↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『花檻(はなおり)の契り ──大奥百合絵巻──』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/81

第四十九話 囁く壁──女たちの眼と耳

──音のしない朝だった。


 


風もなく、鳥の声もなく、

ただ炊事場の湯気だけが白くのぼっていた。


 


その静けさを破ったのは、誰かの小さな囁き。


 


「……あの方の香り、まだ残っていたのよ」


 


「まさか、ほんとうに“篝火様”が……?」


 


井戸のそばで洗い物をしていた若い水仕えたちが、

背中を向けたまま、誰とも視線を交わさずに噂を交わしている。


 


「昨日の夜、わたし見たの。

 月明かりの下で……誰かと誰かが、手を握っていたのを」


 


「それが“あの方”だったのか?」


 


「名前も名札もないけれど……

 心が、なんだか確信してしまったの」


 


「──あれは、篝火様だって」


 


 


***


 


水月局の統制が揺らぎ始めたのは、

ほんの数日前のことだった。


 


一人、また一人と消えていく女たち。


 


それは粛清ではなかった。


 


“去った”のだ。


 


まるで、何かに目覚めたかのように。

まるで、“恐れ”が支配していた場所から、

ようやく自由になったかのように。


 


「……あの人たち、“影”だったよな」


 


「香の調合も、毒の管理も、全部水月局の命で……」


 


「それが今さら、泣きながら出ていったらしい」


 


「何を、見たんだろうな」


 


 


その問いに、誰も答えられなかった。


 


けれど、答えはきっと──心のどこかにあると、

名もなき女たちは思い始めていた。


 


 


***


 


篝火──かつて雪乃宮と呼ばれたその女は、

この日も水桶を運びながら、

その囁きの空気を、肌で感じていた。


 


言葉にはならない。

目も合わされない。


 


けれど、通り過ぎるときに、

誰かの手が、さっと桶の持ち手を支えてくれる。


 


沸かした湯が、そっと自分の茶碗に回される。


 


誰かが、廊下の隅で小さく礼をする。


 


それは、確かな“合図”だった。


 


(伝わっている……)


 


(この手の中にある灯は、確かに見られている)


 


 


ふと、片隅の壁に刻まれた小さな線刻が目に入る。


 


火の形。

それは、何日も前から少しずつ増えていた。


 


【篝火】を意味する、無言の“絵文字”。


 


言葉にすれば、また消される。

けれど、壁は聞いていた。

目は見ていた。

耳は覚えていた。


 


──この大奥のどこかに、

 “まだ消えていない人がいる”ということを。


 


 


***


 


朝霧もまた、動いていた。


 


隔離処置は解かれていない。

けれど、昼と夜の交代の隙間──

見張りの薄くなる時間に、彼女は記録係の女中へ文を託していた。


 


手紙は書かれていなかった。


 


ただ、小さな香袋ひとつ。


 


雪乃宮が“自分の存在を取り戻すため”に配合した、

独自の香。


 


白梅と梔子、そしてごく僅かな杜若と紫蘇。


 


それを手渡された女中は、

袋をそっと胸にしまいながら、

かすかに口元を緩めた。


 


「生きているのですね」


 


 


その香は、夜ごとに広がっていった。


 


誰が焚いたのでもない。

ただ、手から手へ渡され、

干し布に染み込んで、

誰かの袖に染みついて──


 


やがて、大奥中がその香りに気づきはじめる。


 


「……あの香り、懐かしい」


 


「名前は知らない。でも、忘れられなかった」


 


 


***


 


夜、篝火が灯を消したあと。

彼女の寝床に、小さな文が差し込まれていた。


 


“わたしは、あなたのために目を開けました”


 


“あなたの光がある限り、

 わたしは、立ち上がります”


 


──名もない、どこかの女官の文字。


 


だがその文字が、何より雪乃宮の胸に沁みた。


 


(わたしたちは、“見られている”)


 


(あのとき、すべてを捨てて契ったことが──

 誰かの、希望になった)


 


 


***


 


その夜、大奥の壁は確かに“ざわめいた”。


 


声に出せぬ声。

見ぬふりの視線。

張り巡らされた香の記憶。


 


すべてが、“水月局の支配”を揺らがせる最初の振動となっていた。


 


──影の火は、

 誰にも気づかれぬうちに、

 女たちの心を焚き始めていた。


 


(続く)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。