、笑った。
悲しく、美しく、それでも強く。
「あなたが信じてくれる限り、
わたしは香り続けましょう」
「風のように。
夜の火のように。
誰かの心を、ただ、温めるために──」
(続く)




